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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第20話 海風の朝、ふたたび

 仕立て屋の朝は、今日も海風から始まる。


 窓を開けると、潮の匂いが部屋を満たした。もう何百回とやった動作。でも毎朝、少しだけ違う。風の温度、潮の濃さ、カモメの声の高さ。海は同じ顔を二度としない。


 メイベルが一階で朝食の支度をしている音が聞こえる。卵を割る音、パンを焼く匂い、湯が沸く音。彼女が来てから、この家の朝は格段に豊かになった。一人で迎えていた朝とは違う。


(一年、か)


 あの屋敷を出てから、一年が経った。


 仕立て屋は繁盛していた。王宮御用達の看板は健在で、王都の貴婦人たちからの注文が途切れない。隣町のエリオット町長の姪クラーラが見習いとして通い始め、一人で回すのが限界だった仕事に余裕が生まれた。


 メイベルが仕立て屋の経理を引き受けてくれた。二十年間公爵家の帳簿を見守ってきた人だ。数字の扱いは完璧で、私が帳簿に費やしていた時間が丸々針仕事に回せるようになった。


 全てが、うまく回っている。


 ◇


 午前中にメイベルが手紙を持ってきた。


「エリーゼさんからですよ」


 開封した。


『ロゼッタさん。お元気ですか。ご報告です。王都の商業通りに、小さな本屋を開きました。「碧の栞」という名前です。歴史書と紀行文を中心に、少しずつ品揃えを増やしています。開店初日は三冊しか売れませんでしたが、先週は十二冊売れました。少しずつ、でも確実に。父はまだ怒っていますが、先日こっそり店の前を通ったそうです。中には入らなかったそうですけれど。 それから──公爵家のことを少しだけ。ヴィクトル殿は二度目の離縁で社交界から完全に孤立されたそうです。王宮からの監査はさらに厳しくなり、領地の運営は実質的に監査官が行っているとか。ヘレーナ太夫人は屋敷から出られなくなっているそうです。マリアンヌ様のお子ルシアンは、セレスト伯爵家で健やかに育っているとのこと。認知の問題は結局うやむやになったようです。 あの屋敷のことを書くと、胸が少し痛みます。でも、もう、あの痛みに飲み込まれることはありません。ロゼッタさんのおかげです。 また港町に遊びに参ります。今度はお客としてではなく、友人として。 エリーゼ』


 手紙を読んで、笑った。「碧の栞」。いい名前だ。エリーゼらしい。


 メイベルに手紙の内容を話すと、静かに微笑んだ。


「あの方は、ロゼッタさんとは違う花を咲かせましたね」


「うん。……それがいい」


 同じ土から出た芽が、違う花を咲かせる。それが一番いい。


 ◇


 公爵家の末路は、もう気にならなかった。


 ヴィクトルが二度目の妻に去られたこと。社交界から孤立したこと。領地が監査官の管理下で縮小していること。どれも自業自得の帰結であり、私が背負う必要のないものだ。


 あの人は最後まで、人を見なかった。航路を見て、帳簿を見て、後ろ盾を見て、目の前に立つ人間の顔を見なかった。


 でも、恨んではいない。恨む必要がないくらい、今が幸せだから。


 ◇


 昼下がり。港に帆影が見えた。


 北風号。カイルの船だ。


 二週間の航海から戻ってきた。南方の島々を回って、布地と染料と、時々珍しい果物を積んで帰ってくる。今日は何を持ってきたのだろう。


 港まで歩いた。坂道を下りて、桟橋に向かう。「たまたま散歩」なんて嘘はもうつかない。迎えに行くのだ。堂々と。


 桟橋にカイルの姿が見えた。船から荷を下ろしている。日に焼けた腕。海風で乱れた黒髪。半年前と同じ姿。でも、私を見つけた時の目が、少しだけ柔らかくなった気がする。


「おかえり」


「ああ」


 いつもの一言。でも、今日は、その後に続きがあった。


「ロゼ」


「何?」


 カイルが荷物を下ろした。ポケットに手を入れた。何かを探している。見つけた。小さな包みを取り出した。


「南方で見つけた」


 包みを開いた。


 指輪だった。


 銀の細い輪。飾り気はほとんどない。でも内側に、波の模様が細かく彫られている。南方の職人の手彫り。海の民の伝統的な紋様だ。


「カイル、これ……」


「一緒に海を見て暮らさないか」


 短い。あまりにも短い。プロポーズがこんなに短い人間が他にいるだろうか。「愛している」も「結婚してほしい」も入っていない。ただ「一緒に海を見て暮らさないか」。


 でも、それが、この人の全部なんだ。


 言葉の代わりに行動で示してきた人が、最後に選んだ言葉が「一緒に暮らそう」。十年分の薪と、布と、看板と、刺繍糸と、嵐の夜の帰港と、門の前で待つ夜と──全部を、この一言に込めている。


 涙が出た。また。この人の前だと、すぐ泣く。公爵家では一度も泣かなかったのに。この人の不器用な言葉だけが、私の涙腺を壊す。


「……ばかだね」


 港町訛り全開だった。もう直す気もない。丁寧語なんか、もうどこにもない。


「もうとっくに、そのつもりだよ」


 カイルが目を見開いた。それから──笑った。初めて見る満面の笑み。無愛想で寡黙で、大事なことほど黙る人が、波止場のど真ん中で、歯を見せて笑っている。


 指輪を左手にはめてくれた。不器用な手つきで。船のロープは完璧に結べるくせに、こういうことはてこずる。前に海色の糸を結んだ時と同じだ。


「……下手くそ」


「うるさい」


 二度目だ。このやりとりも。


 手首の海色の糸と、指の銀の輪。二つが並んで、港の光を受けている。


 結い糸は、もうない。白く褪せて解かれたあの糸は、過去に置いてきた。代わりにあるのは、海の色の糸と、波の模様の指輪。


 どちらも、カイルがくれたもの。


 ◇


 仕立て屋に戻った。窓を開ける。海風が入ってくる。


 祖母の仕立て台。カイルが作った看板。メイベルの紅茶の匂い。エリーゼからの手紙。


 十年前、あの屋敷で「もう、終わりにします」と思った朝。あの朝から始まった新しい人生が、ここにある。


 仕立て台に向かった。今日の仕事が待っている。港町の漁師の妻のための晴れ着。海の色の絹地に、波と花の刺繍。


 針を持つ手は震えていない。


(いい朝ですね)


 隣の椅子に、カイルのマントが掛かっている。明日の朝もここにある。明後日も。その先も。


 海風が、看板の船の絵を揺らした。


 二十年前に私が描いた船。カイルが覚えていてくれた船。


 その船が、今、風を受けている。


 潮の匂いがする。カモメが鳴いている。どこかの家からパンの焼ける匂いがする。


 全部、私の日常だ。自分で選んだ、自分の日常。

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