【嫉妬の章】湿地の気配
空は、やけに青かった。
雲一つない。
視界は開けているはずなのに――
息苦しい。
「……やっぱここ嫌いだわ」
サミエムが顔をしかめる。
足を踏み出すたびに、地面がわずかに沈む。
ぬかるみ。
水を含んだ土。
靴底にまとわりつく感触が、不快だった。
大湿原。
来る途中にも通った場所。
だが、奥に入ると別物だった。
空気が重い。
湿気が肌に張り付く。
呼吸が浅くなる。
風はあるのに、流れない。
「音が抜けない」
灰崎が呟く。
自分の足音が、どこかで止まる。
吸われるように消える。
拠点とは違う。
自然なのに、似た感覚。
「地形のせいだ」
ヘリオが言う。
「水分が音を殺す」
「便利だな」
「敵にもな」
短いやり取り。
三人は間隔を取りながら進んでいた。
視界は悪くない。
だが、見通しが効くわけでもない。
低木。
背の低い草。
点在する水たまり。
その全てが、死角になる。
サミエムが舌打ちする。
「戦いづれえな、ここ」
「だからいる」
ヘリオは淡々と答える。
「有利な場所を選ぶ」
「将軍ってやつか」
「ああ」
足を止める。
ヘリオがしゃがみ込んだ。
地面に触れる。
指先で泥をすくう。
嗅ぐ。
「……新しい」
短く言う。
サミエムが眉を上げる。
「何が」
「痕跡だ」
ヘリオは少し先を指した。
泥の上に、跡がある。
深い。
人より大きい。
爪が食い込んでいる。
「でけえな」
「単体じゃない」
さらに視線を巡らせる。
点々と続く。
複数。
だが――
「……揃ってる?」
灰崎が言う。
違和感。
バラバラではない。
間隔。
向き。
整っている。
「統率されてる」
ヘリオが答える。
「群れだ」
サミエムが笑う。
「ますます面白え」
だが、その目は油断していない。
むしろ鋭い。
周囲を警戒している。
灰崎は、別のものを見ていた。
色。
この場所の色。
濁っている。
人の街とは違う。
だが――似ている。
抑え込まれた感情のような、鈍い色。
(……繋がってるな)
確信に近い何かがある。
この湿地と、あの街。
別物ではない。
同じ“支配”の中にある。
「……来るぞ」
ヘリオが言った。
その瞬間。
空気が変わる。
音が、さらに消える。
風が止まる。
サミエムが剣を抜く。
灰崎も構える。
視界の端。
動いた。
低い影。
速い。
泥を跳ねる音すら小さい。
「――ッ!」
一体、飛び出す。
狼。
だが、人の形をしている。
筋肉が異様に発達している。
爪が長い。
目が光る。
ワーウルフ。
サミエムが踏み込む。
迎撃。
剣が走る。
斬る。
手応え。
だが。
後ろに下がる。
距離を取る。
「……様子見かよ」
一体ではない。
二体。
三体。
囲むように配置される。
だが、飛び込んでこない。
様子を見ている。
「賢いな」
サミエムが低く言う。
ヘリオは動かない。
ただ、観察している。
「本命は出てこない」
その一言。
理解する。
これは前座。
試されている。
灰崎は、その奥を見ようとした。
群れの向こう。
さらに奥。
見えないはずの場所。
だが――
感じる。
明確な“意志”。
強い。
重い。
全てを見下ろしているような気配。
(……いる)
確実に。
こちらを見ている。
そして。
その瞬間。
空気が歪んだ。
ほんのわずか。
だが、はっきりと。
サミエムが反応する。
「なんだ今の」
ヘリオの目が細くなる。
「……気づいたか」
「いや、なんか……」
言葉にできない違和感。
だが、それは確かに存在した。
灰崎は確信していた。
これは、ただの魔獣じゃない。
この湿地は。
この群れは。
“管理されている”。
「来るぞ」
ヘリオが言う。
今度は本気だ。
ワーウルフたちの動きが変わる。
低く、姿勢を落とす。
連携。
囲み。
逃がさない配置。
そして――
奥から、ゆっくりと。
一つの影が歩いてくる。
音がしない。
だが、存在だけで分かる。
重い。
他とは違う。
圧がある。
サミエムが笑う。
「お出ましか」
灰崎は目を細めた。
それは――
明らかに格が違った。
ワーウルフ。
だが、別物。
傷だらけの体。
深い眼光。
そして。
統率する者の気配。
「……ガルド・ヴェルガ」
ヘリオが呟く。
湿地将軍。
その名にふさわしい存在が、そこに立っていた。




