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【暴食の章】暴食の果て

白い世界に、再び戻された。


上下も奥行きも曖昧な、何も存在しない空間。

音も匂いも、温度さえも感じない。


灰崎はしばらく立ち尽くしていた。


先ほど見た光景――

あの狭い部屋。

酒の臭い。

吐瀉物。

震える男。


それらがまだ頭の奥に残っている。


「……走馬灯、か」


ぽつりと呟く。


精神世界。

魂の奥底。


魂術師が他人の魂に触れた時、まれにこうして過去の断片が流れ込むことがある。


だが、灰崎はそれ以上考えなかった。


ここにいる理由は一つしかない。


ベルフェゴール。


その時だった。


少し先に、影があるのに気づく。


白い世界の中で、それだけが濁った色をしていた。


近づく。


すると、それが何なのか分かった。


「……おい」


ベルフェゴールが立っていた。


しかし、普通ではない。


彼の体には巨大な蛇の幻影が巻き付いていた。


黒い影のような蛇が、何重にも彼の身体を締め付けている。


喉を圧迫し、腕を絡め取り、胴を締め上げている。


まるで――


罪そのものが形になったかのようだった。


ベルフェゴールは苦しそうに息をしていた。


しかし、灰崎の気配に気づくと、顔を上げる。


そして、眉をひそめた。


「……お前」


かすれた声が漏れる。


「俺の走馬灯を見やがったな?」


灰崎は少しだけ首を傾げた。


「走馬灯……あれがそうか」


ベルフェゴールは舌打ちした。


「全く……これだから嫌なんだよ」


蛇がぎし、と締め付ける。


ベルフェゴールは歯を食いしばる。


「魂術師ってやつは……」


灰崎は黙って見ていた。


助け方が分からない。


というより、助けられるのかすら分からない。


ベルフェゴールは視線を周囲に向けた。


白。


白。


白。


何もない。


「しかし……」


彼は少し笑った。


「ここは何も無いんだな」


かすれた笑い。


「てっきりよ……」


蛇がまた締める。


息が詰まる。


「食の宝庫でも出てくるかと思った」


灰崎は黙ったままだ。


ベルフェゴールは続ける。


「俺の心に残った味は……」


少し目を閉じる。


「……あの味しかない」


遠い昔を思い出すように。


「それを追い求めて、色んなものを食べた」


声が弱くなる。


「甘いもの」


「辛いもの」


「肉」


「魚」


「珍味」


「毒」


「魔物」


「神の供物」


彼は小さく笑う。


「だがな」


蛇が締め上げる。


骨が軋む。


「それに匹敵する味は……」


「見つからなかった」


静寂。


灰崎は何も言わない。


ベルフェゴールは少しだけ目を細めた。


「……もういい」


肩が震える。


「もう俺の暴食は抑えられん」


蛇がさらに強く締め上げる。


「魂ごと喰われる」


息が乱れる。


「共倒れだな」


そして、笑う。


「ざまぁみろ」


そのまま、膝が折れた。


ドサッ、と音を立てて倒れる。


蛇はまだ巻き付いている。


だが、動きは弱い。


ベルフェゴールの呼吸は浅い。


「……腹が減った」


小さく呟いた。


「こんな感覚……」


かすかな笑み。


「……あの時以来だな」


その姿は――


なぜか、灰崎には


小さな子供のように見えた。


灰崎はしばらく立っていた。


助け方は分からない。


だが。


何か――


食べさせないといけない。


そんな気がした。


しかし、ここは精神世界。


何もない。


食材も。


皿も。


火も。


包丁も。


何も。


それでも灰崎は、何となくポケットを探った。


当然、あるはずがない。


そう思った。


だが。


指先に何かが触れた。


「……?」


取り出す。


小さな包み。


飴玉だった。


灰崎は思い出す。


「あぁ……」


朝。


クロノスがくれたものだ。


「持っておけ」と。


何気なくポケットに入れていた。


灰崎はベルフェゴールの側にしゃがむ。


蛇はまだ巻き付いている。


しかし動きは弱い。


ベルフェゴールは半分意識を失っている。


灰崎は包みを開いた。


透明な飴。


ほのかに香りがした。


少し強い清涼感のある香り。


ミントに似ているが、少し違う。


灰崎は静かに言う。


「食べろ」


そして。


ベルフェゴールの口に、飴を入れた。


カラン。


小さな音が鳴る。


飴が歯に当たる音。


しばらく沈黙。


その時。


ベルフェゴールの目が開いた。


「……」


舌がゆっくり動く。


味を確かめる。


そして。


目が大きく開かれた。


「……この味」


声が震える。


もう一度味わう。


清涼感。


強い香り。


舌の奥に残る、不思議な感覚。


完全に同じではない。


だが。


どこか。


どこかで。


「……似ている」


ベルフェゴールが笑った。


「あぁ……」


息を吐く。


「そうか」


遠くを見るように。


「こんなに……」


「近くにあったんだな……」


その瞬間。


白い世界が揺れた。


蛇がほどけていく。


霧のように消える。


ベルフェゴールの身体から力が抜ける。


そして。


世界が収縮していく。


白が、崩れていく。


遠くから光が差し込む。


灰崎はそれを見ていた。


そして。


どこかで。


誰かの夢が、静かに終わった。


それはきっと――


一人の子供の夢だった。


            暴食の章 完

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