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【暴食の章】暴食の追憶

白い。


どこまでも白い世界だった。


空も地面も区別がつかない。

影も、遠近も、何一つ存在しない。


ただ、白い空間だけが広がっている。


灰崎はその中に立っていた。


音もない。

風もない。


世界が停止しているようだった。


「……ここが」


帝王の精神世界。


そう思った瞬間、胸の奥に妙な違和感が走る。


広すぎる。


そして――何もなさすぎる。


ベルフェゴールほどの存在の精神が、こんな空虚なわけがない。


灰崎はゆっくりと歩き出した。


白い地面を踏む音はしない。

歩いているのか、浮いているのかさえ曖昧だ。


どれくらい進んだのか分からない。


その時だった。


ぐらり、と視界が揺れた。


「……っ」


急に、めまいが襲う。


頭の奥が軋むような感覚。


視界が――


ぱち。


ぱち。


古い映像が途切れるように、光が瞬く。


世界が暗くなる。


そして――


暗転した。


***


気がつくと、灰崎は床に倒れていた。


硬い。


そして冷たい。


ゆっくりと身体を起こす。


そこは、狭い部屋だった。


薄暗い。

窓はあるが、カーテンが半分閉じられている。


床は散らかっていた。


コンビニの袋。

空き缶。

汚れた衣服。


ゴミがそこら中に転がっている。


鼻を突く匂いがする。


酒。

汗。

腐った食べ物。


いくつもの臭いが混ざり合い、不快感を覚えさせた。


「……なんだ、ここ」


灰崎は立ち上がる。


部屋は古びていた。


壁紙は剥がれ、床はきしみ、家具も安っぽい。


明らかに生活感はあるが――


どこか荒んでいる。


その時。


ガチャ。


玄関のドアが音を立てて開いた。


灰崎の身体がビクッと震える。


反射的にそちらを見る。


玄関に、男がいた。


ガタイのいい男だった。


だが姿勢は崩れている。


ふらふらと壁に手をつきながら、靴を脱いでいる。


酒臭い。


距離があっても分かるほどだった。


男は顔を上げた。


灰崎と目が合う。


一瞬、眉をひそめた。


そして。


チッ、と小さく舌打ちをする。


その態度に、なぜか胸が縮こまる。


灰崎は思わず目を逸らした。


その時。


ふと、自分の手が視界に入る。


小さい。


子供の手だった。


「……?」


灰崎は戸惑う。


身体も軽い。


視線も低い。


自分が小さくなっている。


いや――


違う。


これは、誰かの視点だ。


男は冷蔵庫を荒々しく開けた。


ガンッ、と扉が壁に当たる。


中から缶を取り出す。


酒だ。


プシュッ。


開ける音。


男はそれを、ぐびぐびと一気に飲んだ。


喉が鳴る。


だが、すぐに顔色が変わる。


男は顔を歪めた。


そして――


トイレへ駆け込む。


「……うっ」


吐く音。


苦しそうだ。


灰崎は、自然と立ち上がった。


そしてトイレの前まで歩く。


男の背中が見える。


震えている。


子供の手が、そっと背中に触れる。


さすろうとした。


その瞬間。


「触るな!!」


怒鳴り声。


男の腕が振り払われる。


灰崎の身体が弾き飛ばされた。


床に叩きつけられる。


痛み。


男の目が、こちらを睨んでいる。


「……邪魔なんだよ」


その声は、低く冷たかった。


その時。


誰かの声が、聞こえた。


静かな声。


どこからともなく語る。


「思えば――」


「これが初めて暴力を受けた」


灰崎は気付く。


これは――


記憶だ。


ベルフェゴールの。


***


それからは、酷いものだった。


ご飯はまともに食べられない。


テーブルに並ぶのは、残飯のような食事ばかり。


男が帰ってくる。


そのたびに、理由のない暴力を受ける。


怒鳴り声。


酒臭い息。


床に倒れる身体。


「……」


いつしか。


男が階段を上がる音を覚えた。


ギシ。


ギシ。


その音が聞こえると。


押し入れに隠れる。


そこが一番平和に過ごせる場所だと、理解した。


暗い。


狭い。


だが。


殴られない。


それだけで、十分だった。


***


ある日。


一日中家にいると、暇を持て余す。


子供心に、退屈だったのだろう。


少しだけ油断していた。


部屋の中を歩き回る。


そして。


男の部屋に入った。


そこには、いくつかのトロフィーがあった。


棚の上に並んでいる。


金色のトロフィー。


その一つを手に取る。


小さな弓の意匠が施されている。


かっこいい。


キラキラしている。


子供はそれを、ずっと眺めていた。


夢中になって。


だから――


気付かなかった。


「……何してる」


背後から、震えた声がした。


振り向く。


男が立っている。


帰ってきていた。


顔が歪んでいる。


怒りで。


その日。


暴力は、いつも以上に酷かった。


拳が飛ぶ。


身体が床に叩きつけられる。


鼻血が出る。


息ができない。


視界が揺れる。


意識が遠のく。


男が怒鳴っている。


「俺はなぁ!!」


唾が飛ぶ。


酒臭い息が顔にかかる。


「怪我という不運のせいで!!」


拳が落ちる。


「何もかも失ったんだ!!」


「やりたくもない清掃の仕事をしてるんだぞ!!」


肩で息をしている。


男の目は狂っている。


「栄光を見ないようにしてきたのに!!」


トロフィーを指差す。


「お前は!!」


声が震える。


「……あの逃げた女の残したお前が」


歯を食いしばる。


「なんで掘り起こしてるんだ!!」


怒りのままに叫ぶ。


息が荒い。


酒臭い。


子供の視界は、ほとんど暗くなっていた。


九割が闇。


それでも――


腹が鳴った。


ぐぅ、と小さく。


こんな時でも。


お腹は減るらしい。


男が、ふっと鼻で笑う。


ポケットから何かを取り出した。


小さな包み。


それを乱暴に開ける。


そして――


口に押し込んだ。


強い香り。


鼻を突く。


だが。


美味い。


とても美味い。


舌の上で、すっと広がる。


ミントの香り。


清涼感。


子供は、ゆっくり味わう。


この味を。


また。


味わいたい。


そう思った。


そして――


静かに、目を閉じた。

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