第34話 名前のない怖さ
お腹が目立ち始めた五ヶ月目の午後、仕立て台の前で手が止まった。
注文品の刺繍を進めていた。隣町の農家の嫁入り衣装。裾に波と小花を散らす仕事。指が覚えているはずの仕事なのに針が布の上で迷っている。波の曲線が歪む。何度やり直しても思った形にならない。手が覚えているはずの線が出てこない。指先と布の間に透明な膜が一枚挟まっているような感覚。
(今日は駄目だ)
原因は分かっている。昨夜、夢を見た。
公爵家の夢。あの冷たい寝台。右半分に皺ひとつなく人の重みを知らない布がぴんと張っている。十年間毎朝確かめたあの寝台。夢の中で私は待っていた。いつか旦那様が来るのを。扉が開くのを。足音が近づくのを。廊下の板が軋む音に耳をすませて、何時間も。足音は来なかった。十年間一度も。
目が覚めた時、隣にカイルの寝息があった。マントの匂いがする枕。ここは港町で海風が窓から入ってきていた。もうあの屋敷にはいない。そう分かっているのに、夢の冷たさが胸の奥にこびりついて溶けない。癒えたと思った傷が季節の変わり目に疼くように。
ヴィクトルは子を拒んだ。没落貴族の血を入れたくなかった。十年間同じ屋敷にいて一度も私の部屋を訪ねなかった。結い糸は三年で白く褪せた。五年目には完全に色を失った。それでも私は待った。
マリアンヌには子を作った。ルシアンという名の男の子。私が十年かけても得られなかったものを、あの人は別の女にはあっさり与えた。私の血が嫌だったのだ。没落貴族の。仕立て屋の孫の。
針を置いた。指の力が入らない。
(馬鹿みたい。今更こんなことで。もう終わった話じゃないか。カイルの子を授かった。幸せだ。幸せなはずだ)
なのにあの十年の空白が時々こうして足首を掴む。泥の底から手が伸びてくるように。幸せの中に住んでいても、足元は泥のままだ。泥は乾かない。時間が経てば薄くなると思っていたけれど、こうして夢の形で戻ってくる。
◇
夜。カイルが気づいた。
何も聞いてこないのに気づく。この人は空気で察する。夕食の間に私の箸の持ち方がいつもと違ったのか、スープを飲む回数が少なかったのか。何で分かるのか、私にも分からない。十年間私の顔を見なかった男の後に、一秒で顔を読む男が来た。人生の皮肉だ。
メイベルとヘレーナさんが寝た後、二階の部屋で二人きり。月が出ている。波の音が規則正しく聞こえる。潮の匂い。冷たい夜だった。
「カイル」
「ん」
「怖い。ちゃんと育てられるか、怖い」
「ああ」
「でもそれだけじゃないの。もっと……名前のつかない怖さがある。うまく言えない。言葉にしようとすると逃げる」
カイルが待っている。急かさない。この人はいつもそうだ。私のペースで、私の言葉で。薪を置くように。黙って。
「十年間子供が欲しかった。ずっとそう思ってた。でも今になって分かる。本当は子供が欲しかったんじゃなくて、あの人に必要とされたかった。子供がいれば『母』として存在できる。道具じゃなくて人として。そう思ってた。ずっと」
声が崩れた。丁寧語が消えた。港町の言葉が出る。
「でもそれって……子供を、道具に。私が。あの人と同じことしてた。航路のために嫁にしたのと──何が違うの。道具として使われてたくせに、自分も。最低だ。最低じゃん、私」
言ってしまった。胸の底に沈めていた言葉。口にした瞬間、舌の根元がじんと痺れた。涙は出なかった。泣くより深い場所に落ちていた。
カイルが黙った。長い沈黙。波の音だけ。月明かりがテーブルの上のロープと刺繍糸を照らしている。
「ロゼ」
「……何」
「十年前のお前と今のお前は違う」
短い。でも一語ずつ確かめるように。船の舵を切る時の、あの正確な力加減で。
「十年前のお前は居場所が欲しかった。今のお前は居場所を自分で作った。仕立て屋を開いて客がいてメイベルがいてヘレーナさんがいて俺がいる。もう居場所のために子供が要る状況じゃねえだろ」
(ああ。そうだ。そうだった)
膝の裏が緩んだ。力が抜けていく。でも崩れているのではない。余計な力が解けているのだ。
十年前の私は空洞だった。何かで埋めなければ立っていられなかった。今は違う。仕立て台がある。鋏がある。自分の名前で仕事をしている。注文帳にはまだ何件も仕事が残っている。
この子は空洞を埋めるためではない。この子はこの子だ。私の居場所ではない。
「お前に似てたらきっと頑固で泣き虫で、針を持ったら手を止めない子になる」
「……何それ」
「楽しみだ。そういう子が」
笑ってしまった。泣いているのか笑っているのか自分でも分からない。公爵夫人の鎧はとっくに脱いだのに、まだ下に何か残っている。十年分の層は厚い。
「カイル。あんたは怖くないの。親になるの」
「怖い」
即答だった。珍しい。
「母さんが馴染めなかった町で俺が育った。俺のせいじゃない。でも俺が生まれたから母さんはこの町に残った。逃げられなかった。子供がいるから。その事実が、重い」
カイルの声が低くなった。いつもの寡黙とは違う。言葉を探しているのではなく、言葉が溢れかけているのを堰き止めている声。
「だから、この子には。この町が合わなかったら出て行っていい。海が嫌なら山に住んでいい。船乗りにならなくてもいい。何にでもなっていい。俺みたいに、閉じ込められたと思わなくていいように」
(カイルも、同じことを考えていたんだ)
子供を自分の都合に使わない。子供の人生は子供のもの。私が「居場所のために子を望んでいた」という恐怖と、カイルが「母を閉じ込めた」という罪悪感は、裏表だ。どちらも子供を人として見ていない恐怖。
「私たち、ちゃんと怖がれてるね」
「……そうか?」
「うん。怖がれてるうちは大丈夫だと思う。怖くなくなった時が危ない。あの屋敷の人たちは、誰も怖がっていなかった。人を傷つけることを。当たり前だと思っていた」
カイルが鼻を鳴らした。同意の鳴らし方だ。
名前のない怖さが少しだけ軽くなった。消えたわけじゃない。たぶん完全には消えない。でも一人で抱えなくてよくなった。それだけで呼吸が楽になる。
月明かりの中で手首の海色の糸が光っていた。カイルの手がもう一度私の手を握った。今度は震えていなかった。どちらの手も。




