第23話 白い百合の女
ヘレーナ様は、白い百合が好きだった。
朝、病室に入ると、昨日の百合が枕元にまだあった。水は濁ったまま。替えてやりたい気持ちが一瞬湧いて、自分で驚いた。この人のために何かする義理は、もうないのに。
でも花瓶の水だけは替えた。花には罪がない。冷たい水を注ぐと、白い花弁がほんの少しだけ持ち上がった気がした。
ヘレーナ様は身体を起こしていた。昨日より少しだけ顔色がいい。寝台の背にもたれて、窓の方を見ていた。カーテンを少し開けたらしい。薄い光が差し込んでいる。
「おはようございます」
「ええ」
椅子に座った。距離は腕一本分。近すぎず、遠すぎず。十年間の距離感が、身体に染みついている。
ヘレーナ様がしばらく黙っていた。呼吸の音だけが聞こえる。この人は昔からそうだ。言葉を慎重に選ぶ。選んだ上で、冷たく放つ。今日は、どうだろう。
「……白い百合」
ヘレーナ様が口を開いた。
「知っていた? あの花は、私の実家の庭に咲いていたの」
「伯爵家の庭園に、百合の一角があった。母が世話をしていたわ。私は毎朝、母が百合に水をやるのを見ていた」
ヘレーナ様の声は低く、掠れていたけれど、はっきりしていた。語るべき言葉を、何年も前から用意していたかのように。一語ずつ、掘り出してくるような話し方だった。地面の下に長く埋まっていたものを、ようやく日の光に晒すような。
「私は伯爵家の長女として生まれた。三人姉妹の一番上。父は穏やかな人だったけれど、政治力がなかった。金はあった。でも、宮廷での発言権がない。それが父の焦りだった」
ヘレーナ様は窓の方を見たまま話し続けた。私の方は見ない。
「二十歳の時に、ランベール公爵家から縁談が来た。先代公爵。ヴィクトルの父。名門の次期当主。父は飛びついた。伯爵家の金と、公爵家の名前。よくある取引よ」
取引。祖母とヘレーナ様の手紙を読んだ時と同じ言葉だ。結婚という名の取引。私の時も、この人の時も。
「恋愛感情は?」
聞いてしまった。聞くべきではなかったかもしれない。
「なかったわ」
即答だった。一片の躊躇もなく。
「先代は放蕩者だった。嫁いだ初日に分かった。屋敷は荒れていて、帳簿は出鱈目で、使用人は好き放題やっていた。公爵家の名前だけが立派で、中身は空っぽだった」
ヘレーナ様の唇が、薄く歪んだ。
「私がやった。全部、私が立て直した。帳簿を作り直して、使用人を教育し直して、商人との取引を一から交渉した。二十年かけて、あの屋敷を王国随一の公爵邸にしたのは、私よ」
手の甲が粟立った。背中を冷たいものが走る。
私は十年。ヘレーナ様は二十年。同じことをしていた。帳簿を書き、招待状を差配し、使用人を束ね、夫の名前で全てを回していた。
「先代は何もしなかったの?」
「何もしなかった。酒と賭け事と女。領地の視察にも出ない。署名だけ。覚えがあるでしょう」
ある。痛いほど。
「南方航路の再開を提案したのも私よ。先代は興味すらなかった。でも交易が成功したら、自分の手柄にした。宮廷に提出した報告書に、私の名前は一行もなかった」
耳の後ろが冷たくなった。
十年分の報告書。全部私が書いて、「ランベール公爵」の名前で王に届いた。父と息子で、やることが同じ。使い潰す相手が違うだけ。この家の男は二代にわたって、妻の仕事を自分の名前で差し出す。
「感謝されたことは?」
「一度もないわ。当然だと言われた。公爵夫人なら当たり前だと。ね、聞き覚えがあるでしょう」
あの言葉だ。「嫁として当たり前」。ヘレーナ様が私に言い続けた言葉。
(この人は、自分が言われた言葉を、私に繰り返していたの?)
頭が追いつかない。怒ればいいのか。悲しめばいいのか。全部が同時に押し寄せてきて、どれも形にならない。喉の奥が締まって、呼吸が浅くなった。
「手首の糸は」
「白かったわ。五年目には。あなたと同じ」
やはり。昨夜、寝間着の袖口から見えた薄い痕。白い結い糸の痕だった。
「あなたは五年で褪せた。私は三年だった。先代はもっと早かった。違うのは」
ヘレーナ様が初めて、私の目を見た。
「あなたは逃げられた。私には、逃げ道がなかったの」
功労離縁。古い法律。祖母が条件に入れた、あの制度。ヘレーナ様には、それがなかった。伯爵家の長女として嫁ぎ、実家の金を持ち込み、二十年間使い潰されて、逃げ道を誰も用意してくれなかった。
舌の根元が重くなった。何か言おうとして、言葉が口の中で固まる。
「だから……あなたにはああいう教え方をした。厳しく。冷たく。感謝もせず」
ヘレーナ様の手が、掛け布の端を握りしめている。骨の浮いた指が白くなるほど。
「あなたが来た時、私は四十歳だった。二十年間一人で回してきて、身体がもう限界だった。後継者が欲しかった。嫁が、ではないの。私の仕事を引き継げる人間が」
嫁ではなく。後任。自分が二十年間やってきた仕事を引き継ぐための。
「あの屋敷に甘えたら飲み込まれる。私がそうだったように。だからあなたには厳しくした。でも今にして思えば、あれは、私が受けたのと同じことを、あなたにしていただけだった」
「教え方を間違えた。それは、認めるわ」
長い沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れている。白い百合の花弁が、光の中で透けて見えた。
私は何も言えなかった。
理解できる。理屈は分かる。先に潰された人が、次に来た人を「潰されないように」鍛えた。でもそのやり方が、結局は同じ暴力になっていた。鳥籠の中で、鳥を強くしようとして、別の鳥籠を作ったのだ。
(許せるかと言われたら、まだ分からない)
でも。「間違えた」と認めた目は、十年間で一度も見たことのない目だった。あの冷たい義母の目ではない。もっと生身の、痛みを隠さない目。
手首の海色の糸に、無意識に指が触れていた。この糸がある。カイルがいる。港町がある。帰る場所がある。だから私は、ここで崩れない。
「……続きは、明日聞きます」
「ええ。続きが、あるの」
部屋を出る時、花瓶の百合を見た。水を替えたばかりの、白い花。この人の唯一の故郷の記憶。二十年間、公爵邸の窓から見えたのは整えられた庭園だけだったのに、枕元にはいつも、内陸の実家の花を置いていた。
鳩尾の奥で、何かが小さく軋んだ。名前をつけるのは、まだ早い。




