第32話 カイルの母
カイルに母親のことを聞いたのは手紙を見つけてから三日後の夜だった。
仕立て屋の一階。夕食の後、メイベルが片づけに立ちヘレーナさんが離れに戻った後の二人きりの時間。窓の外に月が出ていて波の音が遠くから聞こえている。テーブルの上にはカイルのロープと私の刺繍糸が並んでいた。縄と糸。似たようなものだ。撚って結んで何かを繋ぐ。素材が違うだけで、手の動きは同じ。
「カイル。あなたのお母さんのこと、聞いてもいい?」
カイルの手が止まった。ロープの手入れをしていた手。油を染み込ませた布が途中で止まっている。
「……なんで今」
「母のことを知ったから。リゼットのこと。身体が弱くて刺繍が得意で窓から海を見ていた人だって。おばあちゃんの手紙で分かった。そしたらあなたの母のことも知りたくなった。結婚してるのにお互いの母の話をちゃんとしたことがないでしょう」
長い沈黙。カイルはロープを拭く手を完全に止めた。布を畳んでテーブルの端に置いた。この人が手を空ける時は何かに集中しようとしている。話す準備だ。めったに見ない動作。
「……母さんは南方の生まれだ」
深い場所から引き上げてくるような低い声だった。普段の「ああ」や「別に」とは違う声の層。滅多に開けない引き出しの奥から言葉を取り出しているような。
「親父が航海先で出会った。南方の島の染め師の家の娘だった。布を染めるのが上手くて、親父は最初布を買いに通ってた。そのうち布じゃなくて娘に会いに行くようになった。花の匂いがする島だった。一年中何かの花が咲いていて空気そのものが甘い。母さんはその中で育った。花と染料に囲まれて。色を作るのが得意な人だった」
カイルの目が窓の外を見ていた。月明かりの海。ここから南方の島は見えない。でもカイルの目は海の向こうの何かを見ていた。見えないはずの島を。嗅いだことのない花の匂いを。
「この港に連れてきた。俺が生まれた。でも母さんは馴染めなかった。言葉が違う。食べ物が違う。匂いが違う。南方は花の匂い。この港は魚と塩と潮風。母さんは魚の匂いが苦手だった。でも漁師町の嫁が魚を嫌がるなんて言えない。だから笑って黙って耐えてた。町の人は親切だった。意地悪をされたわけじゃない。ただ、合わなかった。場所が」
(合わない場所で合わない自分を隠して黙って耐える)
私が公爵家で感じた息苦しさと同じ構造だ。場所が違うだけ。王都の屋敷も港町も、「合わない」ことの苦しさは同じ形をしている。笑って黙って耐える。声に出せない。出したら壊れる何かがある。
「母さんは歌が上手かった。南方の子守唄を歌ってくれた。暗い部屋で俺を抱いて。その時だけ南方の言葉に戻った。普段はこっちの言葉で話してた。訛りがあったけど一生懸命直してた。でも歌だけは故郷の言葉だった。俺はその歌が好きだった。意味は分からなかった。でも母さんの声が一番柔らかくなる瞬間だった。港町の言葉を話す時より、歌の時の方が母さんは母さんだった」
カイルの声が掠れた。ロープを握る手に力が入っている。
「俺が覚えてるのはそれだけだ。顔は……写真もないし絵も残ってない。エリオット叔父が言うには目が大きくて髪が長くて笑うと歯が見えたらしい。俺は母さんの顔を思い出せない。声だけ覚えてる。歌の声だけ」
(声だけ覚えている。顔は忘れた)
私は母の顔も声も知らない。カイルは声だけ持っている。旋律だけの子守唄。歌詞のない歌。それだけが残った。
「八つの時に死んだ。病だった。でも俺は港に馴染めなかったのが本当の原因だとずっと思ってた。故郷から引き離されて花の匂いの代わりに魚の匂いを嗅いで。身体だけじゃない心も壊れたんじゃないかって。そう思うと親父を恨む時があった。連れてこなければ。でもそう思うと、俺は生まれてこなかったことになる」
初めて聞いた。カイルが父親に対して複雑な感情を持っていたなんて。この人はいつも穏やかで、恨みとは無縁に見えた。でも子供の頃から、そういうものを抱えていたのだ。黙って。
「エリオット叔父に引き取られて船乗りになった。南方航路に出たのは母さんの島を知りたかったからだ。母さんが育った海の色。嗅いでいた花の匂い。子守唄の歌詞。旋律だけ覚えてて歌詞は分からない。母さんは教えてくれる前に……」
声が途切れた。
「カイル」
「ん」
「私たち、二人とも親になるの初めてだね」
「……ああ」
「怖い?」
答えなかった。答えの代わりに私の手を取った。油の匂いがする乾いた大きな手。握り返した。強く。月明かりが手首の海色の糸を照らしていた。二人分の不安が掌の中で混ざっている。一人で怖がるより二人で怖がるほうが、ずっとましだと思った。
倉庫の灯りは今夜消えていた。カイルが行かない。隣にいる。
波の音が遠くで鳴っていた。カイルの母が知らなかった港の波。リゼットが聞けなかった海の音。同じ音が今二人の間に流れている。
「カイル」
「ん」
「子守唄の歌詞……いつか、見つかるといいね」
「……ああ。南方に行けば、知ってる婆さんがいるかもしれねえ。染め師の知り合いを辿れば」
「見つけてきてよ。この子に歌ってあげたいから」
カイルの手が少し強くなった。握り返す力が変わった。何かを決めた時の、この人の手の力。
「……ああ」
短い。でもあの「ああ」には種類がある。面倒くさい時の「ああ」と、照れている時の「ああ」と、約束する時の「ああ」。今のは三番目だ。一年半も一緒にいれば、一言の返事でも温度差が分かるようになる。
月が窓の上を横切っていく。隣でカイルの呼吸が穏やかになった。眠ったのだろう。私の手はまだ握られたまま。
(この人の母も歌を歌った。私の母は海を見ていた。二人ともいない。でも二人とも、子供に何かを残した。カイルには歌の旋律。私には名前。ロゼ、と呼んでくれた声)
二人分の母の不在が、今夜は少しだけ軽い。隣に同じ穴を持つ人がいるから。
月明かりの中で目を閉じた。明日からまた仕立て台に向かおう。お腹の子のための小さな巾着を縫うつもりだ。波の模様を入れて。リゼットが好きだった海の波を。カイルの母が育った南方の島の花を添えて。二つの海が、一枚の布の上で出会う。




