【嫉妬の章】均衡の揺らぎ
帝王会議の間は、いつも通り静かだった。
巨大な円形の石卓。
七つの席。
だが、今日は一つの席が空いている。
アガペはそれを見つめ、静かに目を閉じた。
暴食帝の席。
そこに座る者は、もういない。
誰も口を開かない。
重苦しい沈黙だけが、広間を満たしていた。
最初に声を上げたのは、憤怒帝だった。
「……本当に死んだのか」
低く、押し殺した声だった。
怒りではない。
むしろ、困惑に近い響き。
アガペは視線を上げた。
「確認は取れている」
静かに答える。
「暴食帝は死亡した」
その言葉は広間に落ち、石の床へ沈んでいく。
再び沈黙。
七帝王。
この世界で最も強い存在。
互いに干渉せず、均衡を保ち続けてきた存在。
その一人が死んだ。
それが意味するものを、誰もが理解していた。
「……誰がやった」
傲慢帝が言った。
椅子に深く腰掛け、腕を組んでいる。
声音には興味が混じっていた。
まるで娯楽でも見ているかのように。
「それが分からない」
アガペは正直に答えた。
「現場は崩壊していた。証拠はほとんど残っていない」
憤怒帝が舌打ちする。
「ふざけるな」
拳が石卓を叩いた。
「帝王を殺せる存在など限られている!」
石の卓が震える。
アガペは何も言わない。
その通りだからだ。
帝王を殺せる存在。
それは。
帝王。
あるいは、それに匹敵する何か。
広間の空気が重くなる。
疑い。
それが、ゆっくりと広がっていく。
沈黙の中で、アガペは視線を巡らせた。
強欲帝。
マモン。
彼は椅子に浅く腰掛け、指で卓を軽く叩いている。
表情は読めない。
焦りも、怒りもない。
ただ、考えている。
いつものことだ。
次に、傲慢帝。
彼は薄く笑っていた。
「面白い」
小さく呟く。
「均衡が崩れるとはな」
憤怒帝が睨む。
「何が面白い」
「事実だろう」
肩をすくめる。
「我々は長く安定しすぎた」
アガペはその言葉を聞き流した。
視線を移す。
そこに座っているのは――
嫉妬帝。
ヴェルディア。
彼は一言も喋っていない。
細い身体を椅子に沈め、指を組んでいる。
顔は半ば影に沈んでいた。
視線は卓の上。
誰とも目を合わせない。
アガペは静かに観察する。
ヴェルディアは昔からそうだ。
会議でもほとんど発言しない。
他の帝王と関わることもない。
だが。
彼は、聞いている。
すべてを。
沈黙の観察者。
「……怠惰は来ていないのか」
憤怒帝が言った。
アガペは頷く。
「いつも通りだ」
怠惰帝は会議に来ない。
何度呼んでも。
理由は不明。
「ふん」
憤怒帝は鼻を鳴らした。
「どうせ寝ているのだろう」
誰も否定しない。
ある意味では、最も平和な帝王かもしれない。
しかし今は。
その不在が、わずかに不安を呼んでいた。
帝王が一人死んだ。
そして一人は現れない。
七帝王の均衡。
それが、静かに崩れ始めている。
「問題はこれからだ」
マモンが言った。
初めて口を開いた。
視線が集まる。
彼は椅子に背を預けたまま続ける。
「犯人が誰であれ」
「帝王が殺された」
「この事実は広まる」
確かに。
隠せるものではない。
「各国は動くだろう」
マモンの声は冷静だった。
「軍備を整え、警戒を強める」
「そうなれば」
「均衡は終わる」
広間が静まり返る。
アガペはゆっくり息を吐いた。
それが一番恐れていたことだ。
戦争。
帝王同士の戦争。
もしそれが起きれば、この世界は崩れる。
「避けなければならない」
アガペは言った。
「均衡は維持されるべきだ」
憤怒帝が笑う。
「理想論だな」
「現実だ」
アガペは答える。
「我々が争えば、世界は滅ぶ」
それは事実だった。
帝王は、力を持ちすぎている。
一人でも都市を消し飛ばせる存在。
それが六人。
もし戦えば。
地図が変わる。
沈黙。
誰も否定しない。
しかし、誰も同意もしない。
その時だった。
小さな声が落ちた。
「……均衡は」
ヴェルディア。
嫉妬帝だった。
全員の視線が向く。
彼は顔を上げないまま、呟く。
「もう崩れている」
静かな声。
しかし。
広間の空気が凍る。
憤怒帝が眉をひそめた。
「どういう意味だ」
ヴェルディアは答えない。
しばらく沈黙した後。
小さく笑った。
「一人死んだ」
「それだけで十分だろう」
アガペはその言葉を聞きながら、胸の奥が冷えるのを感じた。
確かに。
その通りだった。
均衡とは。
七人で成立していた。
六人ではない。
「……だから」
ヴェルディアはゆっくり顔を上げた。
暗い瞳。
その奥に、何かが揺れている。
「面白くなる」
傲慢帝が笑った。
「同感だ」
憤怒帝は舌打ちする。
マモンは何も言わない。
アガペだけが、静かに思った。
これは。
始まりだ。
長く続いた平和。
帝王達の均衡。
それが、いま。
静かに終わろうとしている。
そして――
その先に待つものを。
まだ誰も知らなかった。




