【嫉妬の章】奪われたもの
夜は、来ない。
シレヴァルトの空は、ただ青を保ったまま、光だけが鈍る。
時間の輪郭が曖昧になる。
だが――
今が“動く時間”だということだけは、全員が理解していた。
南区。
シレヴァルト駐屯南騎士団基地。
均一な石造りの建物。
高くはない。
だが、死角がない。
壁の角度。
窓の配置。
見張りの動線。
全てが“見渡すため”に設計されている。
「……ほんとに潜るのかよ、ここ」
サミエムが小さく呟く。
声は出さない。
口の動きだけ。
ヘリオが指で制す。
視線で伝える。
“当然だ”。
灰崎は、建物を見上げた。
感じる。
視線。
内側から。
外側から。
重なり合う監視。
(……だが)
完全じゃない。
完璧な構造でも、運用するのは人間だ。
そこに、歪みがある。
ヘリオが手を動かす。
合図。
散開。
影に溶けるように、三人が動く。
――侵入。
壁沿い。
視線の切り替わる一瞬。
そこに滑り込む。
サミエムが息を止める。
動く。
止まる。
動く。
リズムを合わせる。
内部。
静かだ。
兵の気配はある。
だが、雑音がない。
無駄がない。
それが逆に、不気味だった。
廊下を進む。
分岐。
ヘリオが紙に書く。
『地下』
リュミエラが頷く。
迷いはない。
その目だけが、強く燃えている。
階段を降りる。
空気が変わる。
湿っている。
冷たい。
そして――
鉄の匂い。
サミエムが顔をしかめる。
「……ここか」
奥。
鉄格子。
牢。
その一つに。
“それ”はいた。
リュミエラの足が止まる。
灰崎も、言葉を失った。
男が、座っている。
痩せている。
傷だらけ。
だが、それだけじゃない。
“軽い”。
存在が。
「……父様」
リュミエラの声が、震える。
男が顔を上げる。
「……ああ、リュミエラか」
その声は、穏やかだった。
優しい。
変わらない。
だが――
(……違う)
灰崎は感じる。
色が、ない。
正確には。
“薄い”。
積み重ねが見えない。
経験。
誇り。
意思。
それらが、削ぎ落とされている。
ただ、“形”だけが残っている。
サミエムが、言葉を失う。
「……なんだよ、これ」
アルヴェイン・カリエスは微笑む。
「無事でよかった」
言葉は正しい。
父として。
指導者として。
だが。
“重みがない”。
リュミエラの手が震える。
「……やめて」
小さな声。
「そんな顔で……そんな声で……」
近づく。
一歩ずつ。
「違う」
涙が、こぼれる。
「違う……!」
鉄格子を掴む。
「父様は……そんな軽い人じゃない……!」
アルヴェインは、困ったように笑う。
「何を言っているんだ」
優しい声。
だが。
その優しさすら、“空虚”だった。
灰崎は理解する。
(……奪われてる)
能力だけじゃない。
地位だけじゃない。
“積み重ねた価値”そのものが。
だから。
言葉は同じでも。
中身が、ない。
リュミエラが、崩れ落ちる。
「……これが」
震える声。
「これが……奪われた人……」
絶望。
理解してしまった。
敵の本質を。
サミエムが歯を食いしばる。
「ふざけんなよ……」
怒りが滲む。
だが。
どうしようもない。
ヘリオが静かに言う。
「時間がない」
現実を引き戻す。
リュミエラは顔を上げる。
涙で濡れている。
だが。
目は死んでいない。
「……連れて帰る」
震えながらも。
言い切る。
「このままにはしない」
鍵を開ける。
拘束を外す。
アルヴェインは抵抗しない。
ただ、従う。
その姿が。
余計に、痛かった。
灰崎は視線を逸らさない。
この現実を。
焼き付ける。
(……奪う、か)
静かに。
怒りが沈む。
表には出ない。
だが、確実に。
内側に。
積もる。
ヘリオが紙を差し出す。
『急ぐ』
頷く。
来た道を戻る。
背後で。
誰かの足音がした気がした。
気のせいじゃない。
この場所は――
“見られている”。
救出は成功した。
だが。
それ以上に。
理解してしまった。
敵の、本当の恐ろしさを。
戦いは、さらに深くなる。




