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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第4章

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第28話 潮の朝に

 仕立て台が傾いた。


 ──いや、傾いたのは台ではなく私のほうだった。朝、いつものように窓を開けて、いつものように針を手に取ろうとした瞬間、視界がぐらりと回った。仕立て台の角を咄嗟に掴む。指先が天板を滑って、糸巻きが一つ転がり落ちた。床に当たって跳ねる小さな音。


「……あれ」


 目眩は数秒で治まった。でも胃の底がむかむかする。昨夜のメイベルの魚料理が合わなかったのだろうか。いや、あれは美味しかった。三杯もおかわりした。メイベルが呆れた顔をしたくらいだ。


 窓から潮風が吹き込んでくる。いつもなら心地よいはずの匂いが、今朝は少しだけ重い。腹の底に小さな錘を落とされたような感覚。波の匂いがこんなに濃かっただろうか。


 階下でメイベルが朝食の支度をしている。卵を割る音。パンを焼く匂い。その匂いで、胃が裏返りそうになった。


(おかしい。パンの匂いが駄目だなんて。焼きたてのクルミパンは大好物なのに)


 椅子に座り直した。深呼吸をした。窓の外には港が見える。カイルの船は停泊していて、帆が朝日を受けて白く光っている。漁師たちが出航の準備をしている。桟橋で網を繕う男たちの声が、朝の空気をゆるく振動させている。いつもの朝だ。


 でも、いつもの朝が少しだけ違って見える。目眩のせいだけではない。空の色が普段より鮮やかに感じる。潮風の温度がいつもより肌に近い。世界の輪郭が、ほんの少しだけ明るくなったような。


(気のせいだ。きっと)


 メイベルが二階に上がってきた。朝食の皿を持って、私の顔を見て、足を止めた。皿をテーブルに置くより先に、私の顔を読んでいた。この人はいつもそうだ。二十年の使用人頭の目は、主人の顔色を朝食の皿より先に見る。


「ロゼッタさん。顔色が悪いですよ」


「大丈夫。ちょっと目眩がしただけ」


「……いつからです?」


「今朝だけど」


「先週、魚を干している路地を避けて歩いていましたね。その前の週は紅茶をいつもより薄く淹れてほしいと仰いました」


(見ていたんだ。全部)


 先週、確かに魚の干物の匂いが急にきつく感じた。でも気のせいだと思っていた。紅茶の濃さのことも、自分では意識していなかった。この人は私の変化を、私より先に数えている。


 メイベルが静かに微笑んだ。泣き虫のこの人が、穏やかに、確信を持って微笑んでいる。


「マルタさんを呼びましょう」


「マルタさんって、あの漁師の……」


「産婆でもありますから」


 産婆。


 その一語が三秒遅れで胸に落ちた。仕立て台に置いていた手が、知らないうちにお腹へ移動していた。


 ◇


 マルタが来たのは昼前だった。日焼けした手で私のお腹に触れ、脈を取り、質問をいくつかした。最後の月のものはいつか。食べ物の好みが変わっていないか。朝のだるさはいつから感じるか。全部に答えた。答えるたびにマルタの顔が確信に変わっていく。マルタの手は荒れていて、指先にたこがある。網を繕い、魚を捌き、赤ん坊を取り上げてきた手。この手に二重の命が最初に触れた。


「間違いないね。二月ってとこだ。つわりが出始めたところだから、あと一月くらいは辛いかもしれないけど、そこを越えたら楽になるよ」


 マルタの声は、パン屋で新作のパンを勧める時と同じ調子だった。港町では子を産むことは潮が満ちるのと同じくらい自然なことらしい。大ごとにしない。騒がない。ただ「そうだね、そういう季節だね」という顔で受け止める。


 でも私は椅子から立てなかった。


(子供が、いる)


 十年。あの冷たい寝台で十年。右半分に皺ひとつなかったあの寝台。ヴィクトルは一度も部屋を訪ねなかった。没落貴族の血を入れたくなかった。十年間、ばかみたいに期待していた。心のどこかで。子供だけは。子供さえいれば。


 あの十年は空白だった。寝台の右半分のように、冷たくて、命の気配がない。


 今、お腹の中に命がある。空白の対岸にこんなにあっさり辿り着いてしまった。


「ロゼッタちゃん、嬉しいんだろう? 泣いていいんだよ」


 マルタの一言で決壊した。公爵夫人だった頃なら堪えた。笑って「ありがとうございます」と言えた。港町で鎧を脱いでしまった今の私には、それができない。メイベルがハンカチを差し出した。マルタが背中を撫でた。二人の手が温かかった。


 泣きながら不思議だった。涙が止まらないのは悲しいからじゃない。嬉しいだけでもない。十年分の空白から溢れた、名前のつけられない感情だった。


 ◇


 夕方、カイルが港から戻った。仕立て屋の戸を開けて「よう」と言いかけて、私の顔を見て止まった。


「……何かあったか」


「カイル。座って」


「座るほどの話か」


「座って」


 カイルが椅子に座った。膝の上で拳を握っている。嵐の予兆を察した船長の顔。


「妊娠した」


 カイルの手が止まった。拳が開いて、閉じて、また開いた。目が大きくなって、私の顔とお腹を往復した。


「……もう一回言ってくれ」


「妊娠したの」


「……もう一回」


「何回言わせるの」


 カイルが立ち上がった。窓際まで歩いて港を見て、深呼吸をして戻って座った。テーブルのロープを結び始めたが、途中で止まった。ロープがほどけて落ちた。


 嵐の中でも帆を完璧に結ぶ手が、細い紐一本扱えなくなっている。


「大丈夫?」


「ああ。いや。ああ」


 返事になっていない。でも耳だけは正直だった。赤い。夕日のせいではない。


(この人が動揺してる。こんなカイル、初めて見た)


 もう一度ロープを手に取った。三度目の挑戦。結べた。が、いつもと違う結び方になっている。本人も気づいたらしく、ほどいてやり直している。


「明日には直る」


「何が」


「手が」


「手の問題じゃないでしょ」


「……うるさい」


 照れた声。初めて聞いた。この人の声色のバリエーションが、港町に来てから一つずつ増えている。無表情、ぶっきらぼう、照れ、怒り。そして今の、動揺を隠しきれない声。全部、私だけが知っている声だ。


「カイル」


「ん」


「ありがとう」


「何がだ」


「いてくれて」


 カイルの手がまた止まった。今度はロープを落とさなかった。ただ、耳がさらに赤くなった。窓からの夕日が二人を照らしている。仕立て台の上に祖母の鋏が光っていた。


 笑った。泣きながら。嵐の海を渡る船長が、子供ができたと聞いてロープも結べなくなっている。その不器用さが、何より嬉しかった。


 十年の空白が、今日、埋まり始めた。

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