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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第22話 帰還

 門扉の蝶番が錆びていた。私が毎週油を差していた蝶番。


 馬車を降りて、最初に目に入ったのがそれだった。小さなこと。たかが蝶番。でも、この家では「たかが蝶番」が百も二百もあって、その全部を私が回していた。


 庭園の薔薇は枝が伸び放題で、植え込みは形を失い、雑草が石畳の隙間から顔を出している。噴水は止まっている。水が抜けた盆に、枯れ葉が溜まっていた。


 玄関ホールに入る。花瓶は空。タペストリーが傾いている。廊下の絨毯に踏み跡が少ない。人の気配が薄い。


 残っていた使用人が駆け寄ってきた。年若い娘と、庭師と、もう一人厨房係らしい中年の女。三人。エリーゼの手紙の通りだ。


「ロゼッタ様……!」


 年若い娘が目を赤くしている。見覚えがある。私が面接して採用した洗濯場の子だ。名前は、ベティ。爪に染め物の痕がある子。


「ベティ。元気そうでよかった」


 名前を呼んだだけで、ベティの目から涙がこぼれた。隣にいた庭師のエドが帽子を胸に当てて深く頭を下げた。厨房係のマルガが、手を前掛けで拭きながら鼻をすすっている。


「奥様がいらっしゃった頃は……いえ、今は、太夫人のところへ」


 エドの声が震えている。この人は寡黙な庭師で、薔薇の手入れだけは誰にも負けなかった。その薔薇が今、枝を伸ばし放題にされている。一人では、広すぎるのだ。


(……ああ。この人たちも、誰にも褒められずに、ここを守っていたんだ)


 十年前の自分と同じだった。何をしても「当然」で、何を頑張っても見てもらえない。辞めた人を責める気はない。残った人たちを、責める気はもっとない。残ったのではなく、行く場所がなかっただけかもしれないけれど。


 案内されて廊下を歩く。曇ったガラスの向こうで光が白っぽく霞んでいる。足音が空ろに反響する。


 書斎の前を通りかかった。扉が開いている。中が見えた。机の上に書類が散乱している。署名のない報告書。インクが乾いたままの万年筆。あの万年筆。私が何百通と手紙を書いたものだ。放置されている。


(……触れるな。もう私の場所じゃない)


 目を逸らした。


 埃と、古い布と、使われていない暖炉の煤。生きている家の匂いではなかった。私が知っているランベール公爵邸は、朝は焼きたてのパンと百合の花の香りで満ちていた。今は、何の匂いもしない。家が死にかけている匂い、とでも呼ぶべきか。十年間、毎朝一番に灯していた明かり。一年半、誰も灯さなかった明かり。その不在が、廊下の空気そのものになっている。


 ◇


 廊下の角を曲がった時、足が止まった。


 向こうから、男が歩いてきた。


 ヴィクトル。


 一年半ぶりに見る元夫は、別人のようだった。金髪は手入れされているが、頬がこけている。目の下の隈が深い。外套はきちんと着ているのに、どこか芯が通っていない。中身が抜けた鎧みたいだった。


 三歩の距離。かつて同じ食卓についていた二人が、廊下の真ん中で向き合っている。窓から差す弱い光が、二人の間の埃を照らしていた。


 ヴィクトルの目が、私を見た。一瞬だけ、何かが揺れた。


 覚えているのは精悍な横顔と、書斎で署名する白い手だ。あの頃は頬に肉があり、目に力があった。十年間毎朝見ていた顔だ。今は袖口から覗く手首が骨張っていて、どこか別人のように見えた。


 私は何も感じなかった。港でカイルに再会した時よりも、ずっと静かだった。奥歯に力が入ることもない。こめかみが熱くなることもない。ただ、廊下に立っている一人の男がいるだけ。


(この人に十年を費やしたのだ、ということすら、もう実感がない)


 ヴィクトルが口を開きかけた。唇が動いて、声が出ない。


 私はそのまま、横を通り過ぎた。すれ違いざまに、外套から微かに書斎のインクの匂いがした。あの匂いだけは変わっていない。


 振り返らなかった。振り返る理由がなかった。


 ◇


 ヘレーナの部屋は、屋敷の東棟にあった。


 扉をノックした。返事はない。エドが「どうぞ」と促した。


 開けた。


 暗い。カーテンが閉まっている。蝋燭が一本、枕元で揺れている。薬草の匂い。窓を長く開けていない部屋の、淀んだ空気。


 寝台に、ヘレーナがいた。


 小さい。


 それが最初の印象だった。背筋を伸ばして廊下を歩いていた人が、毛布の中でこんなに縮んでいる。白髪が増えていた。頬は痩せ、鎖骨が浮いている。腕が細い。あの腕で使用人を差配し、帳簿の頁をめくり、食堂の空気を一言で凍らせていた。


 あの声が。毎朝、廊下に響いたあの声が。今はこの枯れた身体から出るのだろうか。


 でも、目は鋭かった。


 私が入ってきたのを見て、まぶたが持ち上がった。灰色の瞳が、薄暗がりの中で光る。十年前と同じ目。相手の全てを見透かす目。


「……来たの」


 掠れた声。でも弱々しくはなかった。


「来ると思っていたわ」


 その目に、懇願はなかった。媚びもなかった。諦めでもなく、怒りでもなく。覚悟を決めた人の目だ。


 枕元に小さな花瓶があった。白い百合が一輪、萎れかけている。水が濁っている。客間の花は私が選んでいた。でもヘレーナの私室だけは、いつもご自分で白い百合を指定した。理由を聞いたことはない。聞ける関係ではなかった。


 長袖の寝間着の袖口から、細い手首が覗いていた。そこに薄い線が見えた気がした。蝋燭の灯りでは、はっきりしない。


「話があるの。ロゼッタ」


 名前を呼ばれた。「あなた」でも「嫁」でもなく。命令の前置きでもなく。ただ、ロゼッタ。この人が私の名前をそう呼んだのは、十年間で何回あっただろう。


「……聞きます」


 ヘレーナが目を閉じた。長い息を吐いた。肋骨が毛布の下で動くのが見えた。


 沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れている。廊下の向こうで、ベティが何か運んでいる音がする。この屋敷にはまだ、三人分の生活音がある。たった三人分の。


 そして、静かに、口を開いた。


「私の話を、聞いてくれるかしら」


 命令ではなかった。


 初めて聞く、お願いの声だった。十年間、あの廊下から聞こえてきた声とは別の声だった。冷たい声しか知らなかった人の、掠れて、低くて、どこか脆い声。


 手首の海色の糸に、指先が触れた。カイルの温度を思い出す。「待ってる」と言ってくれた声を。


「……聞きます。ヘレーナ様の話を」


 白い百合が、蝋燭の灯りにゆっくりと揺れていた。

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