バカじゃないことを証明せよ-⑧
今日だけで何度後悔しただろう。
エチカとともにおりてきた一階のリビングで、小夜子は頭を抱えていた。
食事に使う用のテーブルには一枚の問題用紙が置いてある。
エチカの貸してくれた2B鉛筆二本と芯を削るためのナイフ、消しごむを脇に添えて。
問題用紙が配られて一瞬後のことである。
最初から表を向いていた紙面を見たとたん、小夜子はあることに気がついた。
字が読めない。
エチカが対面の席に座る。
彼女はめがねとひまつぶし用の本を持っていた。
「じゃ、これからテストの内容を説明するわよ。質問は受けつけないから、そのつもりできいてちょうだい」
(うう~……字が読めない時点で詰んでるんですが……!!)
涙目になって小夜子はエチカを睨みつけた。
エチカは説明をはじめる。
小夜子の不平不満には――気づいている表情だった。
「かんたんなことよ。あんたがやるべきことは『バカでないことを証明する』これ一つ。それさえできれば合格よ。がんばってね♡」
にこりと最後に愛想のよい――それゆえに美人であることがはっきりとわかる微笑をこの場で一人きりの受験生に投げかけて、エチカはめがねをかけて読書をはじめた。
ごん。
小夜子はテーブルに額を打ちつける。
(くっそ~……なにが書かれてるかもわかんないのに正解を出せるわけがないじゃないですか!)
片手にぺらりと問題用紙を取って唇を噛む。
(はっ!)
小夜子の頭に閃きが走った。
読めても解けないとわかったのだ。
算術の記号とインド数字で書かれた式を見つけたが、ふくざつすぎてよほど訓練を積んだ学生でなければ解法するのはむずかしい。
「ああ、そういえばこれだけはあんたに言っておくべきだったわね」
ぴょこん!
小夜子は嬉々として顔をあげた。
耳をでっかくする。
この女にも世にも不公平極まる悪徳な試験において回答者にヒントをあたえるくらいの人情はあったのかと感心する――
「そのテスト、あんたくらいの年齢で全問正解した子もいるわよ。スピノザって言ってね、まあ近所のガキどもなんだけど」
終了。
エチカはふたたび黙りこみ、本を読むのにもどった。
(――だけかいっ!!)
小夜子は心のなかで血の涙をながす。滂沱と。
(なんなんですか!『全問正解した子もいるわよ~』って、わたしをばかにするためだけにこさえた情報垂れながして! つーかそれなら――)
沸点を越えてぴーぴー湯気を立てていた小夜子の脳みそが、急速に冷却されていく。
問題用紙をもう一度かくにんする。
表に問題と回答欄があり、裏にはない。まっしろ。
冷静になった頭で小夜子は考えた。
エチカを見る。
(待って。いじわるでこの女はわたしに読めないテスト用紙を渡したわけじゃない)
そう結論した。
なぜなら、
(たぶん……逆なんだ。読めなくても回答できる範囲の問題ってことなんだわ。ここに書かれている設問自体に意味はない――いや、もしあったとしても、それを使って『ばかではない』ことを証明することができなければ意味がない。もっと言ってしまえば、ここに書かれている問題に対して正確な答を出せたとしても、エチカの言うところの『ばかではない』ことを証明できていなければだめなんだ!)
小夜子は確信した。
(そしてわたし以前にもこの採用テストを受けた者がいて、その人は全問正解を出したにも拘わらずこの場にはいない。ひょっとしたらもともと非番の日とか、なんならわたしが担ぎこまれた時に追っぱらわれちゃったってだけかもしれないけど……だったらエチカは言うと思う――あ、いやちがう)
小夜子は仮定を固めていった。
牢屋での会話を思い出す。
エチカと王様が話していた内容――
――知ってるんだぜ? スピノザんとこの坊ちゃん嬢ちゃんがグチってるのを聞いちゃったんだ。君、従業員を募集してるんだって? 採用テストまで用意しての力の入れようなのに、全問正解しつづけている彼らを厄介払いしてるって話じゃないか――
――こちらの求める人材に合ってないってだけのことでしょ――
つまり、
(エチカは穴埋問題や計算問題の出来にのみ判断基準を持っているわけじゃない。すくなくとも、彼女は一緒にはたらくにあたって、べつの能力を候補者に求めている。そう、彼女の邪魔をしないような人材を)
ちらり。
あたりを見まわす。
試験官たるエチカは目のまえにいる。
本を読んでいる。ページをめくってくすりと笑う。
(なにを読んでるんだか)
小夜子はよそ見をつづけた。
本来なら「カンニングはなしよ」と注意を受ける場面だが、正面にいるはずのエチカはなにも言わない。
小夜子の挙動にきょうみがないのだ。
(ということは、あたりにはそもそもエチカの出題に対してきっぱりと答えが書かれているものはない。もしくは『そのへんを見るていどならかまわない』ってことかしら)
リビングにも本棚はあった。
どこまでの観察がゆるされるのかは不明である。
また、質問することも禁じられているため、ひかえめにざっとながし見るていどにする。
(この人すっごい乱読家だわ。って、あのタイトル、ナンバリング通りにならべてないじゃないですか。ぐちゃぐちゃだー、入らなかった分なんて本棚の上に積んでるし――あー!)
小夜子の実家にも本はたくさんあって、父親の書斎はとりわけ多種多様な書籍が詰めこまれていたのだが、きっちり整頓されていた。
その整った空間が好きで、安心できて、つい小夜子は長居をしてそのままお昼寝してしまうことも多かったのだが。
(魔窟だわ……エチカの本棚は魔窟っ!)
よく見ればタイトルの文字もめちゃくちゃだった。
大多数はおなじ種類の言語――おそらくそれがこの国フィーロゾーフィアの公用語だろう――なのだが、いくつかの書籍はちがう。あきらかに異なる語族の文字が散見された。
何冊か小夜子も見なれた漢字やひらがなで題名が記入されたぼろぼろの本もあったが、いまはなかをかくにんすることはできない。
それだけの勇気だか度胸だか図々しさを小夜子は持ち合わせていなかった。
(もうすこし踏みこんでエチカの反応を見てみるっていう意味で本を読もうとしてみるってのもありだけど、はきちがえちゃいけないわ、いま試されているのはわたしのほう)
これ以上に状況を倒錯させてまで調べるほどのことではない。
むしろ、
(そこまでしなきゃならないなら、わたしはばかの誹りを受けてもしかたがない。彼女の感情をいたずらに煽った挙句、揚げ足を取って目的を達成した気になるのは、わたしが一時的に彼女に勝った気になれるだけで、それはわたしを含めただれのためにもならない)
「のこり五分よ」
(ぎゃあああ!)
いきなり声をかけられておどろいたのとへんな条件をいきなりつけたされたのとで小夜子は絶叫した。
さすがに異議を申したてる。
「制限時間があるなんて聞いてないですよ!」
「いま決めたもの。あんたさっきからきょろきょろして余裕そうだったし」
(くっ……)
二人の会話はそれで終わった。
これ以上の問答に意味はないと判断したのだ。
特に小夜子は。
(書かなきゃ! わたしなりに一応の答えは出せる。そうよエチカは『わたしはあなたの邪魔は決してしません』なんて口先だけの誓約なんて求めていないしそもそもそんなの信じちゃいない。だからあとは――)
書く。
だけなのだが。
がくーっ!
小夜子は肩を落とした。
鉛筆を床に叩きつけなかった自分をほめる。
ほめちぎる。
心のなかで。
(字が書けない! いやあの〈渡煌石〉とかいうやつこの世界の人とコミニュケーション取れるようにしてくれるってゆーなら音声だけじゃなくて文字媒体でも取れるようにしてくださいよサービスわるいよわたしわりとクレームとか言うからねきっぱりと! 心のなかだけでだけど!!)
全身にだらだら汗をかいて、父からもらった大事な形見への苦情をひとしきり念波にのせてどこかへ送る。
(それにエチカのほうだって日本語は――)
はっ!
と頭に電流が走った。
鉛筆を持つ手に力が入る。
(そうだった、エチカはひらがなが読めるんだ。漢字だって読めてたじゃない)
まだ渡煌石が解放されるまえ。
エチカと国王が牢屋のまえで小夜子の生徒手帳を見てなにかを話していた。
ぜんぜんわからない異国風の言葉に混じって、つたなく発された認識可能な発音――通っている中学校の名前と所属しているクラス――が聞こえてきたが、あれはおそらく学生証を読みあげていたのだろう。
(なーんだ、だったらふつうに書いちゃえばいいんだわ。――っと、わすれるまえにこれだけはちゃんと書いとかないとね。『無記名だから不合格ね』だけは避けたい)
どこが記入する欄かはわからなかったが、それらしく仕切られた空白を見つけて、小夜子は――
(…………!!)
書きだしたそれを途中で消して、小夜子は書きなおした。
それから回答を書きつづる。
エチカを見る。
もうのこり時間は告げてこない。
(最後まで書くことは……できる。けど、エチカはこんな読みにくいの読むのかな? いくら本好きでも読みたくないものは読まない人なんていくらでもいる。こんな杜撰な作文なんてそれこそ見るだけ時間のむだってチラ見して捨てられそう……論文やレポートとしての体裁もなにもないわけだし――)
迷いながらも小夜子はひたすらに答えを書きなぐった。
読まれなかった場合。
くだらないと判じられた場合。
憶測とそれにともなう不安が脳裏を去来する。
刹那にフラッシュバックする、雲に突っこむ直前の会話。
――お星さまみたい。
空を巡る緑の石の群れをながめて、小夜子がつぶやいた感想。
(…………)
時間が来る。
「五分経ったわよ」
エチカが言った。
小夜子は鉛筆を止め、テスト用紙を彼女にわたす。
相手はテストの回答を見るなりげんなりとした。
(たぶん一目見て『うわあ』ってなったんだろうなあ……)
捨てる? 捨てない?
ぐんにゃりテーブルに突っ伏し、小夜子はわずかに目だけを上げて予想する。
解答用紙をエチカは捨てはしなかった。
いくらか答えを読んで、呆れたような、なんだかなあというような、眠気をこらえたような顔つきになる。
「いくつか訊くから答えてくれる?」
「わたしが説明できる範囲でよければ……」
重たい動きで顔を上げて、小夜子は弱気に言った。
どの質問からはじめたものか。
すこしエチカは考えて、
「これ、なんで全部ひらがなで書いてあるの?」
なめとんのか。
という目付きだった。
名前から回答の文章すべてが、ひらがなと句読点、終止符で構成されている。
エチカの非難は尤もだと小夜子は甘受した。
「……エチカが漢字を読めるっていうのは、実は牢屋でちょっと聞こえてたからわかるんですけど」
「ならなぜ?」
そこに答えを見いだそうとするかのように、エチカはひらがなだらけの表面を自分のほう向けなおした。
きっぱりと小夜子は返答する。
「わたしには、あなたがどこまで漢字を読めるのかがわからなかった。だってわたしの名前――『不知火 小夜子』は読めなかったもの。でも、ひらがななら全部読めるのかなって……」
「根拠を」
「そこの本棚にひらがなのタイトルがいくつかあるので……あと、かなり読み古してページがぼろぼろになってる感じだったから」
自分の細い顎に手を当ててエチカは沈黙した。
それから裏を返してつづきを見た。
「読みにくいわね」
「でしょうね」
「これを私が読まずに放置するとは考えなかったの?」
「……可能性としては、あると思いました。でも、あなたはたぶん読む方の人かなって……半ば賭けでしたけど」
「理由を」
「……」
小夜子は言うかどうか迷った。エチカの質問を真に受けたものか悩んだのだ。
「……その、これは覚えてるんですけど……お城から町のほうにくる時に、空に浮かんでいる緑の輝きの螺旋を見て、わたしは『お星さまみたい』って言いましたよね。あなたの説明を聞いたあとに。実際はちがうのに」
「ええ」
「でも、あなたは決して『それはちがう』と否定して、わたしの認識を矯正したりしなかった。『その解釈でもかまわない』と言ったんです」
エチカは無言だった。
小夜子はそれを「つづけろ」と受け取った。
「だから聞いてくれる人だって思ったんです。知ろうと努める人だと思った。どんなに稚拙な意見でも、蔑ろにせずに……」
エチカ本人をまえにこれを言うのは勇気が言った。
小夜子は自分のやることや自分の考えをほめたり内省するのはお手のものだが、他人の言動に対してはそのかぎりではない。
他人の能力を信じていないのだ。
いつだって自分はできる人で、相手は自分より劣ると決めてかかっている。小夜子もそれは自覚している。
正確には、そこまで敬える人物に会う機会がなかった。
ただ一人、父だけはちがったが。
エチカは「そうか」と言った。唸るように。
なにやら合点して、テスト用紙を折りたたむ。
「ご慧眼、いたみいるわね」
ぽいっとデスクの足元にある屑籠に捨てる。
(落ちたーーーー!!)
小夜子は自分の顔を両手で押さえてまっさおになった。
路頭にまよってぼろをまとって裸足で雪のなかをマッチ片手に歩きまわる自分のすがたを想像する。フィーロゾーフィアはまだ初夏だが。
「とりあえず、掃除とかお会計の番からやってもらいましょーか。体調のこともあるだろうから、三日は休んでていいわよ」
「はっ!」
涙目のまま小夜子はうめいた。
ずるずるテーブルに身を這い出してエチカにかくにんする。
「落ちたんじゃないんですか?」
「雇うわよ。ひとまずはね」
「はああ……」
小夜子の全身から力が抜ける。
「よかったー、このお姉さんのつかいっぱしりになるのはやっぱりいやだけど」
「本音を押しかくすくらいはしなさいよ」
「ぎゃー! 盗み聞きなんかしないでくださいよはしたない!」
「あんたに言われたかないわよ。私と救急で来た医師との話を薄目あけて聞いてたくせに」
(ば……ばれてたんだ……)
小夜子はがっくしと項垂れた。
ともあれ、この世界での生活について一応の安全が確保できたということで、すっかり気抜けしてテーブルにつっぷす。
つめたい天板にほっぺたをくっつけて、はあ~と安堵の息をつく。
「つーか、あんたの洞察力と機転のよさ、それに慎重さには度肝を抜かれたんだけどさ、いまひとつ決定打に欠けるのよね……ってわけで、しばらくしたら再試験するつもりだから――って聞いてないわね。おーい」
「はあい?」
極度の緊張から解きはなたれて頭のなかがふわっふわになっていた小夜子はふわっふわな返事をした。
エチカは半眼になって改めて伝える。
「これは合格じゃなくて保留ってことだからね。雇用は一時的なもので、一カ月後にあらためてテストするから、それまでにはちゃんと勉強しとけって言ったのよ。うちは錬金術で食ってる店なんだから、あんたも見習いの錬金術師としてそれなりに訓練をやっとくよーに。わかった?」
「ええはいもちろんっ、わかりましたよー」
頭に片手をやってラジャーと敬礼までして小夜子は承った。
――『再テスト』に関する記憶は一晩ぐっすり寝てしまうと小夜子の頭からすっぽ抜けた。
エチカはその後、一度もこの話を蒸しかえしたりしていない。
いずれにせよ、こうして小夜子はエチカの店に一時採用され、二階の一室に居候することとなったのだった。




