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十年尽くした妻が消えた朝、公爵家は紅茶の淹れ方すら分からなかった  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第18話 最後の手紙

 ヴィクトルからの手紙は、予想通り来た。


 ランベール公爵家の紋章入りの封蝋。あの金の獅子を見るのは、もう何とも思わない。カイルが焼き菓子を食べながら隣に座っている状況で開封するのだから、感慨もない。


『ロゼッタ。南方航路の仲介権について話がある。あの権利はランベール家の交易に不可欠なものであり、離縁に伴う権利の帰属について協議したい。王都にて、法的な手続きを含めた話し合いの場を設けたいのだが、都合を聞かせてほしい。 ヴィクトル・ランベール』


 読み終えて、テーブルに置いた。


 笑ってしまった。小さく、でもはっきりと。


「……最後まで、帳簿の話か」


 カイルが焼き菓子の手を止めた。


「十年間、一度もなかった。『元気か』も『すまなかった』も。書き置きへの返事すらなかった。半年間、沈黙。なのに航路の話になったら、すぐ手紙を寄越す」


 怒りはなかった。悲しみも、もうない。あるのは、乾いた諦観と、ほんの少しの滑稽さだけ。この人は最後まで変わらなかった。私を人として見ることが、できない人だった。


 手紙をもう一度読んだ。「協議したい」と書いてある。対等な交渉のふりをしているが、要するに「返してくれ」ということだ。十年間「当然」と使い続けた航路の権利が、離縁したら急に惜しくなった。


 紅茶すら淹れられなかった男が、今度は航路を淹れ直そうとしている。


「カイル。燃やす?」


「……お前が決めろ」


「いいえ。返事を書くわ」


 万年筆を取った。公爵家の書斎で何百通と手紙を書いたあの万年筆。最後の書き置きを書いたのもこの万年筆。そして今──最後の返事を書く。


 インクの匂いがする。あの書斎のインクと同じ匂い。でもここは港町の仕立て屋で、窓の外には海がある。同じ道具を使っていても、書く場所が違えば、書く内容も変わる。


『ヴィクトル殿。お手紙拝読しました。南方航路の仲介権は、ハーヴェン家の名義で登録されたものであり、婚姻による使用許諾は離縁の成立をもって失効しております。したがいまして、協議の必要はございません。十年間お世話になりました。お体にお気をつけて。 ロゼッタ・ハーヴェン』


 書き終えて、読み返した。


 最初の書き置きと、最後の一文が同じだった。「お体にお気をつけて」。あの朝も今も、私がこの人に向けられる言葉はこれだけだ。愛の言葉は出てこない。恨みの言葉も出てこない。ただ、社交辞令のような一文。それが十年の結論だった。


(あの人はこの手紙を読んで、何を思うだろう)


 怒るだろうか。焦るだろうか。それとも、何も思わないだろうか。十年間、私の帳簿にも、私の紅茶にも、私の結い糸にも何も思わなかった人が。


「カイル、これ、読む?」


「読まねえ。お前の手紙だ」


「……ありがとう」


 封をした。明日、郵便に出す。これで終わり。ヴィクトル・ランベールとの間に残った最後の糸が切れる。白い結い糸よりもずっと前から褪せていた、利権と義務の糸が。


 ◇


 手紙を出した翌日、エリーゼから急ぎの手紙が届いた。


『ロゼッタさん。旦那様がロゼッタさんに手紙を送ったことを知りました。航路の権利を取り戻すためだそうです。そして、私にも問いかけました。「お前の父上に、航路の権利の買い取りを打診してくれ」と。私は侯爵家の後ろ盾として、ここにいる。それは分かっていました。でも、航路の買い取り資金を侯爵家から引き出すための道具として使われるのは、想定していませんでした。旦那様にとって私は、ロゼッタさんの代わりでも、妻でもなく、侯爵家の財布だった。一つ、お聞きしたいことがあります。あなたが公爵家を去る決断をされた時──何が背中を押しましたか。 エリーゼ』


 手紙を読んで、しばらく動けなかった。


(エリーゼ──)


 あの人は今、私が十年前に立っていた場所にいる。いや──私よりもっと酷い場所かもしれない。私は少なくとも「実務者」として必要とされていた。十年間の帳簿と商人との信頼関係は、確かに私の力で築いたものだった。エリーゼは「財布」として求められている。彼女自身の能力も意志も関係なく、実家の金だけを見られている。


 手紙の最後の一行が、目に焼きついた「あなたが公爵家を去る決断をされた時──何が背中を押しましたか」。


 この問いは、本気だ。エリーゼは去ることを考え始めている。


 返事を書いた。今度は長い手紙だった。丁寧に、一文一文を選びながら。


『エリーゼさん。私の背中を押したのは三つのことです。一つは、手首の結い糸が白く褪せたこと。もう隠しきれなくなったこと。一つは、祖母が遺してくれた仕立ての技術があったこと。あの家の外で生きていける手段が、自分の中にあると気づいたこと。そしてもう一つは、あの家にいる理由が、一つもなくなったこと。役に立っていれば居場所がある、と信じていた。でもそれは居場所ではなく、ただの使役だった。エリーゼさん、あなたは聡明な方です。帳簿も読め、社交術もある。でもそれは「あの家にいる理由」にはなりません。あなたが自分の足で立つ理由は、あなた自身の中にあるはずです。あなたが好きだと言った、本のことを思い出してください。 ロゼッタ』


 ◇


 手紙を封じた後、窓の外を見た。


 夕日が海に沈んでいく。カモメが最後の一声を上げて、塒に帰っていく。


 カイルが仕立て屋の前に立っていた。今日は中に入ってこない。遠くから、私が窓辺にいるのを確認して、小さく手を上げた。


 手を振り返した。


(あの人は、いつもそうだ)


 近くにいる時は無言で薪を割り、窓を直し、布を置いていく。離れている時は、手を上げる。不器用な人の、不器用な「ここにいるよ」。


 ヴィクトルは十年間、一度も「ここにいるよ」と示してくれなかった。同じ屋敷に住んでいたのに。カイルは港の向こうからでも、手を上げてくれる。その差が、全てだ。


 振り返って、仕立て台を見た。祖母の鋏。カイルの布。エリーゼの手紙。メイベルの紅茶。


 十年間、一人だと思っていた。でも、今は、違う。


 ヴィクトルへの返事を郵便に出した。これで、本当に終わる。


 でも、エリーゼの物語は、まだ終わっていない。


 彼女が自分の足で歩き出す日が来る。そう信じている。あの手紙の文面には、折れかけた人の言葉ではなく、立ち上がろうとしている人の言葉があった。

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