13 今はいいんだ
翌日のお茶会のメニューは、いつかのバターつきトーストと紅茶だった。
あの日のようにパイロットたちは怪訝な顔をしたが――テニエルはカガミに昨日の礼などもちろん言わなかったが、精神的ダメージは残っているのか、顔色は非常に悪かった――やはり二人の給仕には何も言わなかった。
その給仕たちと入れ違うように入室してきたアリスは、ここ最近は毎日服装を変えていたのに――テイラーの一推しはやはり〝ゴスロリ〟である――あの青いエプロンドレスを再び身にまとっていた。
この時点でテイラーも何かあると思っていたが、まさかこれが最後のお茶会になるとは予想だにしていなかった。
「ごきげんよう」
いつものようにアリスは悠然と微笑むと、いつものようにアシュトンに椅子を引かれて着席した。
「昨日はいつにもましてお疲れ様。でも、安心して。あなた方にあのような思いをさせることは、もう二度とないわ」
カガミ以外のパイロットたちが、困惑したように互いの顔を見合わせる。
カガミは普段どおり、膝の上のチェシャを撫でていた。しかし、彼はアリスの言葉に疑問を持たなかったわけではなく、そもそも最初から耳に入っていなかったようにテイラーには見えた。
と、アリスがカガミを見た。そして、これまでナイトリー以外、誰も彼に言わなかったことを口にした。
「ねえ、カガミ氏。ダイナを抱かせてもらってもいいかしら?」
ここで自分に話しかけてくるとは思っていなかったのか――たぶん、テイラーも含めて誰も思っていなかった――カガミはすぐには反応しなかった。が、ナイトリーの代行には逆らえないと判断したのか、「ああ」と短く答えてチェシャの両脇をつかみ、アリスに突き出した。
「ありがとう」
アリスは愛想よく礼を言い――ここはぜひともテニエルに見ならってもらいたい――チェシャを抱き取って、自分の膝の上に乗せた。明らかに猫を扱い慣れている人間の仕草だった。
「おお、アリスがダイナを抱いている! 夢の光景!」
ルイスが感動したように誰にともなく言った。確かに、アリスマニアにとっては夢の光景かもしれない。本の中でアリスがダイナを抱いているシーンがあったかどうかは覚えていないが、現実にあったらこんな感じだろう。
「写真撮りてえな」
頬杖をつきながら、クロフトがぼそりと呟く。こちらは違う意味でアリスマニアかもしれない。最近〝センター〟の公園のベンチでアリスとデートしているとひそかに噂になっていた。ただし、いつもアシュトンつきだそうだ。いろいろな意味で安心である。
さすがにテニエルは何も言わなかったが、美少女が猫を抱いている姿は犬好きにも好ましく思えるらしく、わずかに表情を和らげてアリスを見ていた。
「ねえ、ダイナ」
カガミのようにチェシャの脇下に手を入れて、アリスはにこやかに話しかけた。
「あなた、今幸せ?」
思わず、テイラーはアリスを凝視した。カガミもアリスを見たまま固まっている。だが、アリスに見つめられたチェシャは、ダイナのようにみゃあと鳴いた。
もちろん、テイラーには何と言っているのかわからなかったが――たぶん、カガミにもわからなかったと思う――アリスにはわかったようで、「そう。よかった」と微笑んだ。
「なら、もう終わりにしてもいいわよね?」
テイラーとカガミだけでなく、その場にいた全員――アリスと彼女の後方で目を伏せて立っているアシュトン以外の全員が表情を変えた。
この質問にも、チェシャはみゃあとだけ答えた。彼は最後までダイナを演じきるつもりらしい。テイラーには先ほどとまったく同じようにしか聞こえなかったが、アリスの赤い唇は満足げに弧を描いた。
「カガミ氏。ありがとう。あなたのダイナ、お返しするわ」
しかし、アリスはチェシャが何と言ったのかは解説せずに、チェシャの正面をカガミに向けて差し出してきた。
小荷物のように扱われるのは不本意のようで、チェシャは尻尾をぶんぶん左右に振っていたが、カガミは何も言わずに腕を伸ばして彼を受け取り、また元のように自分の膝の上に乗せた。
それを見届けるとアリスは席に座り直し、今度は自分の前方の壁にある白い丸時計に目を向けた。つられてテイラーたちも見てしまったが、まだ十五:一〇にもなっていなかった。
「エドウィン。起きて」
時計を見すえたまま、はっきりとアリスは言った。あわてて彼女に視線を戻してみれば、しごく真剣な表情をしていた。
「私はあなたが活動できなくなった間だけの期間限定の代行のはずよ。もう復帰できるでしょう。起きなさい」
この少女型アンドロイドは狂ってしまったのではないか。テイラーがそんな恐怖を抱きかけたとき、この会議室に設置されたスピーカーから、聞き覚えのありすぎるあの声が返ってきた。
『うーん。私は君のほうがここの責任者にふさわしいと思うんだけど。代行辞めて代表にならないかい?』
「博士!」
スピーカーに向かってそう絶叫したのは、意外なことにテニエルだった。ルイスやクロフトも驚いてはいたが、彼ほど度を超してはいなかった。
本当はテイラーたちも、ルイスたち程度には驚いたふりをするべきだったのだ。が、なまじその声の正体を知っていたために、ああ、本当にアップロードは完了していたのか――そして、アリスはそれを知らされて、今演技しているのかという、納得とも諦観ともつかない表情しか浮かべることができなかった。
「それがあなたの命令なら従うけど、まずはあなたの口から彼らに説明するべきじゃないかしら?」
アリスは軽く嘆息すると、うつむいたまま肩をすくめた。
『説明か。私は本当に説明が苦手なんだけど……』
チェシャと同じ声で、同じ口調で、同じことを言う。だが、テイラーにはどうしても同一のものとは思えない。いや、思いたくない。
そう思った瞬間だった。昨日も聞いた警報が、テイラーに同意するかのようにその声を遮った。
『第四宙域にⅡ型が二体、Ⅲ型が一体出現しました。現在、第五防衛ラインが応戦中。駆逐機の緊急発進を要請します』
「何、その組み合わせ!」
呆れたようにルイスが叫ぶ。組み合わせよりも、とうとう別種が一緒に出現したことに脅威を覚えるべきではないかとテイラーは思ったが、とにかく四人のパイロットたちは一斉に立ち上がった。
「あなたたちは行かなくていいわ」
一人席についたまま、冷然とアリスが言った。
「いや、でも、行かなきゃまずいだろうがよ」
珍しくクロフトが言葉足らずな反論をする。それだけ動揺しているのだろう。
「いえ、本当に行かなくてもいいの。あなたたちが搭乗しなくても、彼らはもう動けるから」
「は?」
「エドウィン。説明してあげてちょうだい」
『また説明か……』
エドウィン・ナイトリーの声がうんざりしたように呟いた、そのときアリスの背後にあった白壁が唸りを上げて上昇し、その下から巨大なパネル画面が現れた。
画面にはすでに映像が映し出されていた。カタパルトの天井に取りつけられたカメラからの映像だろう、均等に四分割された四角形の中に、人型兵器が一体ずつある。そのどれもがすぐに出撃できる直立状態にあったが、ほぼ同時に動いて前傾姿勢をとった。
「何で?」
そう声に出したのはルイスだったが、依然として前を向きつづけているアリスとアシュトン以外は、皆そう思っていたに違いない。
人型兵器四体はあっというまに画面上から消えた。しかし、ほどなく外部に設置されたカメラ視点に切り替わった。人型形態から航行形態に移行した人型兵器たちは、グリフォンの青い空に吸いこまれるようにして消えていった。
『百聞は一見にしかずだと思って』
ナイトリーの声は少々ばつが悪そうにそう言ってから、呆然としているパイロットたちに『とにかく一度座って』と優しく命じた。
『きっとものすごく驚かせてしまったと思うけど、本来、人型兵器にパイロットは必要ないんだ』
どこかにカメラが仕掛けてあるのか、ナイトリーの声はパイロット全員が着席してから静かに語りはじめた。
『いや、むしろいないほうがいい。下手に人を乗せれば、今度はその命を守るために無駄な金や技術が必要になる。でも、あの人型兵器の敵は未知の生物だったからね、どうしても戦い方のノウハウやデータの蓄積が必要だった。つまり、私は君たちにあの機体に乗って戦ってもらうことによって、君たちの擬似人格をあの中に形成させていたんだよ。いつか君たちが搭乗しなくても戦えるように』
――少なくとも、これはチェシャではない。
何でもないことのようにさらりと〝疑似人格〟と言ったナイトリーの声を聞きながら、テイラーは腰の後ろで組んだ手を強く握りしめた。
ナイトリーが自分のすべてをチェシャに移さなかったように、チェシャもまたナイトリーとして不要な部分は〈キティ〉に移さなかったのではないだろうか。あのチェシャなら、勝手に〝疑似人格〟を形成させたなどと、これほど簡単に言えるはずがない。
『君たちを騙すようなことをして本当に申し訳なかった。でも、これでやっと君たちを元の場所に帰してあげられるよ。今までこのグリフォンに協力してくれてありがとう』
長い間、誰も何も言わなかった。
ナイトリーが死んだ翌日のお茶会のように。否。それ以上に暗い表情をして黙りこんでいた。
ナイトリーは気づかなかったのだろうか。ここにいるパイロットたちが、それぞれ理由は違えど、みな元の場所に帰りたいとは願っていなかったことを。
テイラー自身は何とも言えない。ただ、あともう少しだけ、一昨日までの生活を続けていたかった。カガミの家政夫をしながら、あの猫型ロボットの長話を聞いていたかった。
「博士」
その沈黙を最初に破ったのは、テーブルの上で両手を組んでいたテニエルだった。
「人型兵器の無人化の件については了解しました。しかし、今のあなたは何なのですか? まさか、本当は亡くなられていなかったとでも?」
『いや、私は……エドウィン・ナイトリーは本当に死んでいるよ。ナイトリーは生前、自分が死んだ後のことを考えて〈キティ〉に自分の人格を秘密裏にダウンロードしていた。それがつまり私だ。しかし、最後に更新されたのは彼が死ぬ四日前のことだから、彼の死因は私にもわからない。彼が死んだら自動的に起動するはずだったんだが、不具合が生じてしまってね。このように話せるようになったのは、今朝方、アリスに発見されてからのことだよ』
――本当に、それらしい嘘を平然とつく。
テイラーは湧き上がる嘲笑を抑えることができなかった。
こう説明するのが最善だと頭ではわかっている。だが、このナイトリーは――チェシャの複製は、自分のことは〝疑似人格〟と言わなかった。
「〈キティ〉に……ですか」
自分に言い聞かせるように呟くと、テニエルは少しためらってから、さらに言葉を継いだ。
「博士。違うなら違うとはっきりおっしゃってください。……昨日、私が人型兵器に搭乗していた際、私に話しかけたりはされませんでしたか?」
これにはアリスとアシュトンを除く全員が、ぎょっとしたようにテニエルを見た。
テニエルは真顔である。彼は本気でこう訊ねているのだ。それだけに余計怖い。
『うん。では、はっきり言うけど、私は君に話しかけてはいないよ。昨日、搭乗中に私の声が聞こえたなら、それはきっと私ではなく〈三月兎〉の声だ。〈三月兎〉は君が知らないこともたくさん知っているよ。毎日〈キティ〉ともつながっているからね』
「〈三月兎〉の声……?」
『言い換えるなら、君と〈三月兎〉にとって都合のいいことを囁く、君の心の声だ』
ナイトリーの声はあくまで穏やかだった。が、テニエルは電気ショックでも受けたかのように大きく目を見張り、そのまま礼も言わずに押し黙ってしまった。
どんな言葉を聞いたのかはわからないが――やはり幻聴だったのではないのかと疑ってしまうが――テニエルにとっては〝都合のいい〟内容だったのだろう。
だが、テイラーはこの〈キティ〉の中のナイトリーがますます嫌になった。たとえそれが真実だったとしても、そこまでテニエルに教える必要はなかったのではないか。本物のナイトリーやチェシャだったら、きっと言わなかった。
「博士。四機全部出したのはデモンストレーションですか?」
両手に額を押しつけてうなだれているテニエルを一瞥して、今度はクロフトが質問する。
それはナイトリーの声に対する皮肉でもあっただろうが、残念ながら不完全すぎる彼には通じなかったようだ。
『そうだよ。初回だからね。このお茶会が終わったら、自分の管制室に行ってごらん。時間的にちょうどいいだろう』
四機の人型兵器が消えてしまっても、巨大パネルは青空を映しつづけていた。
まるで、アリスの背後に素通しの窓があるようにも見える。
しかし、彼女とアシュトンだけは、頑なにその窓を振り返ろうとはしなかった。
『アリス。久しぶりに話したから少し疲れたよ。また眠らせてもらってもいいかな』
嘘か本当か、そう言ってナイトリーの声は退場しようとした。と、それまで『ああ』と言ったきり、ずっと黙っていたカガミが口を開いた。
「博士。最後に一つ、訊いてもいいか?」
『うん、いいよ。何だい?』
「あんたが昔飼ってた猫。何て名前だった?」
一瞬、面食らったような間があった。が、ナイトリーの声は少々呆れたようにこう答えた。
『カガミ。それは君の勘違いじゃないかな。私は猫を飼ったことは一度もないよ』
ルイスもクロフトもテニエルも、無言で互いの顔を見合わせた。
名前こそ出さなかったものの、ナイトリーは自分も昔猫を飼っていたことがあると何度も言っていた。
「ああ、そうか。そりゃ悪かった。誰かと勘違いしてたな」
軽い調子で謝罪したカガミの手は、チェシャの頭を執拗に撫でていた。
『いや、誰にでも間違いはあるから気にしないで。では、これで失礼するよ。アリス、あとはよろしく』
それを最後に、自称ナイトリーのダウンロード人格はスピーカーから声を発さなくなった。
「言いたいことはいろいろあるでしょうけど」
深い溜め息をついてから、アリスはそう口を切った。
「この基地の象徴としてのエドウィンなら、あれで充分なのよ。本物のエドウィンなら、きっとこう言っていたでしょう。『人格の完全ダウンロードは不可能だ』」
了承の合図として、パイロットたちは沈黙を返した。それを受け取ったアリスは苦笑をこぼした後、それを振り払うかのように艶やかに微笑んだ。
「さて、皆さん。一刻も早くご自分の管制室に戻りたいと思ってるんじゃないかと思うけど、たぶん、これが私の代行としての最後のお茶会になると思うの。どうか最後までおつきあい願えないかしら? ……あら、紅茶もトーストもすっかり冷めてしまったわね。いま給仕を呼んで交換させましょう。あ、あと糖蜜もつけるわね。最後だから大出血サービスよ」
* * *
パイロットたちが去り、給仕が食器やテーブルクロスを下げに来ても、アリスはいっこうに席を立とうとしなかった。
その気になれば何時間でも立っていられる自信はあったが、アリスはまだこの基地の責任者代行という立場にある。いつ〝ジャバウォック〟が現れても対処できるよう、なるべく中央管制室にいてもらわなければならない。
「アリス様……」
背後から呼びかけると、彼女は相変わらず前を向いたまま口を開いた。
「ねえ、アシュトン氏。どうしてエドウィンは自殺したかもしれないなんてみんなに言ったの?」
びくんと心臓が跳ねた。彼女は知っている。結局成らなかった、アシュトンのひそやかな〝復讐〟を。
「そう言っておけば、誰かがカガミのせいで自殺したって言ってくれるとでも思ったの? ……お馬鹿さんね。誰も言うわけないじゃない。誰にもそう言わせないために、エドウィンは何も残さなかったんだから。〈キティ〉にもカガミ関連の昔の記憶は落とさなかったわ。そのせいで〈キティ〉は少し性格が変わってしまったけど」
アシュトンは瞑目して顎を引く。言葉もなかった。
「十九歳のうちに死ぬんだって言ってたわ。十九っていう数字が好きだからって。あなたには……いえ、あなた以外の大部分の人間には理解できないと思うけど、彼はエドウィン・ナイトリーとして他人にしてやれることはやりきったと思うの。もう彼が本当に生きたい生き方をさせてあげてくれないかしら」
「それは若様の代行としてのご命令ですか?」
目を開き、苦く笑ってそう問うと、アリスはようやく振り返って、青い瞳を細めた。
「いいえ。かつて彼の兄弟だった、白猫としてのお願いよ」
* * *
仲間同士だったのか、たまたまだったのか、本日同時に出現したⅡ型二体、Ⅲ型一体は、人型兵器四体による初の連係プレーによってあっというまに駆逐された。
まず、〈三月兎〉がⅡ型二体をそれぞれ狙撃して火の玉攻撃を封じこみ、〈帽子屋〉が思う存分切り刻んだ。
Ⅲ型は〈ヤマネ〉にヘッドロックをかけられている間に、〈大鴉〉に腹を真っ二つにされて消滅した。
「あれが無人……」
メインモニタを眺めながら、テイラーはまた同じ言葉を繰り返す。
自分の隣にカガミが座っているのだ(膝の上にはもちろんチェシャ)、無人に決まっているのだが、動きだけを見ていると、本当に有人のときと変わらない。信じたくはないが、人型兵器の中にパイロットの疑似人格を作ったというのは真実なのだろう。
「まったく、肝が潰れたよ」
タケダもまたげっそりとした顔で、同じ愚痴を口にする。
「警報出たと思ったら、いきなり〈大鴉〉が起動して、ハッチもカタパルトも勝手に動かされちまった。まあ、〝犯人〟の見当はすぐについたけど、一言くらい言ってほしかったね」
タケダがそう言うのも無理はない。むしろ、その〝犯人〟作成に荷担していたからその程度で済んだのではないか。他の管制室長たちはたぶん肝以外のものも潰されただろう。
「まあ、人型兵器は無人のほうがいいとは言ってたけど、まさか、こういうやり方で無人にするとはねえ……」
人型兵器の開発にも携わったというタケダだが、疑似人格の件については知らされていなかったようだ。だが、それ以上に、ナイトリーがパイロットの承諾なく疑似人格を作っていたことにショックを受けているようにテイラーには思えた。そのナイトリーの疑似人格であるチェシャが自分のすぐ近くにいることもうっかり忘れてしまうくらいに。
確かに問題ありまくりの行動である。しかし、将来無人化したいから疑似人格を作らせてくれと正直に言っていたらどうなっていただろうか。たぶん、誰もパイロットにはなりたがらなかったのではないか。ナイトリーの肩を持つわけではないが、彼は目的のためには手段を選ばない天才である。何しろ猫型ロボットになるために自殺までしてしまった。
その猫型ロボットは、カガミの膝の上でじっとメインモニタを見つめていた。姿は猫に変わっても、やはり彼は科学者だ。冷徹に自分の実験結果を確認している金色の目。
一方、カガミはというと、昨日チェシャに〈キティ〉へのアップロードが完了したと言われてからというもの、ずっと心ここにあらずな状態が続いているように見える。
たぶん、あのアリスならカガミにチェシャを譲ってくれるだろう。だが、チェシャをダイナとして連れ帰るためには、研究班に頼んで初期化してもらわなければならない。結局、カガミはチェシャをどうしたいのか。訊きたくても何となく訊きづらい。
「とにかく、俺たちがここにいる必要はもうなくなりました」
微苦笑と共にそう切り出すと、タケダはメインモニタからテイラーに視線を移した。
「三日後にここを発つ予定です。まだ時間はありますが、今までいろいろお世話になりました」
「いやいや、それはお互い様だよ。しかし、三日後とはまた急だね」
「仕方ありません。ここに不要な人間を置いておく余裕はないでしょう」
「……寂しくなるね」
ぽつりとタケダが言った。ありふれた言葉だが、彼が口にすると、心からそう思って言っているのだと素直に信じられる。
「そうですね。……とても寂しいです」
「まあ、居場所がなくなったらここに来な」
沈んだ空気を打ち払うように、タケダは明るく笑ってテイラーの肩を叩いた。
「ここにいるのは、俺も含めてそういう人間ばっかりだ。アリスお嬢なら、きっとあんたを雇ってくれるよ。ここの食堂のコックなんてどうだい? 俺も和食が食えて嬉しい」
きっともう自分はここに戻ることはない。そうとわかっていても、この世にそういう場所があると思えるだけで救いになる。
「そうですね。じゃあ、和食のレパートリー増やしておきます」
嘘はつきたくなかったテイラーは、帝国に帰ってもできそうなことを笑いながら挙げ、あとどれだけ見られるのかわからないメインモニタに目を戻した。
* * *
ふと目を覚ますと、充電器の前からチェシャが消えていた。
あわてて座椅子から上半身を起こし、和室内を見回す。やはりあの黒猫はいなかったが、障子が少し開いていて、その隙間から見えるテーブルの上には黒いかたまりがあった。
『私が言うのも何だけど』
テーブルの上で、キッチンに向かって香箱座りをしていたその黒いものは、カガミが近づくと呆れたように言った。
『昼寝は荷造りを済ませてからしたらどうだい? テイラー少尉だって自分の分だけで手一杯だろう』
「俺の荷物なんて木刀と服くらいしかねえよ」
内心、この猫型ロボットが待機室内にいたことにほっとしつつもカガミは憎まれ口を叩き、いつもの自分の席に腰を下ろした。
チェシャはまるで眠っているかのように目を閉じていた。
カガミはそれを腕組みをして眺めていたが、いつまでたってもチェシャがそれ以上話さないことに焦れ、自分から口を切った。
「なあ。おまえはこれからどうなるんだ?」
『どうなるって……たぶん、あの犬型ロボットたちと同じ扱いになるかな』
すぐにチェシャはそう答えたが、目は開けなかった。
『でも、私のメンテができるのはタケダだけだから、実質、タケダの飼い猫になるんじゃないかな。タケダとなら、今みたいにこうして話せるしね』
「ああ、そうか。タケダのおやっさんがいたな。……大丈夫なのか?」
『大丈夫って、何が?』
「おやっさん、人型兵器の疑似人格のこと、怒ってるみたいだったぞ」
『ああ、そのことか。大丈夫だよ。私は説明は下手だけど、丸めこむのは得意だから。でも、カガミこそ怒っていないのかい? カガミは〝被害者〟だよ』
「俺は別に。無人のほうがいいってのはそのとおりだしな。……あいつらも、おまえみたいにしゃべれるのか?」
『しゃべる気さえあればね。カガミはほとんど使わなかったけど、音声ガイドを利用すれば、会話自体は簡単にできる』
「じゃあ、テニエルが聞いた声ってのはそれか?」
『さあ、どうだろう。搭乗中はパイロットと人型兵器はつながっているから、実際の音声ではなかったかもしれない。夢の中では音がなくても聞こえるだろう? それと同じだよ』
「俺はそんな声、聞いたことなかったけどな」
『たぶん、〈大鴉〉は寡黙なんだよ。君の疑似人格だから。……君も話してみたいかい?』
カガミは少し考え、苦笑いして首を振った。
「いや、いい。自分と話すなんてぞっとする」
『確かにね。私は自己嫌悪に陥ったけれども』
また会話が途切れた。チェシャはいまだに目を開けない。
いったい何を言ったら、この猫型ロボットはこちらを向いてくれるのだろう。
「なあ」
『何だい?』
今度もすぐに応答したが、やはり目は開かない。
「もしここを出ることになったら、おまえに言おうかと思ってたんだ。……俺にダイナを売ってくれって」
ここでチェシャは初めて目を開けて、小さな顔をカガミに向けた。
『売る?』
「いくら何でも、タダでは譲ってくれないだろ。でも、その前にメンテできる人間探しとかないと駄目だなって思って、半分以上あきらめてた」
やっと興味を引けたことに満足しながらそう答えると、チェシャは金色の目を丸くした。
『それなら私に相談してくれれば何人か紹介できたのに。ただし、全員公国人だけど』
「え、いるのか?」
予想外の回答に、思わず前のめりになる。
『いるよ。今はもう無理だけど、私の紹介状があればタダで見てくれそうな人間も。でも、今でも君はこのダイナを買い取りたいと思っているのかい? 帝国に戻れば、本物の猫が飼えるだろう?』
「本物でなくても、俺より先に死なない猫が欲しい。……メンテしてれば、俺より先におまえが逝くことはないよな?」
チェシャは少し間をおいて、静かに答えた。
『それはどうかな。確約はできないよ』
「確約できなくても買い取りたい。いくらだ?」
『その交渉はアリスとしてもらえるかな。でも、その前に初期化はしないのかい? アップロードが完了したら、すぐにするかと思っていたんだけど』
「たとえ初期化しても、あのダイナは生き返らないし、今度はおまえが死ぬんだよな?」
『そうだね。あのダイナは生き返らない。でも私は』
「ならやめとく。よく考えたら、話ができる猫型ロボットは貴重だ」
チェシャの言葉を遮ってそう言うと、チェシャは大きく目を見張ってから、嬉しげに閉じた。
『そうだね。真剣に考えたら、君が一生働いても、とても払えない金額になりそうだ』
「は?」
『ダイナの買い取り額。まだ公表していない素材や技術使いまくったから』
「何でまた……」
たかがパイロット一人のペットロボットに。
呆れて眉をひそめていると、チェシャはチェシャ猫笑いをして言った。
『猫キチだったからだよ。……君が』
* * *
エドウィン・ナイトリーの急死、〈キティ〉に隠されていた彼の〝疑似人格〟の公表、そして、人型兵器の無人化への移行は、最後のお茶会があったその日のうちに、基地内では周知された。
だが、外部に向けて発表されたのは、パイロットとその副官たちが輸送船に乗船し、惑星グリフォンを発ってからのことだった。
輸送船に乗船するには、基地から宙港までバス移動しなければならない。テイラーたちにとっていちばん身近な存在だった管制室関係の人間は、〝ジャバ〟がいつ出現しても対処できるよう、基地に常駐していなければならなかったため――しかし、中央管制室が〝白血球〟の〝ゆらぎ〟を強めて出現率を高めていたときもあったのではないかと、テイラーは今では疑っている――必然的に見送り会場は、広大な駐車場の一角となった。
ルイスがハートに抱きついて子供のように泣き喚いていたのは予想どおりだったが、テニエルがマクミランを放置して、かなり長時間犬型ロボットの首に抱きついていたのは、意外というか不気味だった。テイラーが思っていた以上に、彼は犬キチだったのかもしれない。
クロフトも本当はアリスを抱きしめたかったのかもしれないが――さりげなく観察していたら、スミスと話をしながら何度もチラ見していた――彼女の腕の中にはチェシャがいた。
結局、カガミはチェシャの初期化も買い取りもしないまま、グリフォンを去ることを選択したのだった。
「あら、最後に抱いていかなくていいの?」
チェシャの右手をつかんで、これ見よがしに黒い肉球を見せつけながらアリスはにやにやしたが、カガミは「いや、いい」とぶっきらぼうに答えた。
「それより、俺もあんたがここの代表になったほうがいいと思うぜ。あいつと同じことは言いたかないが」
アリスは軽く目を見張ったが、「そうね、考えておくわ」と微笑んだ。
「本当に、チェ……いや、ダイナを譲ってもらわなくてよかったんですか?」
最後にタケダと握手してバスに乗りこんでから、すでに何度も訊ねたことをまたカガミに訊ねると、彼はチェシャのかわりにもらってきたショッキングピンクと白のミニ毛布をさっそく抱きしめながら、やはり同じ答えを返してきた。
「ああ、いい。……今はいいんだ」
外部への発表を、テイラーたちがグリフォンを出立してから行ったアリスの判断は、結果的には正しかった。
人型兵器の無人化により、パイロットというほとんど唯一の担保を失ってしまった各陣営の一派は、今度は武力でもってグリフォンを自らの管理下に置こうと考え、なんと艦隊を差し向けたのだ。あのままテイラーたちがグリフォンに居座っていたら、とてつもなく面倒なことになっていただろう。
ちなみに、彼らの進軍は〝白血球〟を大量派遣するだけで簡単に阻止できた。〝ゆらぎ〟を強めれば、もれなく〝ジャバ〟が出現する。皮肉だが、これが無人化された人型兵器のこれ以上はないお披露目となった。
だが、これを契機に、アリスは基地の最高責任者代行から最高責任者兼代表に昇格。ナイトリーとは逆に、各陣営幹部たちと積極的に対面し、彼らをあっけなく翻弄、籠絡した。そのため、いつしか彼女は各方面から〝アリス女王〟と称されることになった。
テニエル、ルイス、クロフトは、それぞれ元の職場に戻って少しばかり出世したが、グリフォンを離れてから約一年後、その女王から『私のお茶会にまた参加しない?』と誘われると、すぐに除隊して基地に行き、新たに開発された人型兵器のテストパイロットとして再就職した(と口の軽いルイスが、古式ゆかしい手紙でわざわざテイラーに教えてくれた)。
ただ一人、カガミだけは帝国に戻ったと同時に除隊し、実家にも帰らず行方知れずとなった。が、ちょうどその頃、公国領の惑星の一つがウルタールと名を改め、人の数より猫のほうが多いと言われる猫の星に早変わりした。
のちにそこは銀河系中の猫好き垂涎の観光スポットとなったが、たぶん、そこの片隅にカガミは住まわせてもらっているのではないかとテイラーは勝手に思っている。この世に一匹しかいない、あのおしゃべりな電気猫と共に。
―了―