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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第36話 南方の子守唄

 カイルが航海から戻った日、仕立て屋の戸を開ける前に港で立ち止まっていた。


 窓から見ていた。見ているのがばれると恥ずかしいからカーテンの陰に隠れて。七ヶ月になったお腹が重くて窓辺に張りつくのも一苦労だ。椅子を持ってきて座りながら覗くという、我ながら情けない体勢。


 カイルは桟橋の端で何かを呟いていた。唇が動いている。声は聞こえない。独り言にしては様子がおかしい。何度も同じ動きを繰り返している。唇の形が言葉を追いかけている。時々止まって、最初からやり直す。暗唱しているのだ。何かの文句を。覚えたての言葉を口に馴染ませようとしている。


(……歌ってる?)


 まさか。あのカイルが。港のど真ん中で。でも唇の動き方が歌のそれだ。リズムがある。一定の抑揚を繰り返している。


 数分後、仕立て屋に入ってきたカイルはいつも通りの無表情だった。


「よう」


「おかえり。二週間、長かったね」


「ああ。南方の海が荒れて少し遅れた」


 手に小さな包みを持っている。いつものように布か糸を買ってきたのかと思ったが、今回は差し出さなかった。包みをポケットに戻した。中身を見せる気はないらしい。


「港で何してたの?」


「別に」


 嘘だ。でも追及しない。今は。この人の「別に」は予告だ。後から答えが届く。いつも。


 ◇


 夕食後。メイベルとヘレーナさんが寝静まった後、カイルが切り出した。珍しいことに自分から。咳払いを二回して、窓の外を見て、もう一度咳払いをして。準備の多さが只事ではない。


「南方で、婆さんに会った」


「婆さん?」


「母さんの島の隣の島だった。染め師の知り合いを辿って。翡翠色の糸を買った時の染め師を覚えてるだろ。あいつに聞いてそいつの親戚に聞いて三つ島を渡った。百歳近い婆さんで、南方の古い歌を全部覚えてる人だった。島の歴史を歌にして語り継ぐ家柄だと言っていた」


 三つ島を渡った。交易航路の途中で寄港地を三つも余分に回ったということだ。荷主に何と説明したのだろう。「ちょっと寄り道」では済まない距離だ。


「母さんが歌ってた子守唄。旋律だけ覚えてて歌詞が分からなかった。二十年以上。あの婆さんが教えてくれた。南方の古い言葉で一行ずつ。発音を何度も直してくれた。舌の位置が違うって。俺のこの港町訛りの舌では南方の音が出ないらしくて、婆さんに笑われた」


(カイルが人に笑われた。しかも発音を直された。この寡黙な男が、百歳の老婆に口の開け方を教わっていた)


 想像して、少し笑いそうになった。堪えた。


(だから港で練習していたんだ。この人は南方の海を渡って百歳の老婆を探し出して、母の子守唄を覚えて帰ってきた。生まれてくる子のために。言葉にしない代わりに三つの島を渡る。この人の愛情の距離の測り方は海里だ)


 カイルが咳払いをした。三度目。顎の線が強張っている。照れているのだ。この人は照れると顎に力が入る。


「……歌う。下手だけど」


「聞かせて」


 カイルが目を閉じた。大きな手が膝の上で握られている。


 歌い始めた。低い声。音程は、正直に言えば外れている。船乗りの喉は波の音を超える声量はあるけれど繊細な旋律向きではない。南方の言葉がこの人の口の形に馴染んでいない。舌が慣れない音を探している。時々つっかえて、やり直す。百歳の婆さんに直されたというのに、まだ完璧ではないのだ。


 でも。


 南方の言葉の意味は分からない。なのに旋律が胸に沁みた。波のような抑揚。揺れるような拍子。揺りかごを揺らすリズムだ。カイルの母がこの旋律を歌った。異国の港町で花の匂いを恋しがりながら。暗い部屋で幼い息子を抱いて。その時だけ故郷の言葉に戻って。


 カイルが歌い終えた。目を開けた。少しだけ照れた顔。


「歌詞の意味、婆さんが教えてくれた」


「何て?」


「『波が揺らす子は、海の子。月が照らす子は、夜の子。母が抱く子は、世界の子』」


 喉の奥が灼けた。


 母が抱く子は、世界の子。カイルの母はこの言葉を信じて息子を抱いたのだろう。言葉の通じない港町で異国の嫁として。魚の匂いを我慢しながら。でも歌う時だけは故郷の自分に戻れた。


「……きれいな歌」


「音程は気にするな」


「気にしてないよ」


 嘘だ。気にしている。でも音程の問題じゃない。この人が南方の港で百歳の老婆を探し出して舌の位置まで直されて歌詞を覚えて帰ってきた。その事実が音程よりずっと大事だ。


「もう一回歌って」


「……一回で十分だろ」


「お腹の子に聞かせたいの」


 カイルが口をへの字にした。でも逆らわなかった。もう一度歌った。二度目のほうが少しだけ音程が安定していた。お腹に手を当てた。子が動いた。歌に反応したのだろうか。それとも偶然だろうか。偶然だとしてもいい。


 メイベルが階段の途中で泣いていたのは翌朝知った。「素敵な歌でしたね」と目を赤くしていた。壁が薄い。


 ヘレーナさんだけが黙っていた。でも昼過ぎにぽつりと言った。


「いい歌ね。……私の子守唄は先代への愚痴しかなかったけれど」


 冗談だった。ヘレーナさんが冗談を言った。笑った。四人で。仕立て屋の午後に笑い声が響いた。こんな音がこの家に満ちる日が来るとは思わなかった。


 ◇


 その夜、一人で仕立て台の前に座った。カイルは倉庫に行った。今夜も灯りが揺れている。木を削る音が遠くから聞こえてくる。


 南方の子守唄の旋律が頭の中で回っている。波が揺らす子は海の子。月が照らす子は夜の子。母が抱く子は世界の子。


 カイルの母はこの歌を歌って息子を育てた。異国の港町で。言葉が通じない中で。歌だけが故郷と繋がる糸だった。


 私の母リゼットは歌ったのだろうか。三日しか生きられなかった母。でも三日間私を抱いていた。窓の外を見ていた。「この子に海を見せてね」と言った。それが母の子守唄だったのかもしれない。歌ではなく言葉の。旋律ではなく願いの。


(二人の母が二人とも子供に何かを残した。カイルには歌の旋律。私には海を見てほしいという願い。どちらも完全ではない。歌詞のない歌と顔の見えない願い。でも残った)


 お腹の子に何を残すだろう。私は。カイルは。答えはまだ分からない。でもこの子は二つの子守唄を持つことになる。南方の島の歌と港町の海風。カイルの低い声と波の音と。


 仕立て台の上の祖母の鋏に触れた。冷たい金属が指先に馴染む。この鋏も祖母が残してくれたもの。歌ではなく道具で。言葉ではなく刃で。残し方は人それぞれだ。


 倉庫の灯りを見ながら、南方の旋律を小さく口ずさんだ。音程は多分カイルと同じくらい外れている。

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