【嫉妬の章】大森林
ラクスウェルの城門を抜けた瞬間、街の喧騒が遠ざかっていった。
石畳の道はやがて土へと変わり、視界の先には濃い緑が広がっている。
大森林。
嫉妬帝の領地へ向かうための、最初の障害だ。
灰崎は歩きながら、軽く肩を回した。まだ体の奥に疲労が残っている。暴食帝との戦いから、それほど時間は経っていない。
だが動けないほどじゃない。
隣ではサミエムが空を見上げていた。
「こういう時ってさ、もっとこう……重々しい出発とかじゃないんだな」
「なんだそれ」
「英雄が旅立つ感じのやつ」
「そんな暇あるか」
灰崎が呆れる。
前を歩くヘリオが小さく笑った。
「だいたいこんなもんだ」
「帝王討伐なんてな」
軽い調子。
だが――
灰崎には見えていた。
ヘリオの背中に、淡くまとわりつく色。
灰色。
濁った霧のような感情。
焦り。
そしてその奥に沈む黒。
恐怖。
本人は隠している。
だが消えてはいない。
やがて三人は大森林の入口へ辿り着いた。
巨大な木々が空を覆っている。
光は遮られ、内部は薄暗い。
湿った空気が肌にまとわりつく。
「入るぞ」
ヘリオの一言で、三人は森へ足を踏み入れた。
地面は柔らかい。
落ち葉が音を吸い、足音はほとんど響かない。
だが静かではない。
気配がある。
視線がある。
森の中のあらゆる場所に、何かが潜んでいる。
数分進んだところで、低い唸り声が響いた。
茂みが揺れる。
現れたのは狼型の魔獣、三体。
牙を剥き、完全に戦闘態勢だ。
サミエムが前に出る。
剣を抜く。
「来るぞ」
次の瞬間、狼が跳んだ。
正面からの一撃。
サミエムが身体を捻り、刃を振るう。
血が飛ぶ。
だが、もう一体が横から迫る。
速い。
回避が間に合わない。
その瞬間、短剣が飛んだ。
ヘリオ。
魔獣の眼を正確に貫く。
残る一体が距離を取る。
様子見だ。
灰崎は動かなかった。
いや――動けない。
魂術。
使えない。
魂は感じる。
だが、触れられない。
(足りない)
感情が。
この程度の戦闘では、魂は開かない。
臨界に届かない。
最後の一体は森の奥へ消えた。
静寂が戻る。
「……普通に戦うしかないか」
サミエムが息を吐く。
「当たり前だ」
ヘリオが軽く言う。
再び進む。
森はさらに深くなる。
空はほとんど見えない。
湿気が増す。
気配も濃くなる。
やがて。
重い音が響いた。
木の影が揺れる。
現れたのは熊型の魔獣。
巨体。
筋肉の塊。
明らかに格が違う。
「でかいな……」
サミエムが呟く。
次の瞬間、熊が突進した。
速い。
巨体に似合わない速度。
サミエムが正面で受ける。
衝撃。
剣と爪がぶつかる。
「重っ……!」
押し込まれる。
ヘリオが側面へ回る。
だが熊が腕を振るう。
風圧だけで体勢が崩れる。
強い。
灰崎は歯を食いしばった。
(……まだだ)
魂は見える。
だが掴めない。
理由は分かっている。
自分の中の感情が足りない。
サミエムが弾かれる。
体勢が崩れる。
熊が追撃に入る。
「避けろ!」
ヘリオが叫ぶ。
短剣が飛ぶ。
だが外れる。
熊の爪が振り下ろされる。
その瞬間――
灰崎の中で何かが弾けた。
(やらせるか)
感情が跳ね上がる。
焦り。
怒り。
守る意思。
それが一気に臨界へ達する。
視界が変わる。
熊の魂が、はっきりと見えた。
荒く、巨大で、歪な塊。
灰崎は手を伸ばす。
触れる。
縛る。
一瞬。
熊の動きが止まった。
爪が空中で止まる。
ほんの刹那。
だがそれで十分だった。
サミエムが転がって距離を取る。
ヘリオの短剣が眼に突き刺さる。
咆哮。
熊が暴れる。
だがすぐに崩れ落ちた。
静寂。
荒い呼吸だけが残る。
「……助かった」
サミエムが言う。
灰崎は答えない。
視界が揺れている。
負担が大きい。
ほんの一瞬でも、代償はある。
「今の……」
ヘリオが言いかける。
「一瞬だけだ」
灰崎が遮る。
「長くは無理」
それ以上は言わない。
必要もない。
便利な力じゃない。
使える場面は限られている。
再び歩き出す。
空気は少し重くなっていた。
そして。
ヘリオの色。
灰色は消えていない。
だが、その奥にわずかに赤が混じっていた。
恐怖だけじゃない。
向き合おうとする色。
灰崎はそれを見て、何も言わなかった。
森はまだ続く。
その先にあるものを、誰もまだ知らない。




