第19話 選ぶ勇気
エリーゼが三度目に港町に来た時、彼女は泣いていた。
ただし、泣いていたのは仕立て屋に入る前だけだった。扉を開けた時には、もう涙は拭かれていて、代わりに妙に晴れ晴れとした顔をしていた。嵐の後の空みたいだ、と思った。
「ロゼッタさん。お伝えしたいことがあって参りました」
「……入って。お茶を淹れる」
「いえ、長居はしません。これだけ、お伝えしに来たんです」
エリーゼは背筋を伸ばした。いつもの侯爵令嬢の姿勢。でも今日はどこか違う。鎧を着ているのではなく、鎧を脱いだ後の身軽さがあった。
「公爵家を、出ます」
静かな声だった。震えてもいない。泣いてもいない。決めた人の声。
「ヴィクトル殿に、お尋ねしました。『私を必要としているのですか。それとも侯爵家の後ろ盾が必要なのですか』と」
「……何と?」
「黙っていらっしゃいました。十秒、二十秒、三十秒──答えが出ない。出せないのではなく、答えが分かっているのに言えない顔でした」
(ヴィクトル……)
あの男の顔が浮かんだ。精悍だった顔。隈ができて、どこか翳った顔。十年前、私にも同じような顔を見せていたのかもしれない。ただあの頃は、その顔の意味を読み解く余裕がなかった。
「沈黙が答えでした。旦那様は、私を見ていない。ロゼッタさんの時と同じです。違うのは、私はまだ二ヶ月しか経っていないこと」
エリーゼが微笑んだ。悲しい微笑みではなかった。
「沈黙の間、旦那様の目を見ていました。目が泳いでいた。私を見ていなかった。私の向こうにある何かを……侯爵家の紋章か、金庫の鍵か、南方航路の地図か。とにかく、私ではないものを見ていた」
「……」
「それで分かったんです。この方は、ロゼッタさんのことも見ていなかったのだと。十年間、隣にいた人の顔を、一度も見なかった方なのだと」
その通りだった。ヴィクトルは私の顔を見なかった。結い糸の色も見なかった。帳簿の数字だけを見て、署名して、書斎に戻った。
「二ヶ月で気づけた。それはロゼッタさんが教えてくださったからです。あの家から出る方法を。自分の足で立つということを。もし出会っていなければ、私も十年、耐えていたかもしれない」
喉の奥が絞まった。
「エリーゼ……」
「あなたのようになりたかった」
エリーゼの声が、ほんのわずかに揺れた。
「あなたのように、十年耐えて、最後に自分の力で歩き出す強さが、私にもあると思いたかった。でも」
一呼吸。
「あなたの真似では、だめだと分かりました。あなたは十年耐えた。でも私は十年耐えなくていい。あなたが教えてくれたのは、耐え方ではなく、選び方だった」
(……この人は)
私の鏡だった。でも鏡は同じ姿を映すとは限らない。左右が反転するように、エリーゼは私と逆の道を選ぼうとしている。耐えるのではなく、早く去ること。それもまた、勇気だ。
「どこに行くの?」
「王都に部屋を借ります。父には、もう手紙を出しました。『侯爵家の三女として嫁いだのではなく、エリーゼとして嫁いだのだと信じたい。でもそうではなかった。だから、エリーゼとしてやり直します』と」
「お父様は、許してくれそう?」
「激怒するでしょうね」
エリーゼが、初めて声を出して笑った。侯爵令嬢の鎧を完全に脱いだ、素の笑い声だった。
「でも、許す許さないではないのです。私が決めたんです。生まれて初めて、自分の意志で」
ロゼッタの目から涙が溢れた。自分のためではない。この人のための涙だった。二ヶ月前、この仕立て屋の扉を開けた時には「壊れる」と言っていた人が、今、自分の足で立とうとしている。
「エリーゼ。……一つだけ、聞いてもいい?」
「何でも」
「王都で、何をするの?」
エリーゼが一瞬だけ、照れたように目を伏せた。
「……本屋を開きたいの。父の書庫で育った知識を、自分の仕事にしたい。歴史書や紀行文の品揃えで、この国一番のお店に。おかしいかしら、侯爵令嬢が本屋なんて」
「おかしくないよ。全然」
公爵夫人が仕立て屋を開くのと、同じだ。家の名前ではなく、自分の名前で生きること。祖母がそうしたように。私がそうしたように。
「おかしくない。すてきだと思う。きっとエリーゼの目利きなら、他では見つからない本が並ぶ店になる」
エリーゼの目がまた潤んだ。今度は、一粒だけ涙が落ちた。侯爵令嬢は人前で泣かない。そのはずだったのに。この涙は、鎧の内側から溢れたものではない。鎧を脱いだ後の、素の涙だ。
「ありがとう、ロゼッタさん」
エリーゼが手を差し出した。握手ではなく、両手で私の手を包んだ。温かい手。公爵家の冷たい空気の中にいたはずなのに、温かい。
「あなたに出会えて──よかった」
「私もよ」
手を握り返した。強く。
◇
エリーゼが馬車に乗り込む時、仕立て屋の前にカイルがいた。またか。この人は本当に「たまたま」が多い。
エリーゼが窓から顔を出した。
「カイルさん。ロゼッタさんを、よろしくお願いしますね」
「……ああ」
短い。でもカイルが付け加えた。
「あんたは強いな」
エリーゼが笑った。目元がまだ赤い。
「強いのではなく、強い人に出会えただけです」
馬車が走り出した。坂道を下りていく。
カイルが隣に来た。
「あの人、大丈夫だ」
「……うん」
「お前に会いに来た時点で、もう大丈夫だった。自分で動ける人間は、大丈夫だ」
カイルが背を向けて港に歩き出した。
(ヴィクトル)
あの男は、二度目の妻にも去られた。一人目は「取引の品」として十年使い潰した。二人目は「財布」として二ヶ月で見切りをつけられた。どちらも、人を見なかった結果だ。
一度なら「相性が悪かった」で済む。二度起きたら「この人が問題だった」と確定する。社交界もそう判断するだろう。公爵家の信頼は、もう取り返しがつかない。
同情はしない。でも、どこか遠くで小さな痛みがある。あの男が最初から私を人として見てくれていたら、十年は違ったものになっていたかもしれない。「もしも」を数えるのは、もうやめた。
海風が吹いた。エリーゼが去った方角から、馬車の車輪の音がまだかすかに聞こえる。
(あなたは、私にならなかった)
それでいい。それが──いい。
仕立て屋に戻った。祖母の鋏が、夕日を受けて光っていた。あの鋏は、これからも誰かの服を仕立てる。私の手で。




