【嫉妬の章】熱に揺らぐ境界
空間は、歪んでいた。
上下の感覚が曖昧になる。
床はある。
だが、確信が持てない。
視界の端が揺れる。
「……っ、なんだこれ……!」
サミエムが体勢を立て直す。
諜報員の一人が膝をつく。
「空間干渉……いや、それだけじゃない……!」
灰崎は、動かない。
目を細める。
“色”が見える。
この空間の感情。
濁っている。
粘ついている。
そして――
(……削られてる)
違和感の正体に、気づく。
体の奥。
魔力。
それが、じわじわと減っている。
急激じゃない。
だが、確実に。
逃げ場がない状態で、ゆっくりと削る。
「……おい」
灰崎が低く言う。
「魔力、確認しろ」
サミエムが一瞬で理解する。
「……は?」
次の瞬間、顔が歪む。
「減ってる……!」
諜報員も気づく。
「……クソ、いつの間に……!」
その時。
空間の奥から、声がした。
「気づいた?」
軽い声。
あまりにも。
ヴェルディア。
「すぐには死なないよ」
一歩も姿を見せないまま、声だけが響く。
「ゆっくり削って」
「逃げられないようにして」
一拍。
「ちゃんと、見たいから」
ぞくり、と。
背筋が冷える。
サミエムが吐き捨てる。
「……趣味悪すぎだろ」
「だってさ」
楽しそうに。
「最後って、大事じゃない?」
歪んだ価値観。
だが。
理解できる。
こいつは。
“確認したい”。
自分の手で。
確実に。
奪いきったと。
灰崎は、周囲を見る。
壁。
床。
何もない。
だが。
(……違う)
何かある。
その時。
咳き込む音。
「……っ、ぐ……!」
若い諜報員が、膝をつく。
呼吸が荒い。
サミエムが顔を歪める。
「おい、大丈夫か!?」
返事がない。
代わりに。
空気が、重い。
(……毒)
灰崎の中で、確信が走る。
遅効性。
すぐには気づかない。
だが、確実に蓄積する。
「……吸うな」
短く言う。
「もう遅えだろ……!」
サミエムが歯を食いしばる。
もう一人の諜報員も、呼吸が乱れ始めている。
視界が、わずかに歪む。
体が重い。
魔力が削られ。
毒が回る。
時間が経つほど、不利になる。
完全な詰み。
普通なら。
だが。
灰崎は、目を閉じる。
ほんの一瞬。
感じる。
空間。
流れ。
そして――
“熱”。
(……暑い)
違和感。
この空間。
妙に、熱い。
汗が滲む。
だが、それだけじゃない。
空気が、揺れている。
微細に。
視界の端。
わずかな歪み。
(……蜃気楼)
思考が、繋がる。
光が歪む。
熱で。
なら。
「……サミエム」
低く呼ぶ。
「炎、出せるか」
一瞬、戸惑う。
「は? 今それどころじゃ――」
「いいからやれ」
短く、強く。
サミエムは、舌打ちして――
「……っ、分かったよ!」
手をかざす。
炎。
だが。
いつもより弱い。
魔力が削られている。
それでも。
十分だった。
炎の揺らぎ。
その熱で。
空気が、大きく歪む。
そして――
「……あった」
灰崎が呟く。
壁の一角。
そこだけ。
歪み方が違う。
不自然に。
一定に。
揺れている。
サミエムが目を見開く。
「……隠し……!?」
灰崎は迷わない。
踏み込む。
手を伸ばす。
触れる。
感触。
“ある”。
見えないだけで。
そこに。
押す。
軋む音。
空間が、わずかにずれる。
その瞬間。
「――あれ?」
ヴェルディアの声が、揺れた。
初めて。
“想定外”。
灰崎は振り返らない。
「行くぞ」
短く言う。
サミエムが笑う。
「やっとかよ!」
諜報員を引きずる。
毒で弱っている。
だが。
まだ動ける。
扉の向こう。
暗い通路。
だが。
“外”だ。
この空間から、逃れられる。
その直前。
「……待ってよ」
声が、近い。
すぐ後ろ。
ヴェルディア。
焦り。
わずかに混じる。
「ちゃんと、最後まで見せてよ」
その言葉に。
灰崎は、わずかに笑う。
「断る」
そして。
踏み込む。
空間を抜ける。
次の瞬間。
重力が戻る。
空気が変わる。
毒の濃度が、下がる。
だが。
完全に逃げ切ったわけじゃない。
分かっている。
これは。
“第一段階の突破”に過ぎない。
それでも。
確実に。
一つ、上を取った。
灰崎は、息を吐く。
(……見えたな)
敵の思考。
そして。
“穴”。
戦いは、まだ終わらない。
むしろ――
ここからが、本番だ。




