表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/40

第37話 三つの鋏、四つ目の問い

 臨月に入った。


 お腹が重い。仕立て台の前に座るのも一苦労で、針仕事は短い時間しかできなくなった。でも完全にやめる気はない。手を動かしていないと落ち着かない。祖母もそうだったのだろうか。臨月でも仕立て台に向かっていたのだろうか。リゼットは針を持ったまま私を産んだのだろうか。産婆が止めても「産む」と言い張った頑固な母だ。最後の瞬間まで繍っていたかもしれない。


 今日は小物を繍っていた。生まれてくる子のための小さな巾着。波模様の刺繍を入れて紐を通す穴を銀糸で縁取る。赤ちゃんに巾着は早い。でもいつか使う日のために。先に用意しておく。祖母がそうしてくれたように。


「ロゼッタさん、そろそろ休んでください」


 メイベルの声。一日に五回は言われている。最近は回数が増えた。六回目が出る前に切り上げるのが目標だ。


「あと少し。この角だけ」


「角の後にも角がありますよ。永遠に角は続きます。お茶を淹れましたから降りてきてください」


 正論だった。この人の正論には勝てない。渋々針を置いた。


 ◇


 仕立て台の上に三つの鋏が並んでいる。


 祖母マーガレットの鋏。持ち手が長年の使用で磨り減って指の形に馴染んでいる。この鋏で何百着もの服が裁たれた。逃げる自由を切り開いた刃。港町の仕立て屋で潮風を浴びながら布を裁ち続けた。


 ヘレーナさんの百合の鋏。持ち手に百合の彫刻。四十年間油紙に包まれて眠っていた。手入れだけされ続けて錆びなかった刃。港町でようやく目覚めた。今は毎日仕立て台の上で光を受けている。


 私の鋏。祖母から受け継いだ二つ目の鋏。十年の空白を越えて再び布を裁く刃。毎日使っている。刃にはこの一年半分の仕事の記憶が刻まれている。


 三つ。三世代。三つの人生。三つの封印と、三つの解放。


(四つ目をどうする)


 エリーゼが送ってくれた古書の一節が頭の中で繰り返される。「仕立ての子には鋏を」。でもこの子が仕立てを選ぶかどうかは分からない。船乗りになるかもしれない。本が好きになるかもしれない。何にもならないかもしれない。何にでもなれる。「握らなければそれもまた道」。


 大事なのは鋏を「持たせる」ことではない。鋏が「手の届くところにある」こと。選択肢が最初からそこにあること。


 ◇


 夕方、カイルが仕立て屋に来た。手に油の匂いがする。爪の間に木屑。あの倉庫の匂い。


「カイル。ずっと聞きたかったんだけど、倉庫で何を作ってるの」


「……できた」


 え。


「明日持ってくる」


「できたって何が」


「明日」


「教えてくれないの?」


「明日だ」


 この人は。


 翌朝。仕立て屋の前にカイルが立っていた。両腕に抱えているものがある。大きい。布で丁寧に包んである。


 中に運び入れた。仕立て台の横に置いた。布を外した。


 揺りかごだった。だが、それだけではなかった。揺りかごは確かにあった。滑らかに磨かれた木肌。船大工の技で組まれた曲線が美しい。揺らすとかすかに木の香りがする。樫の木。祖母の仕立て台と同じ。


 でもその隣にもう一つ。


 小さな仕立て台だった。


 子供の背丈に合わせた樫の木の台。天板は滑らかに磨かれていて角が丸く削られている。脚はしっかりと安定していて低い。座って使えるように。天板の表面には何十回もやすりをかけた痕がある。指で触れるとするりと吸いつく。何夜もかけて磨いたのだ。あの倉庫の灯りの下で。毎晩毎晩。妊娠が判明した翌日から。


 台の脚に小さな船の絵が彫ってあった。あの看板と同じ船。二十年前に私が描いた船。帆が大きすぎて波が三角のあの不格好な船。


「カイル、これ……」


「お前が、ばあさんの台の足元で布切れ遊びしてたって言ってただろ。この子もそうするかもしれないと思って。台がなきゃ仕事はできねえ。鋏の前に台だろ」


(鋏の前に台)


 そうだ。鋏は道具だ。でも道具を使うには場所がいる。台がいる。祖母の台があったから私は布切れ遊びを覚えた。台の足元にしゃがんで落ちた端切れで人形の服を作った。祖母が覗き込んで「筋がいいねえ」と笑ってくれた。


 この小さな台の足元で、この子も端切れを拾うかもしれない。拾わないかもしれない。揺りかごの中で船の歌を聞いて育つかもしれない。どちらでもいい。台はここにある。


 視界がぐにゃりと歪んだ。堪えるとかそういう次元ではなかった。


「あんたは……ほんとに……全部、木で……喋るんだから……」


 言葉にならなかった。嗚咽が混じってぐちゃぐちゃだった。カイルが困った顔をしていた。泣かせるつもりはなかったのだろう。いつもそうだ。自分がどれだけのことをしているか分かっていない。


 仕立て台の横に小さな仕立て台が並んだ。大きい台と小さい台。親子の台。


 三つの鋏の隣にいつか四つ目が並ぶかもしれない。並ばないかもしれない。でも台はここにある。


 ◇


 カイルが帰った後、小さな仕立て台に手を置いた。天板の感触が祖母の台と同じだ。樫の木は堅くて重い。水に強い。港町の湿気にも負けない。船乗りが選ぶ木だ。帆柱にも使われる。風と波に耐える木。


 台の脚の船の絵を指先で撫でた。二十年前の夏、仕立て台の脇で端切れの裏に描いた絵。帆が大きすぎて波が三角で、お世辞にも上手とは言えなかった。でもカイルは覚えていた。二十年間。あの看板にも同じ船を彫った。そしてこの台にも。


(この船は、カイルの記憶の中に二十年間停泊していたんだ。私が公爵家で白い糸を隠していた十年間も、ずっと)


 メイベルが上がってきた。小さな台を見て目を丸くした。


「これは……カイルさんが?」


「うん。倉庫で何ヶ月もかけて作ってた」


「何ヶ月も。……あの灯りは、これだったんですね」


 メイベルも見ていたのだ。倉庫の灯りを。毎晩揺れていた小さな灯り。


「樫の木ですね。おばあ様の台と同じ。重くて丈夫で、何十年でも持つ木です。この子が大人になっても使えるでしょう」


 何十年。メイベルはそこまで見通している。二十年の使用人頭の目は、道具の寿命を正確に見積もる。


 ヘレーナさんが離れから来て、小さな台を見た。何も言わなかった。ただ天板に手を置いて、木の質を確かめた。四十年間、自分の仕立て台を持てなかった女が、新しい台の手触りを確かめている。


「いい台ね。木目がまっすぐ」


 祖母の台を見た時と同じことを言った。あの時と同じ声で。でもあの時は過去を確かめる手つきだった。今は未来を触っている。


 三つの鋏。大きな仕立て台。小さな仕立て台。揺りかご。全部ここにある。あとは生まれるだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ