【嫉妬の章】沈黙の中で
シレヴァルトの通りは、相変わらず均されていた。
人は多い。
声もある。
だが、どこかで抑えられている。
笑い声は小さく、怒声は途中で消える。
歩幅すら揃っているように見えるのは、気のせいではない。
「……やっぱ慣れねえな」
サミエムが小さく呟く。
ヘリオは振り返らない。
「慣れる必要はない」
短く返すだけだ。
三人は人の流れに紛れるようにして進んでいた。
目立たない速度で。
目立たない姿勢で。
周囲と同じように。
突出しないように。
それだけで、神経を使う。
曲がる。
細い路地に入る。
さらに奥へ。
人通りが減る。
だが、完全には消えない。
視線はある。
意識は向けられていないようで、確実に存在している。
灰崎はその空気を感じていた。
見られている。
だが、誰にかは分からない。
特定できない。
それが余計に気味が悪い。
「……ここだ」
ヘリオが足を止めた。
視線の先には、一つの建物。
どこにでもある外観。
石造りの壁。
木の扉。
特別な装飾はない。
古くも新しくもない。
周囲の建物と何も変わらない。
「ここ?」
サミエムが小さく言う。
ヘリオは頷いた。
そして、何気ない動作で扉を叩く。
規則的な音。
一定の間隔。
ただのノックにしか見えない。
だが――
内側で、何かが切り替わった気配がした。
扉が開く。
中から現れたのは、普通の男だった。
無表情。
特徴がない。
視線だけが一瞬だけ三人をなぞる。
そして、何も言わずに道を開けた。
三人は中に入る。
扉が閉まる。
――その瞬間。
世界が、切り替わった。
音が消える。
外の気配が、断ち切られる。
空気が変わる。
重さが抜ける。
代わりに、閉じた感覚が生まれる。
灰崎は足を止めた。
床を踏む。
音が返らない。
吸われる。
「……完全に切ってるな」
低く呟く。
ヘリオが小さく頷く。
「外には漏れない」
室内は、普通だった。
机。
椅子。
棚。
生活感のある配置。
だが、その“普通”が逆に不自然だった。
ここだけが、街から切り離されている。
奥から人が現れる。
一人。
二人。
さらに別の扉からも。
気配が増えていく。
十人近く。
だが、誰も声を出さない。
ただ、視線と動きだけで意思を通している。
「遅い」
男が口だけを動かす。
声は出ない。
ヘリオが軽く手を上げる。
それで終わりだった。
会話は成立している。
だが、音は存在しない。
机に紙が広げられる。
筆が置かれる。
自然な流れで、文字が書かれ始める。
擦れる音だけが、わずかに残る。
サミエムがそれを見て、顔をしかめた。
「……全部これかよ」
思わず漏れる。
その瞬間。
空気が止まる。
全員の視線が、一瞬だけサミエムに向いた。
すぐに逸れる。
だが、その一瞬で十分だった。
サミエムは小さく息を吐く。
「悪い」
今度は声を抑える。
ヘリオは何も言わない。
ただ紙を一枚、滑らせた。
『慣れろ』
短い。
それで終わり。
サミエムは肩をすくめる。
灰崎は周囲を見ていた。
結界が幾重にも重なっている。
壁。
床。
天井。
この部屋全体が、一つの箱になっている。
外とは完全に遮断されている。
だが――
それでも、完全な安心はなかった。
ここもまた、“内側”にある。
あの街の中に。
紙が回る。
情報が流れる。
『南区画 巡回増加』
『夜間 変動あり』
『理由不明』
サミエムが覗き込む。
顔をしかめる。
「繋がらねえな」
灰崎も同じだった。
断片ばかりだ。
全体像が見えない。
ヘリオが地図を広げる。
シレヴァルトの内部。
区画ごとに細かく分かれている。
複雑だ。
意図的にそうなっているように見える。
ヘリオは紙に書く。
『中央ほど密度が上がる』
『ただし“見えない”』
サミエムが眉を寄せる。
「それもう分かってるって」
ヘリオは無視して続ける。
『問題は“感覚”』
灰崎がわずかに反応する。
ヘリオはそれを見て、さらに書いた。
『見られている』
『だが実体がない』
完全に一致した。
灰崎が感じているものと。
「気のせいじゃないのか?」
サミエムが小さく言う。
ヘリオは首を振る。
『全員が同じことを言う』
それで十分だった。
個人の錯覚ではない。
共有された違和感。
つまり――
何かがある。
だが、見えない。
灰崎は別の紙を手に取った。
そこには簡潔な記録。
『突出行動→消失』
『過度発言→不明』
『痕跡なし』
短い。
だが、重い。
「……消えてるのか」
誰も答えない。
沈黙が答えだった。
サミエムが低く言う。
「見せしめか」
ヘリオは一瞬だけ考え、書いた。
『違う』
さらに一行。
『“見せていない”』
サミエムの顔が歪む。
「どういう意味だよ」
ヘリオはゆっくりと書く。
『消えたことすら広がらない』
理解が落ちる。
この街は。
恐怖で支配していない。
恐怖を“感じさせない”ことで支配している。
だから人は。
自分で止まる。
自分で削る。
自分で均す。
「……気持ち悪いな」
サミエムが吐き捨てる。
誰も否定しない。
ヘリオは地図の中央を指で叩いた。
『ここが本命』
中央区画。
最も深い場所。
最も静かな場所。
灰崎はそれを見つめた。
近づくほどに。
この“見えない何か”は強くなる。
「いつ動く」
サミエムが聞く。
ヘリオは紙を一枚出した。
『まだだ』
さらに書く。
『準備が足りない』
灰崎はその言葉を受け止める。
ここからは積み上げだ。
戦力。
精度。
確実性。
全て。
最後に、ヘリオは一枚置いた。
『夜に動く』
短い。
だが、決定だった。
沈黙の中で。
全員が理解する。
灰崎は机の上の紙を見つめた。
断片。
繋がらない情報。
そして、その隙間にある違和感。
見えていない何か。
それが。
確実に、この街にはある。
この“普通の部屋”の中でさえ。
完全に逃れられている気がしなかった。




