【嫉妬の章】静かな村
森を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿った熱気が嘘のように引き、風が通る。
視界が開ける。
灰崎は思わず目を細めた。
光が眩しい。
だが――
「……なんか変だな」
隣でサミエムが同じことを言った。
目の前には小さな村があった。
畑がある。
木造の家が並んでいる。
煙突からは細い煙も上がっている。
一見すれば、どこにでもある田舎の村だ。
だが。
音がない。
人はいる。
畑を耕している男。
水を運ぶ女。
軒先に座る老人。
だが――
誰も喋らない。
風の音だけが通り抜けていく。
「静かすぎるな」
サミエムが小さく言う。
ヘリオは短く答えた。
「ここから先が、嫉妬帝の領地だ」
三人はそのまま村へ入った。
土の道を進む。
足音がやけに響く気がした。
村人の視線が刺さる。
一瞬だけこちらを見る。
そしてすぐ逸らす。
関わらない。
関わりたくない。
そんな空気。
灰崎は歩きながら、周囲を観察していた。
違和感の正体。
それは単純だった。
“声”がない。
生活音はある。
鍬の音。
桶の水音。
足音。
だが、人の声がない。
ありえないほどに。
その時、道の先で二人の男が向かい合っていた。
何かを話しているように見える。
だが声は聞こえない。
近づいて分かった。
紙。
筆。
文字を書いて、見せている。
筆談。
サミエムが息を吐いた。
「……徹底してるな」
ヘリオが頷く。
「大事な話は全部これだ」
「聞かれるからか」
「そうだ」
短い返答。
だがそれで十分だった。
灰崎は空を見上げた。
何もいない。
だが。
どこかで“聞いている”。
そんな感覚。
「どこまで聞こえるんだ?」
サミエムがぼそりと聞く。
ヘリオは少しだけ考えた。
「少なくとも、この村の中で声を潜めても無意味だと思った方がいい」
「……面倒だな」
「だから反乱は起きない」
ヘリオの声は平坦だった。
「起きても、すぐ潰される」
灰崎は歩きながら、もう一つの違和感に気づいた。
人の感情。
見える。
薄い色。
疲労。
諦め。
恐怖。
だが――
“絶望”ではない。
完全に壊されているわけではない。
ただ。
抑え込まれている。
息を潜めている。
そんな状態だった。
「圧政って感じじゃないな」
灰崎が言う。
「違うな」
ヘリオが答える。
「命令されるわけでもない」
「税が重いわけでもない」
「ただ――」
一瞬だけ言葉が止まる。
「気に入らないものを壊す」
それだけだ。
サミエムが眉をひそめる。
「一番面倒なやつだな」
誰も逆らえない。
逆らえば消される。
理由もなく。
だから誰も逆らわない。
それだけで支配は成立する。
三人は村を抜けた。
さらに歩く。
道は整備されている。
行き来はあるはずだ。
だが人の会話は少ない。
街道ですら静かだった。
やがて城壁が見えてきた。
嫉妬帝の首都。
高い壁に囲まれた都市。
門の前には衛兵が立っていた。
視線が鋭い。
だが特に止められることはなかった。
三人はそのまま中へ入る。
中も同じだった。
人は多い。
商人もいる。
露店もある。
だが。
活気がない。
声が小さい。
笑い声がほとんどない。
どこか全体が抑え込まれている。
灰崎は無意識に息を吐いた。
「居心地悪いな」
「だろうな」
サミエムも同意する。
ヘリオは前を見たまま言った。
「慣れるなよ」
「こういう空気に」
三人は街の奥へ進む。
やがて、ある一軒の宿屋の前で止まった。
看板は古い。
塗装は剥がれ、木はひび割れている。
客の姿はない。
窓も暗い。
「ここだ」
ヘリオが言った。
「……ほんとか?」
サミエムが疑う。
「昔はな」
ヘリオは扉に手をかける。
「大陸でも有数の宿だった」
そのまま押し開けた。
軋む音。
中は薄暗かった。
机も椅子も古い。
人の気配はあるが、静かすぎる。
カウンターの奥から、年老いた男が顔を出した。
三人を見て、わずかに目を見開く。
だがすぐに表情を戻す。
ヘリオが短く言う。
「三人だ」
男は無言で頷き、鍵を取り出す。
その動きにも無駄がない。
慣れている。
だが――
灰崎は感じていた。
この宿は、ただの宿じゃない。
空気が違う。
外よりも、さらに静かだ。
まるで――
“音を消している”ような空間。
ヘリオが小さく呟いた。
「……ここなら、大丈夫だ」
その言葉だけが、わずかに浮いていた。




