地獄の死神ゾーン
『ブラッド・ピット』に、静寂が降り立つ。
つい先ほどまで地下アリーナを激しく揺るがしていた大歓声が、耐えがたいほどの重圧に押し潰されて消えていく。
生き残ったのは、わずか三人。
二人のDランクチャンピオン。
そして、――ヴァン・Xと呼ばれる、一人の仮面の男。
アシュラは乱れた呼吸を整えた。
ひび割れた石の床へと、彼の指先から血が滴り落ちる。全身が無数の痣で覆われ、すべての筋肉が休息を求めて悲鳴を上げていた。だが、彼の精神が降伏を認めることはない。
あと、三日。
ダンテの処刑まで、残された時間はそれだけだ。
ここで敗北することなど、絶対に許されない。
一人目のDランクが、ゆっくりと前へ進み出た。
その身体は無数の傷跡に覆われ、太い鉄さび色をした紅いプラーナが、まるで生き生きとした蛇のように両腕にまとわりついている。
男は不敵に笑った。
「お前が、観客どもの騒いでいる『小さな怪物』か」
アシュラは何も答えなかった。
カーン――。
試合開始の鐘が鳴り響く。
巨漢の身体が、爆発的な速度で前方へと突進した。
その最初の一歩だけで、アリーナの床が激しく粉砕される。
山が崩れ落ちるかのような質量を伴った拳が、アシュラの頭上へと振り下ろされた。
だが、アシュラの姿が一瞬で掻き消える。
ドゴォォォン!!
拳は虚しく地面を叩き、巨大なクレーターを作り出した。飛び散った岩の破片が戦場を乱舞する。
観客席から息を呑む音が漏れた。
アシュラはその真横に立っていた。流禅がその肉体に叩き込んだ、流れるようなリズムのままに。
一撃。
肋骨への掌打。
二撃。
顎への鋭い肘打ち。
三撃。
膝の関節を正確に捉えるローキック。
巨漢の巨体が大きくよろめいた。
しかし、男は倒れるどころか、狂ったように笑声を上げた。
「――素晴らしい!」
男のオーラが爆発した。
深紅の炎が周囲に吹き荒れ、筋肉がさらに異常なほど膨張していく。
その圧倒的な威圧感だけで、客席の前方にいた観客たちが恐怖して後退を始めるほどだった。
アシュラは目を細めた。
こいつは、ただのDランクではない。
チャンピオンが咆哮し、怒涛の連続パンチを繰り出してきた。
一撃一撃が空気を切り裂き、石壁をも容易く破壊する威力を秘めている。
アシュラはその猛攻の隙間を、文字通りダンスを踊るようにすり抜けていった。
押し寄せる激しい波を、流れる水のように受け流す。
脳裏に、流禅の言葉が蘇る。
『強固な大木ほど嵐にへし折られる。だが、水は生き残るのじゃ』
アシュラは深く息を吸い込んだ。
プラーナが全身の経絡を完璧な調和の元で循環していく。
心臓の鼓動が、ゆっくりと静まっていく。
世界の雑音が消え、静寂が訪れた。
そして、動く。
一歩。
二歩。
三歩。
彼の拳はチャンピオンの完璧な防御を貫通し、その胸部の中心へとまっすぐに突き刺さった。
「――鉄脈流――」
アリーナ全体が激しく震動する。
「――共鳴撃。」
地鳴りのような細かな振動が、戦場全体へと木霊した。
巨漢の目が驚愕に見開かれる。
その衝撃は外側へと破裂するのではなく、男の肉体の内部へと直接伝播していった。
内側から骨の砕ける不気味な音が響く。
男の膝が崩れ落ちた。
ドサッ……!
巨漢が床に沈む。
観客は完全に言葉を失った。
その時、倒れたチャンピオンの身体から、淡い青色をしたプラーナの霧が立ち上った。
それはまるで小さな星々のように虚空へと浮かび上がり、アシュラの周囲を旋回し始める。
光の精霊のように輝くエネルギーは、彼の胸へと吸い込まれるように溶けていった。
疲弊しきっていた肉体が、嘘のように軽くなる。
傷口の疼きが消えていく。
心臓が、より力強く脈打ち始めた。
――苦痛から生まれる、新たなる力。
上位の存在が仕掛けた、残酷なゲームはまだ終わらない。
残るは、二人。
アシュラ。
そして、最後のDランク。
最後のファイターが、静かに前方へと歩み寄ってきた。
前の男とは違い、彼のオーラはほとんど外に漏れ出ていない。
その瞳は、あまりにも冷静。
そして、冷徹。
男の手元に、凝縮されたプラーナの槍が物質化していく。
「お前は、武術に頼りすぎているな」
アシュラは静かに拳を構えた。
「お前こそ、その武器に頼りすぎだ」
アリーナが再び爆発した。
放たれた槍は、文字通り雷光を凌ぐ速度で突き出された。
アシュラは紙一重で身体を捻ったが、鋭い刃が彼の肩をかすめ、鮮血が宙を舞う。
激しい痛みが全身を駆け巡った。
だが、今の彼は痛みを恐れはしない。
痛みこそが、彼をここまで導いた教えの師だからだ。
チャンピオンは容赦なく次の突きを放つ。
二度、三度、四度。
槍の軌道は、虚空を切り裂く無数の銀色の閃光と化していく。
アシュラはその圧倒的な連撃の前に、後退を余儀なくされた。
衣服が切り裂かれ、血に染まっていく。
呼吸が次第に荒くなる。
観客たちが口々に囁き始めた。
「終わったな」
「あいつの勝ち目はない」
しかし、ひび割れた仮面の奥で、アシュラは静かに笑っていた。
流禅との地獄のような修行は、まさにこの瞬間のためにあったのだ。
格上の敵を力で圧倒するためではない。
敵の『リズム』を完璧に見切るために。
あらゆる攻撃には、必ず始まりがある。
あらゆる動作には、必ず終わりがある。
そして、いかなる鼓動の合間にも、必ず一瞬の隙が生まれる。
アシュラは待った。
一秒。
二秒。
三秒。
――捉えた。
ほんの僅かな、刹那の躊躇い。
アシュラの身体が爆発的に前方へと突進する。
突き出された槍の懐へと滑り込み、その肩がチャンピオンの胸へと激しく衝突した。
そして、引き絞られた拳が、逆巻く潮流のごとく突き上げられる。
ズガァァァン!!
凄まじい衝撃波がアリーナを席巻した。
プラーナの槍が光の破片となって粉々に砕け散る。
Dランクチャンピオンの身体は遥か後方へと吹き飛び、背後の石壁へと激しく叩きつけられた。壁に巨大な亀裂が走り、轟音と共に崩落する。
立ち込める土煙が、すべてを覆い隠した。
再び、戦場に静寂が戻る。
数秒の後、煙の向こうから、実況アナウンサーの震える声が響き渡った。
「――勝者……」
観客全員が、身を乗り出す。
「――ヴァン・X!!!!」
地下スタジアム全体が、鼓膜を破らんばかりの大歓声で爆発した。
「ヴァン・X!」
「ヴァン・X!」
「ヴァン・X!」
破壊し尽くされたアリーナの中心で、アシュラはただ一人佇んでいた。
仮面は砕け、衣服はボロボロに引き裂かれ、両手は血に染まっている。
だが、その瞳だけはかつてないほどに強く、鋭く燃え上がっていた。
アリーナに転がるすべての敗者たちから、一斉にプラーナの霧が立ち上る。
数十もの輝く光の塊が彼の周囲を猛烈に旋回し、一流の濁流となって彼の肉体へと流れ込んでいく。
> **[システム通知]**
> **【警告:許容量を超える残留プラーナを検知しました】**
> * 全個体のエネルギーを強制同調します。
> * プレイヤーのオーラ特性が『深淵』へと進化を開始します。
>
アリーナ全体が、地鳴りのような轟音を立てて激しく震え始めた。
彼の周囲に、青と紫のプラーナが猛烈な嵐となって吹き荒れる。
その圧倒的なエネルギーの奔流に恐怖し、観客たちは本能的に後退した。
アナウンサーすらも、言葉を失って立ち尽くしている。
アシュラは、地下都市の遥か頭上にある天井を見つめた。
何層もの強固な岩盤の向こう。
暗い夜空の向こう。
天の頂よりも、さらに遥か彼方を。
彼の口から漏れたのは、囁くような、しかし確かな決意を秘めた声だった。
「あと少しだ、ダンテ」
「今、行く」




