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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第33話 碧の栞から

 エリーゼから小包が届いた。


 碧の栞の紋章。本を象った小さな刻印が封蝋の代わりに押されている。侯爵家の鷲と月桂樹ではなく開いた本。自分でデザインしたものだと以前の手紙に書いてあった。公爵夫人を辞め、侯爵家を出て、本屋を始めた女の紋章。あの人らしい。


 開けると古い革装の本が一冊と手紙が入っていた。


 『海辺の子育て 港町の民間伝承集』。著者不明。背表紙は日に焼けて色が抜けている。頁をめくると黄ばんだ紙にインクの匂いが染みついていた。百年以上前の本だ。革の表紙に小さな水染みがある。誰かがこの本を海のそばで読んでいた証拠。ページの端が波打っている。潮風に晒された本特有のうねり。表紙を開いた瞬間に古い紙の匂いが広がった。図書室の匂い。公爵家の書庫にもあった匂いだ。でもあの書庫は冷たかった。この本は、海の匂いがする。


 手紙を先に読んだ。


『ロゼッタさん。おめでとうございます。マルタさんから港町の商人経由で聞きました。あの町は本当に秘密が持てませんね。潮風が全部運んでいくのでしょう。


 王都の古書市でこの本を見つけました。海辺の出産から子育てまで老人たちの語りを書き留めた記録です。あなたの港町の風習も載っています。こういう出会いがあるから古書市はやめられません。千冊に一冊の宝物が棚の奥に埋まっている。掘り当てた時の震えは針仕事の方にも分かるのではないかと思います。


 近況です。碧の栞は二年目に入りました。歴史書と紀行文の品揃えでは王都一番だと自負しています。常連も増えました。学者が三人、毎週来てくれます。議論が白熱して閉店時間を過ぎることもしばしば。本屋が知の集まる場所になるのは、父の書庫にいた頃の夢でした。


 先月、父が店に来ました。二度目です。四十五分いて三冊買って帰りました。何も言いませんでしたが帰り際に棚の並びを直していきました。歴史書を年代順に。父なりの不器用な認め方だと思います。カイルさんに似ていますね。不器用な人は手で語る。言葉ではなく行動で。


 いつか港町に遊びに参ります。赤ちゃんに会いに。


 エリーゼ』


 笑った。不器用な父親をカイルに喩えるあたり、エリーゼも人を見る目が育っている。本屋で多くの人と接するうちに観察力が磨かれたのだろう。「千冊に一冊の宝物」という表現に、本への愛情がにじんでいる。帳簿も読めるし人も読める女になった。


 ◇


 本を開いた。港町の風習が聞き書きの形で記録されている。漁師の老人、産婆の女たち、船乗りの語り。潮の満ち引きと出産の関係。月の満ち欠けと子供の性格。波の音を聞かせると赤ん坊が泣き止む理由。嵐の夜に生まれた子は船乗りになるという言い伝え。読んでいるだけで、港町の老人の声が聞こえてくるようだった。


 子供の誕生にまつわる項を探した。頁をめくる指先がざらりと古い紙の感触を拾う。途中、面白い記述があった。「港町の産婆は月を見て出産の時期を読む。満月の夜は産気づく女が多い。潮が満ちると子宮も動く」。科学的な根拠はないだろうが、海辺に暮らす人たちの身体感覚がこういう言い伝えを生んだのだろう。マルタも同じことを言っていた。「潮が満ちる時に産まれた子は運がいい」と。


 別の頁には「赤子の最初の泣き声を海鳥が聞くと、その子は一生海に守られる」とあった。カモメの多いこの港町では、どの子も海に守られていることになる。


 あった。


『海辺の子には生まれて最初の月が満ちる前に道具を持たせる。漁師の子には釣り針を。船乗りの子には羅針盤を。仕立ての子には鋏を。道具は親が選ぶのではない。道具が子を選ぶのだと港の老人たちは言う。子の手に道具を置いて握ったものがその子の道になる。握らなければそれもまた道だ』


 最後の一文が目に残った。


 「握らなければそれもまた道だ」。


 頁を閉じた。古い紙の匂いが指先に残っている。


(鋏)


 仕立て台の上に三つの鋏が並んでいる。祖母マーガレットの鋏。ヘレーナさんの百合の鋏。私の鋏。三世代の女がそれぞれの鋏を持って嫁に出た。三人とも「恥だ」と言われた。三人とも封じられた。祖母は逃げた。ヘレーナさんは耐えた。私は十年かけて取り戻した。


 三つの鋏はそれぞれ違う物語を持っている。祖母の鋏は逃げる自由を切り開いた。ヘレーナさんの鋏は四十年の眠りから覚めた。私の鋏は十年の空白を越えた。どれも封じられどれも蘇った。


 仕立て台の上の三つの鋏をじっと見た。三つとも銀色だけれど、光り方が違う。祖母の鋏は使い込まれて鈍い銀。ヘレーナさんの鋏は四十年の手入れで曇りのない銀。私の鋏は毎日使う実用の銀。同じ金属でも人生が違えば光り方が変わる。


 四つ目の鋏をこの子に持たせるのか。


 いや、持たせるかどうかはこの子が決めることだ。釣り針を握るかもしれない。羅針盤かもしれない。本の頁をめくる指になるかもしれない。何も握らないかもしれない。「握らなければそれもまた道」。


 大事なのは鋏を「持たせる」ことではない。鋏が「手の届くところにある」こと。選択肢が最初からそこにあること。祖母が私に功労離縁の道を用意してくれたように。選ぶ自由を最初から。


(四つ目の鋏)


 その言葉が心の中に静かに根を下ろした。まだ形はない。でも根が張り始めている。


 ◇


 エリーゼへの返事を書いた。本の感想と、ヘレーナさんの産着のこと。カイルが倉庫で何かを作っていること。母リゼットの名前を知ったこと。最後に一行。


『四つ目の鋏のことを考えています』


 封をして窓の外を見た。夕日が海を染めている。お腹の子が動いた。最近よく動く。海風が吹くと特に。まるで風を感じているように。


(この子も海が好きなのかな。リゼットの孫だからかな。窓から海を見ていた母の血が、お腹の中で波打っているのだろうか)


 エリーゼの手紙をもう一度読んだ。「千冊に一冊の宝物」。この本はまさにそうだった。港町の記憶が一冊に閉じ込められている。この本を見つけてくれたエリーゼに感謝しなければ。あの人は公爵家を出て、本の力で人を繋ぐ仕事を選んだ。私は布と糸で。エリーゼは本と言葉で。やり方は違うけれど、自分の名前で、自分の手で、誰かの役に立っている。同じだ。


 仕立て台の三つの鋏が夕日を受けて銀色に閃いた。四つ目の居場所がもうすぐ必要になる。

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