【暴食の章】決死の突撃
避難は続いていた。
飛空艇の下で輝く転移ゲートへ、人々が次々と飛び込んでいく。
泣き叫ぶ子供、肩を貸し合う老人、荷物を抱えたまま必死に走る者たち。
その背後では――
ズズズズズ…………
大地が震えている。
ヨルムンガンドが、確実に近づいていた。
巨大な蛇の影はすでに餓鬼の大樹の上空を覆い、空を暗く染めている。
建物の影がその体の中へ吸い込まれていくのが見える。
「急げ!!」
誰かが叫ぶ。
だが群衆はもう限界だった。
恐怖と混乱、押し合いと怒号。
誰もが神経を擦り減らし、今にも理性が崩れそうになっている。
灰崎はその光景を横目に見ながら、別のことを考えていた。
――足りるのか?
餓鬼の大樹。
確かに巨大な食材の山だ。
だが冷静に見れば、その量はそこまで途方もないものではない。
控えめに見積もっても、小高い丘程度。
山一つを飲み込んだというヨルムンガンドに対して――
それだけで足りるのか?
不安が頭をよぎる。
だが、その答えが出るより先に。
「最後の一人だ!!」
叫び声が上がった。
転移ゲートへ飛び込む人影。
光が揺らぎ、静かに収束する。
避難は――完了した。
「乗れ!!」
クロノスが叫ぶ。
灰崎は飛空艇へ駆け上がる。
その直後だった。
ズォォォォォォン!!
巨大な蛇の頭が、餓鬼の大樹へ突っ込んだ。
飛空艇が慌てて浮上する。
逃げるように空へ舞い上がる。
その真下で。
ヨルムンガンドが――
喰らった。
餓鬼の大樹を。
巨大な口が開き、腐敗した食材の山へ噛みつく。
野菜、肉、穀物、袋、瓦礫。
何もかもが渦巻くように飲み込まれていく。
ゴォォォォォォォ…………
まるで嵐のような音だった。
飛空艇から見下ろすと、信じられない光景が広がっている。
あれだけあった食材の山が――
消えていく。
数分も持たなかった。
巨大な丘だった餓鬼の大樹が、みるみる削られていく。
「……早すぎる」
誰かが呟いた。
あっという間だった。
ほんの数分で、餓鬼の大樹は跡形もなく消えた。
だが――
ヨルムンガンドは止まらない。
むしろ。
「……速くなってないか」
灰崎が呟く。
蛇の動きが明らかに速い。
餌を得て、さらに活性化しているように見える。
食都の地形は円形だ。
中心にあるのは――
食都一番街。
その周囲を取り囲むように、街が広がっている。
餓鬼の大樹は、その円形の外周に沿って広がる地域だった。
「一周させる」
クロノスが言った。
飛空艇が旋回する。
街の外周をなぞるように飛ぶ。
その後ろを、ヨルムンガンドが追う。
蛇は進みながら、すべてを飲み込んでいく。
建物。
瓦礫。
街路。
倉庫。
すべてが影の口の中へ消えていく。
「何もかも食わせる」
クロノスの声は静かだった。
街が削られていく。
まるで巨大な消しゴムで世界を消されているようだった。
だが。
速度は落ちない。
それどころか――
さらに速くなっているように見える。
「まずいぞ……」
その時だった。
ヨルムンガンドの頭が、急に持ち上がった。
次の瞬間。
ズォンッ!!
蛇の口が、飛空艇をかすめた。
船体が大きく揺れる。
警報が鳴り響く。
「被害報告!!」
「右翼の羽が数枚損失!」
「外壁の一部が――」
「飲み込まれた!!」
飛空艇の外装が削れている。
巨大な影の顎が、ほんのわずかに船体をかすめただけでこの被害だ。
灰崎は思わず息を呑む。
――ここまでか。
そう思った、その瞬間。
船内に無機質な声が響いた。
『自動修復モード、起動』
一瞬、全員が固まる。
次の瞬間。
破損した外壁が、ゆっくりと再生を始めた。
金属が溶けるように形を変え、裂けた部分を埋めていく。
羽も、折れた根元から再び展開していく。
「……は?」
誰かが呟く。
飛空艇は数十秒も経たないうちに――
完全に修復された。
船体が姿勢を持ち直す。
揺れが収まり、安定した飛行に戻る。
灰崎はそれを見て、ふと考えた。
そして――
言った。
「……まだある」
操縦室の視線が一斉に集まる。
灰崎はヨルムンガンドを見る。
巨大な蛇の影。
まだ消えない。
「まだ、食わせるものがある」
誰かが聞き返す。
「何をだ」
灰崎は振り返った。
そして、飛空艇の床を軽く叩いた。
「これだ」
沈黙。
数秒の静寂。
そして――
「ふざけるな!!」
一人が叫んだ。
「どうやって食わせる気だ!!」
「そもそもこれがいくらすると思ってる!!」
「正気か!?」
反対の声が次々と上がる。
「突っ込ませるのか!?」
「そんなことしたら終わりだ!」
「全員死ぬぞ!!」
誰もが否定する。
声の内容は違う。
理屈も違う。
だが。
共通しているものがあった。
恐怖。
それだけだった。
灰崎は黙っていた。
その時。
一人だけ、違う表情をしている人物がいた。
クロノスだ。
彼は灰崎を見ていた。
そして。
小さく笑った。
「……なるほど」
その目には。
恐怖ではなく――
希望があった。
そしてもう一人。
サミエム。
彼は恐怖を抱えながらも、歯を食いしばっている。
逃げたい。
だが、逃げない。
恐怖に打ち勝とうとする――勇気の色。
クロノスが言った。
「いいだろう」
全員が振り向く。
「この飛空艇を突っ込ませる」
ざわめきが起こる。
クロノスは続けた。
「文句があるなら聞こう」
そして淡々と言った。
「操縦は私がやる」
「……!」
「この中で唯一、転移魔法が使えるのは私だ」
それは、あまりにも合理的な答えだった。
最後まで操縦できる。
そして最後の瞬間、転移で脱出できる。
クロノスらしい判断。
「だから」
クロノスがレバーを握る。
「文句は聞かない」
その瞬間。
視界が歪んだ。
灰崎は気付く。
転移魔法。
「おい待て――」
言い終わる前に。
景色が変わった。
灰崎たちは地上に立っていた。
食都の街路。
上空には――
飛空艇。
そして。
巨大なヨルムンガンド。
クロノスの声が、遠くから聞こえた。
「見ていろ」
飛空艇が加速する。
まっすぐに。
巨大な幻影へ向かって。
突っ込んでいった。




