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痛みなし   作者: EXTRO
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5/15

痛みから彫り出された

第十区の上空は、鈍色の雲に覆われていた。

山中の狭い道には霧が立ち込め、そびえ立つ松の木々を飲み込んでいく。はるか遠方で雷鳴が轟き、驚いた鳥の群れが一斉に飛び立った。

アシュラは一人、歩いていた。

湿った地面を踏みしめるたび、静かな足音が響く。

その拳には真新しい包帯が巻かれていたが、乾いた血がすでに布の隙間から滲み出ていた。

頭の中にあるのは、ただ一つの思考だけ。

あと七日。

ダンテの処刑まで、残された時間はそれだけだった。

彼は視線を落とした。

(今、カザンに挑めば……)

(奴の前に辿り着くことすらできずに死ぬ)

それは恐怖から生じた考えではなかった。

単なる事実だ。

やがて、目の前の視界が開けた。

絡み合う蔦の向こうに、幾星霜もの季節を経て風化した木製の門が佇んでいた。看板に刻まれた文字は、時の流れによって消えかけている。

――流禅道場リュウゼンドウジョウ――

――門前払い――

アシュラは足を止めた。

「……流禅……」

その名が、古い記憶を呼び覚ます。

聞き覚えのある笑い声が、脳裏に響いた。

流禅リュウゼンって聞いたことあるか?』

ダンテは屋上の手すりの上でバランスを取りながら、ニカッと笑った。

『あのジジイはイカれてる。世界格闘技チャンピオンをぶちのめした後に、煙のように消えちまったんだ』

『ジジイはいつも言ってたよ……「魂のない力は、ただの暴力だ」ってな』

ダンテは笑った。

『俺の技のほとんどは、あの人から教わったもんだ。もしお前が、どうしても行き詰まったら……奥多摩の森へ行ってみろ。あの頑固な生きた化石のことだ、多分まだ生きてるだろ』

アシュラは門を押し開けた。

軋んだ高い音が、静寂に包まれた谷間に響き渡る。

敷地内には、古びた道場がぽつんと佇んでいた。

中庭には壊れた木人が散乱し、床は埃にまみれ、屋根は老朽化で傾いている。

しかし、その decay(朽ち果てた姿)にもかかわらず……

この場所は「生きて」いた。

大気の中に、目に見えないプレッシャーが澱んでいる。

まるで、幾千もの戦いの傷跡が、そのままこの空間に刻み込まれているかのように。

アシュラは一歩、足を踏み入れた。

そして、歩みを止めた。

先客がいた。

道場の中央に、一人の老人が静かに座っている。

銀色の髪。

傷だら傷の顔。

素朴な衣服。

その目は閉じられたままだ。

微動だにせず……老人は口を開いた。

「……ようやく来たか」

アシュラは瞬きをした。

「……俺が来るのを、知っていたのか?」

老人はかすかに微笑んだ。

「一時間前から、お前の足音が聞こえておったわ」

ゆっくりと、その目が開かれる。

金色。

鋭く。

そして、悠久の時間を経た目。

それはアシュラに、決して刃こぼれすることのない至高のブレードを連想させた。

アシュラは深く頭を下げた。

「俺の名はアシュラ。強くなるために来ました」

老人はアシュラを観察した。

それから、視線を彼の包帯が巻かれた拳へと移す。

「……強さ、か」

老人は低く笑った。

「この門をくぐる者は、誰も彼もが同じことを言う」

彼はゆっくりと立ち上がった。

全身の関節がパキパキと音を立てる。

「違いがあるとするならば……」

「……己がどれほどのものを失う覚悟があるか、という点だけじゃ」

アシュラは拳を握りしめた。

「友人が捕らえられました。俺には七日しかありません」

静寂。

老人の表情が変わった。

「……名は?」

「ダンテです」

流禅の顔から笑みが消えた。

「……あの馬鹿者が」

その声には、呆れと……同時に深い愛着が籠もっていた。

「相変わらず、静かに死ぬこともできん奴め」

アシュラは見上げた。

「あんたが教えたんだろ?」

流禅は頷いた。

「奴はワシの弟子の一人じゃ。修行を最後まで終えずに飛び出していったがな」

アシュラはため息をついた。

「あいつらしいな」

老マスターの口から、微かな笑いが漏れた。

「いかにも、あ奴らしい」

彼は一歩、前へ踏み出した。

木製の床が、その足元でミシミシと悲鳴を上げる。

「それで……」

「お前は奴を救いたいわけじゃな」

アシュラは頷いた。

「そうです。たとえ、この命を引き換えにしても」

流禅はアシュラの目をまっすぐに見据えた。

「復讐か?」

アシュラは首を振った。

「違う。俺があいつを連れて帰るのを、待っている大切な人がいるんだ」

数秒の間……老人は何も言わなかった。

そして……

彼は微笑んだ。

「上出来じゃ」

次の瞬間――

老人の姿がかき消えた。

アシュラの瞳孔が収縮する。

(どこへ――)

掌が彼の胸を捉えた。

ドォォォォン!!

道場に凄まじい衝撃音が爆発した。

アシュラの身体は後方へと吹き飛び、三本の木柱をへし折りながら、奥の壁に激しく叩きつけられた。

部屋中に埃が舞い上がる。

彼は激しく咳き込んだ。

「何が……」

「……今のは、何だ?」

流禅は動いていなかった。

すでに、最初からそこにいたかのように佇んでいる。

「殺気もなければ、技術もない。借り物の力( borrowed power)など、何一つ使っておらん」

アシュラは無理やり身体を起こした。

「……あり得ない」

「動きが、全く見えなかった」

流禅は手を後ろで組んだ。

「お前は見ようとしていた。だが、捉えてはいなかったのじゃ」

彼はゆっくりと片腕を上げた。

アシュラは直感的にプラーナを感知した。

しかし……

それは瞬時に消え去った。

彼の目が驚愕に見開かれる。

「……どこへ消した?」

「最初から消えてなどおらん」

流禅は微笑んだ。

「プラーナとは、外へ放出するためのものではない」

彼は自身の胸を叩いた。

「まずは、ここに留めるものじゃ」

アシュラは言葉を失い、見つめるしかなかった。

「身体が第一の武器。魂が第二の武器。技術など……最後についてくるオマケに過ぎん」

老人は腕を下ろした。

「この流派の名は……」

――身体共鳴しんたいきょうめい――

「肉体を鋼に変え、呼吸を力に変え、動きを『必然』へと変える」

アシュラは唾を飲み込んだ。

ビームもなければ、大爆発もない。

圧倒的なオーラすら発していない。

にもかかわらず……

先ほどの一撃は、彼の心臓を危うく停止させかけるほどのものだった。

流禅はアシュラを指差した。

「ワシにクリーンヒットを一つでも入れてみよ。そうすれば教えてやる」

アシュラは即座に腰を落とし、構えを取った。

「……なら、手加減はしない」

老人は笑った。

「そうでなくては、退屈じゃからのう」

森が震えた。

修行が、始まった。

最初の一日……

アシュラは一度として一撃を掠らせることすらできなかった。

ただの一度も、だ。

全ての攻撃が、指一本分の差でかわされる。

全てのパンチが虚空を切り、全てのキックが何もない空間を叩いた。

流禅は、まるでアシュラ自身が攻撃を意図するよりも前に、その軌道を知っているかのように動いた。

何度も。

何度も。

何度も。

アシュラは床が砕け散るまで叩きつけられ続けた。

呼吸は荒くなり、汗が衣服をぐっしょりと濡らす。

しかし、老人は一度として本気の打撃を繰り出していない。

ただ、静かに一歩横へ避けるだけだ。

「……遅い」

アシュラは再び飛びかかった。

流禅は首を傾ける。

パンチが彼の頬をかすめた。

その瞬間、指先がアシュラの肩を軽く叩いた。

ドッ!!

その衝撃で、彼は別の木柱を突き破って吹き飛んだ。

アシュラは激しく血を吐いた。

「……どうやって……」

「……指一本で、こんな……」

流禅は静かに手を後ろで組んだ。

「お前はワシの身体ばかりを見ている。見るべきは、呼吸じゃ」

アシュラは眉をひそめた。

「呼吸……?」

「身体は嘘をつくが、呼吸は嘘をつけん」

老マスターの静かな声が道場に響く。

「呼吸が変われば……『意図』が変わる」

「意図が変われば……自ずと『身体』が動く」

アシュラはゆっくりと再び立ち上がった。

そして、突っ込んだ。

何度も。

何度も。

何度も。

日没を迎える頃には……

彼の身体は、指一本動かすことすらままならなくなっていた。

二日目は、さらに過酷だった。

流禅はアシュラの目に目隠しを施した。

「お前は目に頼りすぎておる」

アシュラは布に手を伸ばした。

「こんな状態じゃ戦えない!」

「これなしでは、お前は生き残れん」

目隠しは外されなかった。

最初の一撃は、死角から放たれた。

バキッ!!

背中に激痛が走る。

さらに一撃。

肋骨。

もう一撃。

肩。

次。

後頭部。

アシュラは我武者羅に腕を振るったが、手応えは皆無。

ただ虚空を掴むだけだ。

老人の声が、周囲から響いてくる。

「聴くのじゃ」

アシュラは歯を食いしばった。

さらなる打撃が放たれ、膝の力が抜けて倒れ込む。

何度も。

何度も。

何度も。

何時間が経過しただろうか。

そして、ついに……

彼はそれを捉えた。

足音ではない。

呼吸の音でもない。

布。

かすかな、衣擦れの音。

アシュラは本能的に身体を横に傾けた。

掌が、顔の数センチ横を通り過ぎていく。

流禅は微笑んだ。

「……良くなった」

数日の中で初めて……

アシュラは打撃を回避した。

三日目……

山そのものが、彼の対戦相手となった。

流禅は彼を、轟音を立てて流れ落ちる滝へと連れて行った。

その近くには、巨大な岩が鎮座している。

「それを運べ」

アシュラは呆然と見つめた。

「……冗談だろ」

「いいや」

老人は歩き去ろうとした。

「ダンテがここにいた頃は……今頃もう中腹まで登っておったぞ」

アシュラはため息をついた。

「……本当に、あいつのことは大嫌いだ」

彼は腰を落とし、岩を持ち上げようとした。

動かない。

岩は微動だにしない。

腕の血管が浮き出、筋肉が悲鳴を上げる。

ゆっくりと……

岩が持ち上がった。

一歩。

さらにもう一歩。

滝の轟音が一段と激しくなる。

半分ほど登ったところで……彼の膝が限界を迎えた。

巨岩に押し潰され、泥の中に叩きつけられる。

「……もう一度だ」

アシュラは見上げた。

流禅は振り返りもしない。

「……あんた、本当に容赦ないな」

「違う」

「ワシは誠実なだけじゃ」

登山は続いた。

何度も。

何度も。

何度も。

日没を迎える頃……

アシュラはついに頂上へ到達した。

岩が彼の肩から滑り落ちる。

ズズゥゥゥン!!

岩は山肌を転がり落ちていった。

アシュラはその場に倒れ込み、動くこともできなかった。

数日ぶりに、流禅が深く頷いた。

「……よし」

四日目……

アシュラは拳を叩き込んでいた。

人間ではない。

木でもない。

はがねだ。

道場の天井から、砕いた鉄屑が詰まった重いサンドバッグが吊り下げられていた。

流禅はそれを指差した。

「一万回じゃ」

アシュラは瞬きをした。

「……今、なんて?」

「突き(パンチ)を、じゃ」

静寂。

「……あんた、イカれてるよ」

「もっと酷いことも言われてきたわい」

アシュラは息を吐いた。

そして、殴り始めた。

一回。

二回。

何度も。

何度も。

何度も。

最初の一千回を迎える頃には、彼の拳の皮が破れ、血が包帯を赤く染めた。

三千回を迎える頃には、指の感覚が完全に消失した。

六千回を超える頃には、もはや痛みすら感じなくなっていた。

あるのは、衝撃だけ。

リズムだけ。

呼吸だけ。

一撃、また一撃。

鉄のサンドバッグが、徐々に大きな弧を描いて揺れ始める。

そして――

バキィィィン!!

バッグを吊るしていた鎖が弾け飛んだ。

巨大な塊が、道場の壁を突き破って外へと吹き飛ぶ。

アシュラは呆然と立ち尽くした。

「……あ……」

流禅は壊れた壁に目をやった。

「……ようやく、拳だけで殴るのをやめたな」

アシュラは眉をひそめた。

「……え?」

「全身で突く感覚を、ようやく掴んだようじゃ」

その夜……

二人は道場の外で、満天の星空の下、焚き火を囲んで座っていた。

しばらくの間、誰も口を開かなかった。

やがて……アシュラが静寂を破った。

「……師匠」

「なぜ、戦うのをやめたんだ?」

老人は静かに、揺らめく炎を見つめていた。

「やめてなどおらん」

アシュラは怪訝な表情を浮かべた。

流禅はかすかに微笑んだ。

「ワシはただ、人間と戦うのをやめただけじゃ」

沈黙が流れる。

「かつて、一人の弟子がおった。そ奴は、力さえあれば誰もが救える、と信じておった」

パチパチと、火の粉が静かに爆ぜる。

「……そ奴は死んだ」

アシュラは視線を落とした。

「……すまない」

流禅はゆっくりと首を振った。

「いや……ワシの後悔は、奴に『知恵』を授ける前に『力』を教えてしまったことじゃ」

老マスターは、まっすぐにアシュラを見つめた。

「だから答えよ。もしダンテを救うことが……お前自身が『化け物』になることを意味するとしても……お前はそれでもやるか?」

アシュラは沈黙した。

その問いが、二人の間に重く漂う。

そして……彼は答えた。

「……いや」

「俺は、自分を見失わずにあいつを救い出せるほど、強くなる」

その瞬間、流禅は初めて笑った。

低く……

腹の底からの、心からの笑いだ。

「……見事じゃ」

彼はゆっくりと立ち上がった。

金色のプラーナが、その身体の周囲でかすかに揺らめく。

周囲の空気が一変した。

森の木々すらも、静寂にひれ伏す。

「これより……最後のレッスンじゃ」

――天脈てんみゃく――

――凡境の極み(ぼんきょうのきわみ)――

そのプレッシャーだけで、アシュラは本能的に姿勢を極限まで低くした。

流禅は片手を上げた。

「技術などない。借り物の能力もない。奇跡も起きん」

「あるのは……」

「……お前自身だけじゃ」

アシュラは深く息を吸い込んだ。

そして……この場所に辿り着いてから、初めて――

彼は動いた。

怒りではない。

悲壮な決意でもない。

ただ、『リズム』と共に。

彼は一歩、前へ踏み出した。

それは、流禅がかつて見せたものと全く同じ足取りだった。

呼吸。

動作。

そして、一撃。

二人の掌が正面から衝突した。

ドォォォォォォン!!

凄まじい衝撃波が山全体を駆け抜けた。

樹木が大きくしなり、鳥たちが空へと一斉に飛び立つ。

アシュラの身体の周囲を青と紫のプラーナが螺旋を描いて渦巻き、やがて完璧な調和ハーモニーを保ちながら、その身へと収束していった。

老マスターは微笑んだ。

「……それじゃ。ついに己のリズムを見つけたな」

朝の光が、木々の隙間から差し込んできた。

修行は、終わった。

アシュラは敬意を込めて膝をついた。

「……ありがとうございました、師匠」

流禅は首を振った。

「ワシに感謝するな。それを使え。そして……自分自身に感謝できるまで、生き延びよ」

アシュラは立ち上がった。

森へと続く道に背を向け、そして、一度だけ足を止めた。

背後から、流禅が最後の言葉を掛けた。

「これだけは忘れるな。世の者は、強さとは勝利から生まれるものだと勘違いしておる。だが、それは間違いじゃ」

彼は微笑んだ。

「強さとは、苦痛によって刻まれるもの。我らの身体にある傷跡は……我らが再び立ち上がったことの証明以外の何物でもない」

アシュラは目を閉じた。

そして、深く頷いた。

再び目を開けた時……

そこにはもう、一切の迷いはなかった。

彼のプラーナは乱れることなく流れ、呼吸は一定に保たれている。

その心臓は……極めて、穏やかだった。

七日前……

彼はただ、圧倒的な力を求めてこの森へやってきた。

だが、今……

彼はそれよりも遥かに危険なものを携えて、ここを去ろうとしている。

――『覚悟』という名の力を。

山の向こうで。

森の向こうで。

昇りゆく太陽の向こうで。

カザンが待っている。

そして今回……

アシュラは、あの森の門をくぐった時と同じ男としてそこへ向かうわけではなかった。



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