【暴食の章】王手
飛空艇は、まっすぐに突っ込んでいった。
迷いのない軌道だった。
巨大なヨルムンガンドの口が、ゆっくりと開く。
暗黒の洞穴のような顎。その奥で、瓦礫や建物の残骸が渦を巻いている。
そして――
飛空艇は、その中へ吸い込まれていった。
「……っ」
誰かが息を呑む。
巨大な顎が閉じる。
ズォォォォン…………
鈍い音が響いた。
街の上空に漂っていた飛空艇の影は、完全に消えた。
沈黙が落ちる。
灰崎は空を見上げたまま動けなかった。
今、目の前で。
クロノスが乗った飛空艇が――飲み込まれた。
「……終わったのか」
誰かが呟く。
だが。
ヨルムンガンドは――
まだそこにいた。
巨大な蛇の影は空を覆い続けている。
身体はゆっくりと街を這い、尾は遠くの建物を押し潰している。
消えない。
止まらない。
「……だめか」
灰崎の喉から、かすれた声が漏れる。
あれだけの物量を食わせた。
餓鬼の大樹。
街の建物。
そして、飛空艇。
それでも――
足りなかったのか。
ヨルムンガンドの頭が、ゆっくりと持ち上がる。
巨大な影が、再び街へ向こうとしていた。
その時だった。
ズ…………
蛇の身体が、止まった。
誰かが気付く。
「……あれ?」
ヨルムンガンドの輪郭が、揺れている。
霧のように。
影のように。
巨大な蛇の身体が、ゆっくりと崩れていく。
ズズズズズ…………
そして――
蛇の影が、引き寄せられるように一か所へ集まり始めた。
その中心。
そこに立っているのは。
ベルフェゴール。
巨大な魔王の身体へ、ヨルムンガンドの幻影が吸い込まれていく。
尾が消え。
胴体が消え。
頭が消える。
すべての影が、ベルフェゴールの身体へと収束していく。
「……止まった」
サミエムが呟く。
「暴走が……止まった」
確かに。
ヨルムンガンドは消えた。
世界を飲み込む蛇の影は、もう空にはいない。
街を覆っていた圧迫感が、わずかに軽くなる。
だが――
灰崎は、違和感に気付いた。
「……おかしい」
ベルフェゴールの身体。
その表面に――
何かが浮かび上がっている。
ギ……ギギ…………
肉が軋むような音。
そして。
皮膚の下から、何かが突き出した。
鱗。
黒い鱗が、ベルフェゴールの腕に現れる。
それは一枚ではない。
二枚。
三枚。
次々と増えていく。
腕だけではない。
胸。
首。
顔の横。
全身に、蛇のような鱗が浮かび上がっていく。
「……まさか」
灰崎の背筋が冷たくなる。
ヨルムンガンドは消えていない。
収まっただけだ。
ベルフェゴールの中に。
「……幻影が」
サミエムが言う。
「現実に出ようとしている」
もしそうだとしたら。
最悪だ。
ヨルムンガンドが完全に顕現すれば――
もう止める手段はない。
その時だった。
ベルフェゴールが、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
笑った。
「……おい」
低く、重い声が響く。
「侵略者ども」
その目が、灰崎たちを見下ろす。
「命が惜しければ」
ベルフェゴールは言った。
「逃げるといい」
口元が歪む。
「もっとも」
「無駄に終わるだろうがな」
鱗がさらに広がる。
身体が軋む。
背後の空間が、歪み始める。
「ヨルムンガンドが」
ベルフェゴールの声が低く落ちる。
「完全顕現すれば」
「他の帝王でも止められまい」
空気が震える。
圧力が、さらに重くなる。
灰崎の胸の奥で、何かが燃え上がる。
ここまで来て。
ここで逃げるのか。
クロノスが命を懸けた。
街が壊れた。
人が逃げた。
それでも。
まだ終わらない。
なら。
終わらせるしかない。
灰崎の感情は、頂点に達していた。
怒り。
恐怖。
焦り。
すべてが混ざり合い、ひとつの衝動になる。
灰崎は静かに言った。
「……いいや」
ベルフェゴールが眉を動かす。
「逃げない」
灰崎の足元に、光が浮かぶ。
術式。
複雑な紋様が地面に広がる。
サミエムが息を呑む。
「……灰崎」
灰崎の声は、震えていなかった。
「魂術」
光が強くなる。
空間が歪む。
ベルフェゴールの目が、初めてわずかに細められる。
「ほう」
灰崎の足元の術式が、完全に完成する。
「それが」
ベルフェゴールが呟く。
「お前の切り札か」
灰崎は答えない。
ただ、手を前にかざす。
そして――
発動させた。
光が爆発する。
世界が歪む。
地面が消える。
空が砕ける。
灰崎の意識が、深い場所へ沈んでいく。
帝王の精神へ。
ベルフェゴールの内側へ。
誰も踏み込んだことのない領域。
帝王の精神世界。
灰崎は――
初めて。
帝王に王手をかけた。
次の瞬間。
視界が開ける。
そこは――
ベルフェゴールの精神世界だった。




