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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第29話 言えなかった名前

 翌朝には、町中が知っていた。


「ロゼッタちゃんがおめでただって!」


 パン屋の奥さんが朝一番に焼きたてのクルミパンを持ってきた。紙に包んでも指の間から湯気が漏れる。「栄養つけなきゃ」と押しつけるように渡された。船大工の娘は玄関先で「赤ちゃんの揺りかご、うちで作れるよ。樫がいい? 楢がいい?」と木の種類まで聞いてきた。酒場の女将は「カイル船長の子なら、きっと海が好きな子になるねえ」と目を細め、隣町の農家の奥さんまで祝いの卵を籠いっぱいに持って坂道を上がってきた。卵を抱えてあの急な坂を上るのは相当きついはずだが、息一つ切らしていない。農家の女は足腰が強い。


(マルタ……やっぱり言いふらしたな)


 善意だ。分かっている。港町は秘密を持てない。潮風が全部運んでいく。公爵家では考えられない速さだ。あの屋敷で妊娠が判明したら、まず義母に報告し、主治医を呼び、社交界への公表時期を何週間もかけて調整する。ここでは朝のパンを買いに行く間に全員に伝わる。


 嬉しい。町中が祝ってくれることが嬉しい。公爵家では誰も祝ってくれなかっただろう。ヘレーナ義母は「跡継ぎの義務を果たしたか」と確認し、ヴィクトルは署名一つで終わらせただろう。ここでは焼きたてのパンが届く。クルミパンと卵とで温かさが量られる世界。


 なのに、胸の奥に小さな影がある。針で突いたような、かすかな痛み。嬉しさの裏に張りついて離れない冷たい気配。


 夕方になって客が途切れた頃、仕立て台の前で手が止まった。注文品の刺繍を進めていた。隣町の農家の奥さんの日曜礼拝用ショール。裾に波と小花を散らす、何度も繍った仕事。それなのに波模様の曲線がうまく描けない。指先が迷う。針が布の上で行き先を失って止まった。


(今日は駄目だ)


 原因は分かっている。


(……母さん)


 呼んだことのない名前。顔も声も知らない。


 祖母に育てられた。「お母さんは、あなたを産んですぐに天国に行ったのよ」。祖母はそう言って、それ以上は語らなかった。悲しそうな顔でもなかった。ただ淡々と、静かに。聞いてはいけない気がして聞かなかった。子供の頃は「おばあちゃんが母親代わり」で満足していた。祖母の膝に座り、端切れで人形の服を作り、「ロゼッタは筋がいいねえ」と褒められるだけで十分だった。母がいないことを不幸だとは思わなかった。


 でも今、自分が母になるということが急に重くなった。のしかかってくる。手本がない。お手本にすべき母の記憶が何もない。母の手がどんな形をしていたか。指は太かったか細かったか。針を持ったことがあるか。朝は早起きだったか。笑うと目が細くなったか、口が大きく開いたか。何も知らない。何一つ。


 子供に「おばあちゃんはね」と祖母の話はできる。仕立て台のこと、鋏のこと、港町の夕焼けのこと。祖母の記憶はたくさんある。でも「お母さんのお母さんはね」と自分の母の話は、何も語れない。名前すら曖昧だ。この子が大きくなって「お母さんのお母さんはどんな人だったの」と聞いたら、私は何と答えるのだろう。「知らないの」と言うしかない。その二文字が、今から怖い。


 ◇


 メイベルが紅茶を持ってきてくれた。薄めに淹れてある。この人は胃の調子まで紅茶の濃さで読む。二十年の使用人頭は主人の体調を茶葉の量で管理する。窓辺に二人で座った。午後の海は穏やかで、カモメが桟橋の杭の上で羽を繕っている。


「メイベル」


「はい」


「私に母親ができるかな」


「できますよ」


 即答だった。一秒も迷わず、紅茶を注ぐ手も止めなかった。


「ロゼッタさん、あなたは十年間、あの屋敷の全員を世話していたでしょう。使用人の体調を気遣い、来客の好みを覚え、リーナのパイ生地の出来栄えを褒め、ジョセフが風邪を引けば薬を手配し、義母様の薬の種類と時間を暗記していた。使用人の誕生日まで把握していたのはロゼッタさんだけです。母親の練習はとっくに済んでいます」


 メイベルの言葉は数字と同じくらい正確で、数字と違って温かい。


「でも、お手本がないの。おばあちゃんはいたけど母は……」


 声が詰まった。港町に来てから涙腺が壊れている。カイルのせいだ。あの人の前で泣く癖がついた。メイベルがカップを静かに置いた。


「お手本がなくても大丈夫です。完璧な母親なんていません。ヘレーナ太夫人もご自身では完璧とは言えなかった。大事なのはその子の顔を見ること。声を聞くこと。名前を呼ぶこと。ロゼッタさん、あなたは人の顔を見る方です。あの屋敷であなただけが皆の顔を見ていた。リーナが泣いていれば気づき、ジョセフが無理をしていれば気づいた。ベティの爪の染め物の痕まで覚えていた」


(顔を見ること)


 ヴィクトルは十年間、私の結い糸の色すら見なかった。カイルは二回多いまばたきで異変を察する。見る人と見ない人。その差が全てだと、メイベルは言っている。


「……ありがとう、メイベル」


「事実を申し上げただけです」


 この口癖に何度救われただろう。事実は感情より頼りになる。少なくとも、メイベルが差し出す事実は。


 紅茶が冷めかけていた。一口飲んだ。薄くて優しい味。つわりの胃にちょうどいい。この加減を一度も聞かずに合わせてくるメイベルが、少し怖い。


 窓の外に海が広がっている。名前すら、ちゃんと覚えていない。祖母が一度だけ呟いた名前。リゼ……いや、もっと長い名前だったはずだ。幼い耳で聞いて正確に覚えられなかった。音の断片だけが記憶の底に沈んだままだ。


 確かめたい。祖母の遺品箱。あの箱の中にまだ読んでいないものがあるかもしれない。


(おばあちゃん。お母さんのこと、もっと教えてほしかった)


 でも今なら分かる。祖母が黙っていた理由。泣く前に立たせたかった。立てるようになってから聞かせたかった。


 立った。今、私は自分の足で立っている。仕立て台の前で、自分の名前で仕事をして。だから今なら聞ける。聞いても崩れない。


 仕立て台に手を置いた。祖母の鋏が夕日を受けて光っていた。この鋏と同じ場所に、答えがあるかもしれない。遺品箱は二階の棚の奥にしまってある。埃を被っているだろう。明日、もう一度開けてみよう。


 カモメが一声鳴いて、桟橋から夕焼けの空に飛び立った。

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― 新着の感想 ―
母なら一緒に住んでるじゃないか クソ男どもに苦労した人がさ
ヴィクトルとその父親は赤ちゃんなのかなと思いました。赤ちゃんは誰かが全部やってくれているから健やかに過ごせているなんて思いもしない。 ヴィクトルは何でこんなことになったのか、全て妻が悪い、自分には何の…
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