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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第30話 揺りかごの音

 カイルの帰りが遅くなった。


 港から戻った後、夕食を済ませると「ちょっと行ってくる」と言って出ていく。行き先は聞かない。聞いても「別に」としか答えないのは知っている。毎晩のことだから、もう追及する気もない。メイベルは「男の人にはああいう時間が必要なんですよ」と微笑んでいるし、ヘレーナさんは「放っておきなさい」と素っ気ない。二人とも何か察しているらしいが、教えてくれない。共犯者の顔をしている。


 ただ、港の倉庫の方角から夜になると木を削る音が微かに聞こえてくる。規則正しい穏やかなリズム。鉋だろうか。やすりだろうか。遠くて判別はつかないけれど、同じ間隔で同じ力加減の音がずっと続いている。船の甲板を修理する時の手つきに似ている。丁寧で、無駄がない。何かの輪郭を少しずつ削り出しているような音。


 大きなものを作っている。小物なら一晩で終わるはずだ。もう何日も続いている。何なら、妊娠が判明した日の翌晩からだ。あの晩、カイルはロープもまともに結べなくなっていた。それなのに翌日には木を削り始めた。手が先に動いたのだ。頭が追いつく前に、手が。この人はいつもそうだ。


(……何か作ってる。大きなものを。この子のために)


 追及しない。この人が黙っている時は手が代わりに語っている。看板の時もそうだった。「廃材だ」と言い張った磨き上げられた木肌の看板。あの船の絵。南方の布も翡翠色の糸も、全部「余り物」と「たまたま」で片づけてきた人だ。完成するまで待つ。この人のものづくりは出来上がった瞬間にだけ全貌が見える。途中のものを「何?」と聞かれるのが耐えられないのだろう。答える言葉を持っていないから。代わりに完成品を差し出す。それがこの人の愛情表現の全てだ。


 仕立て屋の二階から港の倉庫を見た。小さな灯りが揺れている。木屑の匂いが夜風に乗ってかすかに届く。潮の匂いに混じって削りたての木の甘い香り。あの灯りの下であの大きな手が何かを削っている。ロープを完璧に結べる手。帆を張れる手。薪を割り窓を直し看板を彫った手。


 毎晩あの灯りを見てから眠る。灯りが消えるとしばらくしてカイルが戻ってくる。足音を忍ばせて二階に上がりマントを椅子にかけ隣に横になる。起こさないようにしているつもりらしいが、木屑と油の匂いで全部ばれている。爪の間に木の粉が詰まっていることも朝の洗面で確認した。樫の木だった。匂いで分かる。仕立てをやっていれば、木の種類は匂いで判別できる。祖母の仕立て台と同じ木。


(あの灯りが好きだ。誰かが私のために何かを作っている。それが何かは分からなくても、あの明かりが窓から見えるだけで穏やかに眠れる)


 ◇


 三日目の朝。仕立て台の前にヘレーナさんが座っていた。


 最近は毎朝ここに来る。離れの部屋から杖をつきながら歩いてきて仕立て台の端に腰かけ、黙々と針を動かす。百合の鋏と白い絹糸。刺繍のポーチや小物を繍って港町の市で売っている。「小遣い稼ぎよ」と言うが飛ぶように売れていた。四十年の沈黙が生んだ繊細さは同業者の私が見ても息を呑む。


 今朝は違うものを手にしていた。白い絹の端切れ。いつもより遥かに小さく裁った布。百合の鋏で丁寧に整えている。端の処理が細かい。ほつれにくいように二重に折り込んでいる。


「ヘレーナさん、それは」


「見れば分かるでしょう」


 分かった。産着だ。赤ん坊の産着を縫おうとしている。


 布の裁ち方が独特だった。身頃を一枚仕立てにして縫い目が赤ちゃんの肌に当たらないよう外側に出している。紐は片手で結べる長さ。夜中の授乳でも暗がりで着せられるように。襟元は広めに取って頭を通しやすくし裾は足先まで包める。寒い夜に冷えないように。全てに理由がある。実用の知恵が隅々まで行き渡っていた。


「ヴィクトルが生まれた時に使用人が縫うのを見ていたの。自分では縫わせてもらえなかったけれど、見ることまでは禁じられなかった。縫い方も寸法も紐の長さも全部目で覚えた」


 自分の息子の産着すら縫えなかった女が、血のつながらない赤ん坊のために初めて産着を縫っている。五十六歳の手で。四十年間封じられた手で。針の運びを横目で見た。一針一針が正確で糸の引きが均一で、花弁の曲線が生き物のように布の上に現れていく。


 産着の襟元に極小の刺繍が入り始めた。白い絹地に白い糸で百合の花。正面から見ても分からない。光の角度を変えて初めて模様が浮かぶ。赤ん坊が着て動けば誰にも見えない。でもそこにある。隠された祈りのように。


「汚れが目立つから白がいいのよ。赤ん坊はすぐ汚すから」


 実用を装う嘘。カイルの「別に」と同じ種類の。大事なことほど素っ気なく言う人がこの家には二人いる。


「……ありがとう、ヘレーナさん」


「暇つぶしよ」


 二人で並んで黙々と縫った。窓から海風が入ってくる。仕立て台の上に二つの鋏が並んでいる。祖母の鋏と百合の鋏。かつて義母と嫁だった二人が同じ台に向かう。十年前には想像もできなかった朝の風景。


 午後、ヘレーナさんが紐の長さを調整しているのを見ていた。何度も測り何度も切り直す。ほんの数ミリにこだわっている。この人も待てる人だ。四十年間鋏を手入れし続けたように。急がない。急ぐ必要がないことを知っている。


 夜、窓の外を見た。倉庫の灯りが今日も揺れていた。カイルもヘレーナさんも言葉にしない代わりに手で語る。倉庫の灯りと産着の百合。二つの祈りがまだ見ぬ命に向かっている。


 その音を聞きながら眠った。子守唄の代わりに。


 夢を見た。祖母の仕立て台の足元で、端切れの人形を縫っている夢。祖母が覗き込んで「ロゼッタは筋がいいねえ」と笑う。その向こうで、知らない女の人が窓辺に座っている。白い布に白い糸で何かを繍っている。顔は見えない。でも指先だけが見える。細くて、器用な指。


 目が覚めた。窓の外に朝の光が差していた。倉庫の灯りはもう消えている。隣でカイルが眠っていた。木屑の匂いがする。爪の間に樫の粉。


(おはよう。……今日も何か作ったでしょう)


 聞かない。聞かないまま、港町の穏やかな朝が始まる。パンの匂いがする。今朝は胃が平気だ。身体が少しずつ慣れてきている。お腹の中で、小さな命がゆっくりと育っている。

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ほら、母はおったやん
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