ブラッドピット
ダンテの処刑まで、残り三日。
アシュラにとって、時間は最悪の敵となっていた。
朝日が昇るたび、友の首を絞める鎖がまた一節目引き締められるように感じる。無駄に流れる一秒一秒が、確実に処刑の瞬間を引き寄せていた。カザン、そして政府という巨大な権力に立ち向かうには、今の実力では到底足りない。
もっと。
さらなる力が、必要だった。
輝かしい首都の高層ビル群の遥か真下には、当局が「存在しない」ものとして処理している暗黒街があった。
――ヘル・ゾーン(地獄区)。
都市の底に広がる、もう一つの都市。
その錆びついた鉄門に刻まれているのは、ただ一つの警告のみ。
【 ルール無用。慈悲無用。 】
黒いフードを深く被り、ひび割れた銀色の仮面を身につけたアシュラが、鉄の入り口を一歩踏みしめる。地下の長い通路に彼の足音が響く中、壁の向こうからは歓声、悲鳴、そして爆発音が地鳴りのように伝わってきた。
血の臭いが、汗と煙に混ざり合って大気に澱んでいる。
バルコニーからはギャンブラーたちが狂ったように叫び声を上げ、傭兵たちは積み上がった札束を前に下品に笑っていた。
前方では、また一人のファイターが絶叫を上げ、そして永遠に静まり返る。
アシュラは視線を落とした。
流禅の修行を経たとはいえ、まともなDランクのハンターに単身で挑むのは自殺行為に等しい。ダンテを救い出すためには、残されたわずかな時間の中で、文字通り死線をくぐり抜けて急成長するしかなかった。
目の下に深い傷跡のある女が座る、登録デスクへと近づく。
「名前は?」
短い沈黙。
「……ヴァン・X」
女は鼻で笑いながら、その名を書き留めた。
「新しい肉(新兵)ね。観客が退屈する前に死なないことだわ」
アシュラは彼女の横を無言で通り過ぎた。
栄光のためではない。
金のためでもない。
ただ、大切な人が死の淵で自分を待っているからだ。
控室の中では、数十人のファイターたちが身体をほぐし、武器を研ぎ澄まし、肌に刻まれた不気味に光るタトゥーへとプラーナを巡らせていた。
笑う者。
祈る者。
その大半は、二度とこの場所を生きて出ることはない。
重厚なアリーナのゲートが、ゆっくりと開放される。
地下スタジアム全体を揺るがすような、鼓膜を破る大歓声が爆発した。
「――『ブラッド・ピット』に30人のファイターが進入した!!」
「――生き残れるのは、ただ一人!!」
アリーナの石床が怪しく脈打ち、古代の魔法陣が深紅の光を放って起動する。
戦いの火蓋が切って落とされた。
刹那、戦場は混沌の渦へと叩き落とされる。
プラーナの爆発が四方を揺らし、鋼と鋼が激しく火花を散らした。
アシュラは流れる水のように動いた。
虚空を切り裂く剣の軌道を紙一重で滑り込むようにかわし、相手の体勢を崩した瞬間、その肋骨へと鋭い肘打ちを叩き込む。
バキッ。
骨の砕ける音が響き、ファイターが崩れ落ちた。
無駄な動きは一切ない。
消費するエネルギーも最小限。
ただ、正確なリズム。
ただ、流れるようなフロー。
脳裏に、流禅の教えが木霊する。
『流れに抗うな。お前自身が流れになるのじゃ』
二人のEランクハンターが同時に襲いかかってきた。
アシュラは極限まで体勢を低くし、鋭く旋回する。
その蹴りは二人の身体を同時に捉え、石の床を滑らせるように遥か後方へと吹き飛ばした。
観客席からどよめきが沸き起こる。
「あの仮面の奴は一体何者だ!?」
アシュラは雑音を無視した。
三人撃破。
残り、二十七人。
炎のプラーナを全身に纏った男が突進してくる。
アシュラは半歩サイドステップでかわすと、男の腕を掴み、その凄まじい突進の勢いをそのまま前方へと受け流した。
ドォォォン!!
衝撃でアリーナの床が大きく陥没する。
男は二度と立ち上がることはなかった。
アシュラの肉体は、流禅によって刻み込まれた無数の痣を完全に記憶していた。
あらゆる打撃。
あらゆる失敗。
いくつかの痛みを伴うすべての教訓を。
さらに三人が彼を取り囲む。
アシュラは一瞬だけ目を閉じた。
(リズムと同調しろ)
敵が動くよりも早く、彼の身体が起動する。
防御。
掌打。
そして、回し蹴り。
一瞬にして三つの肉体が地面に叩きつけられた。
観客たちが言葉を失い、静まり返る。
その時、異変が起きた。
> **[システム通知]**
> **【特殊効果:残留プラーナ同調が発動しました】**
> * 敗北した対象から抽出されたエネルギーを検知。
> * プレイヤーの肉体へと永久吸収を開始します。
>
倒れたハンターたちの身体から、淡い青色をしたプラーナの霧が、まるで彷徨える魂のように揺らめき立った。
その輝くエネルギーはアシュラの周囲を螺旋を描いて旋回し、吸い込まれるように彼の肉体へと溶けていく。
ドクン、と心臓の鼓動が跳ね上がった。
熱い炎のような力が、血管を通じて全身へと急速に拡散していく。
痛み。
記憶。
そして、戦闘経験。
倒れ伏した敵の断片が、アシュラの糧となっていく。
この弱肉強食の世界において、敗者の苦痛は決して消え去りはしない。
それはただ、強者の力へと変換されるだけだ。
数分が経過した。
アリーナの床は、砕け散った石片と無数の肉体が転がる墓場と化していた。
立ち込める煙の向こう側、生き残っているのはわずか十五人。
その時、大気のプレッシャーが急激に跳ね上がった。
巨漢の男が、一歩前へ進み出た。
傷だらけの皮膚の下で筋肉が異常なほどに膨張し、その周囲には禍々しい深紅のプラーナが燃え盛っている。
観客たちが息を呑んだ。
――Dランクファイター。
「いい度胸じゃねえか、ルーキー」
巨漢は不敵に笑った。
「だが、お前の快進撃もここまでだ。ここで死ね」
アシュラは静かに頭を上げた。
「なら、その死すらも力でねじ伏せて突き進むまでだ」
巨漢が先制の一撃を放つ。
その拳は、まるで巨大な質量を持った落石のように振り下ろされた。
アシュラはその直下を滑り込むようにかわし、巨漢の無防備な懐へと強烈なアッパーカットを突き上げた。
ズガァァァン!!
スタジアム全体に衝撃波が吹き荒れる。
二人の足元の床がクモの巣状に激しくひび割れた。
巨漢の巨体が大きくよろめく。
アシュラは容赦なく追撃を叩き込んだ。顎への肘打ち、そして容赦のない腹部への膝蹴り。
ドサッ……!
巨漢の身体が崩れ落ち、意識を失った。
アリーナ全体が、完全な驚愕と信じられないという絶叫に包まれる。
「――Dランクを……一撃で仕留めただと!?」
アシュラは荒い息を吐き出した。
その拳が小刻みに震えている。
恐怖からではない。
極限の疲労によるものだ。
(流禅の言葉は正しかった……)
本物の強さとは、単なる圧倒的な暴力ではない。
それは、自らの力を極限まで制御し切る「コントロール」の精度だ。
しかし、一息つく間もなく、もう一人のDランクハンターがアリーナへと進入してきた。
その身体には青い稲妻が激しくバチバチと奔り、全身のタトゥーが起動した回路のように輝いている。
「お前の幸運も、ここまでだ」
アシュラは口元の血を乱暴に拭った。
「他人がそれを『運』と呼ぶのはな……その裏にある傷跡を見ていないからだ」
両者が正面から激突した。
拳と拳の衝突が石の床を爆砕し、衝撃波が幾重にも広がっていく。
強烈なストレートがアシュラの脇腹を捉え、鈍い音が響いた。肋骨が軋み、口から鮮血が飛び散る。
だが、彼は絶対に倒れなかった。
それどころか、流禅が彼の魂に力ずくで刻み込んだすべての教訓を、今この瞬間に一つへと収束させる。
「――鉄脈流――」
全身の経絡と同調し、プラーナが爆発的な密度へと圧縮される。
「――共鳴撃!!」
魂を込めた拳が、敵の胸部へと炸裂した。
ドオォォォン!!
衝撃波が男の身体を完全に突き抜け、背後の大気をも震わせる。稲妻を纏ったハンターは、そのまま糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
再び、倒れた肉体から淡いプラーナの光が立ち上る。
それはアシュラの周囲を優しく包み込むように旋回し、彼の体内へと完全に融合していった。
彼のオーラは、先ほどよりも遥かに重く。
遥かに強く。
自由自在に、研ぎ澄まされていく。
生き残ったファイターは、わずか三人。
二人のDランク。
そして、――ヴァン・X。
アシュラはひび割れた仮面の奥から、前方の暗闇を見据えた。
「ここを生き延びたら……」
彼は両の拳を、かつてないほど強く握りしめた。
「……待っていろ、ダンテ。必ず救い出す」
最終決戦の鐘が、鳴り響いた。




