水しぶきの前に
凍てつく風が彼らを薙ぎ払うように吹き荒れた。
アシュラは暗闇の中で猛烈に回転しながら、肩をかすめて叫び声を上げる炎上した機体の破片を、間一髪で身を捻って回避した。
ゴォォォォッ!!
熱気が顔を焼き払う。
上空のどこかで、また別のエンジンが爆破散華した。
空は今や、鋼鉄の墓場と化していた。
遥か前方――
『男』は何の苦もなく、燃え盛る主翼の上に立ち尽くしていた。
その巨大な刃を、片肩に預けたまま。
男は静かに彼らを見つめていた。
待っているのだ。
若いパイロットは、血を流す腕を必死に押さえた。
吹き荒れる風の中へ撒き散らされた血は、一瞬で消え去っていく。
彼の息が乱れた。
「……隊長!」
燃え盛るタービンが、再び彼を掠める。
彼は横へと転がった。
「俺たち、死にますよ!」
年配のパイロットは無言のままだった。
その視線は、決して男から逸らされない。
男は落ちていなかった。
男は……
動いている。
跳ぶ。
着地する。
再び跳ぶ。
その一歩一歩が、何の力みもなく見えた。
隊長は目を細めた。
「……違う……」
さらなる跳躍。
今度こそ……
彼はそれを見逃さなかった。
男のブーツの真下――
シュッ!
ごくごく微小な破裂。
目視すら困難なほどの変化。
炎ではない。
爆発でもない。
圧縮された、空気。
彼の目が大きく開かれた。
「……そうか」
若いパイロットが叫ぶ。
「何がですか!?」
隊長は彼を無視した。
その視線が下方へと向けられる。
信じがたい力で、周囲の空気が上空へと向かって悲鳴を上げながら吹き抜けていた。
三万フィートの吹き荒れる風。
金属すら引き千切るほどの圧倒的な風圧。
「……俺たちは間抜けだった」
アシュラが彼の方を見た。
「何の話だ?」
隊長の息が荒くなる。
「空気だ!」
「俺たちは見方を誤っていたんだ!」
彼は吹き荒れる風の中へ、片手を広げた。
「俺たちは虚空を落下していると思い込んでいた……」
「……だが、違う!」
「空気は動いているんだ!」
「抵抗がある!」
「圧力がある!」
またひとつ、燃え盛る瓦礫が彼らに向かって回転しながら迫ってきた。
隊長はその瓦礫を蹴り飛ばした。
死を間一髪で回避する。
そして……
片方のブーツの底に、プラーナを集中させた。
青い光が集う。
彼は真下に向かって踏み降ろした。
何も起きない。
彼の足は、空しい空気をただ通り抜けた。
そのまま落下し続ける。
「……くそッ」
彼は再試行した。
さらに強いプラーナ。
より精密な制御。
再び――
何も起きない。
若いパイロットが凝視する。
「駄目じゃないですか!」
隊長は奥歯を噛み締めた。
「いいや……」
「今のは惜しかった」
感じたのだ。
心臓の一拍よりも短い、ほんの僅かな時間。
手応えを。
さらなる試み。
今度こそ――
シュッ!!
彼の身体が、突如として上方へ跳ね上がった。
ほんの一瞬だけ。
そして――
バキッ!!
圧縮された空気が砕け散った。
彼は再び落下する。
その目が歓喜に見開かれた。
「成功だ!」
アシュラが呆然とした表情を浮かべた。
「……立ったな」
「一瞬の、ほんの僅かな間だが」
隊長は笑った。
この期に及んで、笑ったのだ。
「これは飛行じゃない!」
「グリップ(足場)だ!」
「足元の吹き荒れる空気を圧縮しているんだ!」
「長持ちはしない! 一瞬だけだ!」
「だが、それが崩れ去る前に跳べば……」
「……次の足場を作り出せる!」
彼の声が嵐を突き破って響き渡った。
「聞け!」
「完璧なタイミング!」
「完璧な制御!」
「力任せにするな!」
「まず風を感じろ!」
「それから圧縮するんだ!」
若いパイロットが即座に頷いた。
ブーツの底に青いプラーナが集う。
彼は踏み降ろした。
何も起きない。
落ち続ける。
もう一度。
何も起きない。
もう一度。
シュッ!
彼の身体が上方へ跳ね返った。
目が大きく開く。
「踏めた!」
直後――
バキッ!!
足場が消滅した。
彼は空中でもみくちゃになりながら転がった。
アシュラはゆっくりと息を吸い込んだ。
顔を激しく叩きつける猛烈な風。
彼は目を閉じた。
雑音が消え去る。
ただ一瞬だけ……
足元を流れる『流束』だけを感じ取った。
風はランダムではない。
流れている。
川のように。
彼は片足の底にプラーナを集めた。
圧縮。
踏み出す――
何も起きない。
落ち続ける。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
失敗を重ねるごとに、海面が接近してくる。
上空では……
『男』が微笑んでいた。
「何をやっているのやら」
アシュラは男を無視した。
もう一回。
今度こそ……
考えるのをやめた。
ただ、感じた。
流れを。
抵抗を。
その完璧な瞬間を。
足が降り立つ。
シュッ!!
空気が硬化した。
不可視の。
確かな、固形。
彼の身体が静止した。
わずか一拍。
アシュラの目が大きく見開かれる。
「……」
そして、彼は跳んだ。
バキッ!!
不可視の足場が、背後で爆発するように粉々に砕けた。
アシュラは斜め上方へと疾走した。
もう一歩。
シュッ!!
跳躍。
さらにもう一歩。
シュッ!!
跳躍。
まるで夜空に浮遊する不可視のガラスの破片の上を駆けているかのようだった。
隊長が笑った。
「掴み取ったか!」
若いパイロットもついに成功させた。
踏み出す。
跳ぶ。
踏み出す。
跳ぶ。
まだぎこちないとはいえ……
彼らはもはや無力な存在ではなかった。
だが、一人だけ足りない者がいた。
遥か下方。
ダンテ。
漆黒の深淵のごとき海が、彼に向かって急速に迫っていた。
身体が制御不能のまま回転する。
呼吸が遅くなっていく。
「……そうか……」
「……ここで終わりか」
彼は目を閉じた。
日本を発ってから初めて……
すべてが静まり返った。
彼は手を伸ばした。
空気そのものを掴み取ろうとするかのように。
指先は何も掴めず空を切る。
「……馬鹿だな」
自分自身を嘲笑した。
「空気が掴めるわけねえだろ」
その時――
内なる声が響いた。
『圧縮しろ』
『一瞬しか持たない』
彼の目がカッと見開かれた。
「……掴むんじゃない」
「……固めるんだ」
青いプラーナが掌の周りに集束した。
彼はそれを真下に向かって叩きつけた。
シュッ!!
手が何かに衝突した。
不可視の。
確かな、固形。
ほんの僅かな間……
彼は空中に留まった。
そして――
バキッ!!
圧縮された空気が砕け散る。
彼は再び落下した。
「……できた」
彼の顔に、じわじわと笑みが広がっていった。
「そうか、そういうカラクリかよ」
今度は……
手を使うのをやめた。
彼には、より強靭な脚がある。
移動のために鍛え上げられた脚が。
両方のブーツにプラーナが爆発的に流れ込む。
吹き荒れる風のタイミングを計る。
一歩。
何も起きない。
もう一歩。
何も起きない。
三歩目。
シュッ!!
足が止まった。
身体が跳ね上がる。
不可視の足場が粉砕された。
彼はさらに踏み出す。
シュッ!!
もう一度。
シュッ!!
さらにもう一度。
シュッ!!
その動作が、次第に滑らかに。
より速く。
より自然に変化していく。
そして――
彼は笑った。
大声で。
「最高じゃねえか、これ!!」
踏み出すたびに、足元で爆発が起きる。
不可視の足場が次々と砕け散っていく。
下層から……
ダンテは空無の空を駆け上がってきた。
アシュラに向かって。
パイロットたちに向かって。
そして、そのすべてを興奮の色を強めながら見つめている『男』に向かって……
男の笑みが深まった。
「……見事だ」
「これで……」
「ようやく始められる」
海面が勢いよく迫ってくる。
あるいは……
思考のスピードすら置き去りにするほどの速度で、彼らが落下しているのか。
跳躍のたびに、不可視の足場が砕け散る。
シュッ!
バキッ!
シュッ!
アシュラが虚空を駆け抜けた。
一歩一歩の足場は、圧縮された空気が崩壊するまでのほんの一瞬しか持たない。
背後で、ダンテが狂気的な笑みを浮かべた。
「楽しくなってきたぜ!!」
彼はまたひとつ、不可視の足場を蹴り飛ばした。
二人のパイロットがすぐ後ろに続く。動きはまだ荒削りだが、跳躍を重ねるごとに精度が増していた。
前方……
『男』が待っていた。
燃え盛る機体の胴体部分の破片の上に立ち。
巨大な刃を肩に担ぎ直す。
月光が、今なお刃先から滴り落ちる血を照らし出していた。
男は微笑んだ。
「良いぞ」
「さあ……」
「……来い」
アシュラが消えた。
ドォン!
足元の不可視の空気が爆発する。
一瞬で距離を詰めた。
彼の拳が、男の顎を目がけて突き出される。
男は横に身をかわした。
アシュラの拳が男の頬をかすめる。
それと全く同刻――
ダンテが男の頭上に姿を現した。
燃え盛る巨大な瓦礫に両手を巻きつけている。
「受け取れ!」
彼はそれを下方に投げつけた。
エンジンが悲鳴を上げながら空を薙ぎ払う。
男は片手を掲げた。
そのエンジンを、拳で真っ直ぐに突き穿った。
ドゴォォォン!!
炎が爆発した。
金属の破片が流星のように散らばる。
炎を突き破り、アシュラが現れた。
旋回する肘打ち。
男はガードした。
間髪入れずに膝蹴り。
さらにもう一撃。
そして肩での体当たり。
アシュラは中断することなく、ある動作から次の動作へと滑らかに移行していった。
男の笑みがさらに広がる。
「素晴らしい」
彼らの背後で――
若いパイロットが両掌を前方に突き出した。
手首の下に青い魔法陣が描かれる。
「プラーナ・キャノン!」
凝縮された三本の光線が同時に放たれた。
『男』が消えた。
光線は男を貫く代わりに、爆発する瓦礫を撃ち抜いた。
アシュラの本能が悲鳴を上げる。
上だ。
見上げた。
遅すぎた。
巨大な刃が振り下ろされる。
アシュラは両腕を交差させた。
ガキィィィン!!
衝撃により、彼は下方へと叩き落とされた。
男が追撃に移る前に――
隊長が到達した。
彼の蹴りが男の肋骨に叩きつけられる。
ズドォォン!!
男は空中を横滑りしていった。
それでもなお不可視の足場に立ち、
なおも微笑みを絶やさずに。
隊長が叫んだ。
「今だ!」
アシュラは即座に理解した。
彼は再び攻撃に転じた。
左。
右。
肘。
掌打。
その一撃一撃が、男の後退を余儀なくさせる。
ダンテは足を止めなかった。
漂う瓦礫の間を、野獣のように跳び回る。
跳躍のたびに、新たな武器を携えて。
燃え盛る瓦礫。
コンテナ。
砕けたタービン。
すべてのものが弾薬と化していた。
「上だ!」
またひとつ、エンジンが猛スピードで投げ落とされた。
男が屈む。
アシュラの拳が同時に到達した。
ドォン!
男はついに数メートル後方へと滑っていった。
若いパイロットが微笑む。
「捕まえたぞ!」
隊長が怒鳴りつけた。
「気を緩めるな!」
男の目が動いた。
ほんの少しだけ。
そして――
男が消えた。
アシュラの拳が空を切る。
ダンテが凍りついた。
「どこに――」
刃が閃いた。
シュリリッ!
燃える瓦礫が綺麗に真っ二つに裂けた。
ダンテは間一髪で身を捻った。
刃が彼の顔面を数センチの差でかすめていく。
男の追撃の蹴りが、ダンテの肋骨に叩きつけられた。
メキッ!
ダンテは浮遊する三つの機体破片を突き破って吹き飛んだ。
隊長が即座に襲いかかる。
回し蹴り。
男はそれを捕まえた。
捻る。
隊長が揉みくちゃになって回転した。
若いパイロットが再び放つ。
青いプラーナの光線が、あらゆる方向から男を包囲した。
男は一度だけ刃を振るった。
一閃。
すべての光線が両断された。
アシュラが男の背後に現れた。
流歩。
鉄脈脈動。
苛烈な連続叩き込みが、男の背中で爆発した。
拳。
肘。
膝。
すべての打撃が完璧に命中する。
男が、実際に動いた。
一歩。
二歩。
三歩。
アシュラの目が細くなる。
(押し込まれている……)
ダンテが戻ってきた。
口元は血に染まっている。
だが、その笑みは消えていない。
「寂しかったか?」
彼は回転する瓦礫を蹴り飛ばした。
巨大な瓦礫が砲弾のように加速する。
若いパイロットがタイミングを完璧に合わせて射撃した。
彼のプラーナの閃光がエンジンに命中する。
それが爆発した――
男の目と鼻の先で。
爆発を突き破って隊長が現れる。
彼の拳が男の胸に激突した。
アシュラが左から叩き込む。
ダンテが右から。
四つの攻撃が、同時に着弾した。
ドゴォォォォォォン!!
空が爆発した。
衝撃波が、燃え盛る残骸を数千メートル先まで撒き散らす。
しばらくぶりに……
男は足場を失った。
その身体が回転しながら吹き飛んでいく。
一直線に、海に向かって。
アシュラの息が荒くなった。
「……俺たち……」
ダンテがニヤリと笑う。
「俺たち、マジで――」
男は波の下へと消えていった。
巨大な水柱が上空へと爆発するように上がった。
静寂。
やがて重力が彼らを奪い返した。
残っていた瓦礫も、ついに彼らの下から消え去った。
全員が再び落下を始める。
海面が勢いよく迫ってくる。
近く。
近く。
さらに近く。
ザッパァァァァァン!!
海がすべてを飲み込んだ。
闇。
冷たさ。
重み。
アシュラは水中の中で目を開けた。
肺が焼けるように熱い。
彼は上方に向かって蹴り進んだ。
水面が弾けた。
彼は激しく息を吸い込んだ。
数メートル離れた場所で――
隊長が顔を出した。
続いて若いパイロットも。
数瞬後――
ダンテが劇しく咳き込みながら浮上してきた。
「……生きてる……」
アシュラは安堵から笑い声を漏らした。
「お前もな」
若いパイロットが周囲を見回した。
「……あの男は――」
誰一人として、その言葉を最後まで口にしなかった。
月光の下、海はどこまでも果てしなく広がっていた。
男の姿はどこにも見当たらない。
アシュラは息を吐き出した。
「……終わったな」
「合流しよう」
四人はお互い向かって泳ぎ始めた。
一かきごとに、距離が縮まっていく。
三十メートル。
二十。
十。
ダンテが力無く笑った。
「……あの野郎……」
「……イカれてやがったな」
アシュラは頷いた。
「だが、俺たちの勝ちだ」
その時――
水面が揺れた。
たった一度だけ。
誰も気づかなかった。
五メートル。
四。
三。
ダンテがアシュラに向かって手を伸ばした。
「アッシュ――」
ズシュッ!!
何かが海の中から飛び出した。
鋼鉄がダンテの背中を突き破った。
血に濡れた刃が、彼のみぞおちから跳ね出していた。
時間が停止する。
血が波間に広がっていく。
ダンテは下を見つめた。
その唇が、うっすらと開く。
「……」
アシュラは凍りついた。
パイロットたちも泳ぐのをやめた。
誰も動かない。
ダンテの背後から……
手がゆっくりと海から持ち上がった。
続いて、もう片方の手が。
男は上へと踏み出してきた……
泳いでいるのではない。
歩いているのだ。
一歩踏み出すごとに、海が固化していく。
まるで海そのものが確固たる大地に変貌したかのように、そのブーツの足元から波紋が広がっていく。
男の笑みが消えることはなかった。
何の力みもない動作で――
男は巨大な刃を引き抜いた。
シュリッ!
血が波の中へと注ぎ込む。
ダンテがよろめいた。
彼の脚から力が抜ける。
かろうじて意識を保っている状態だった。
男は再び、その武器を肩に担ぎ直した。
「思っていたんだがね……」
「……お前たちのうちの誰かが油断するまで、どれくらいかかるのかとな」
アシュラの目が大きく見開かれた。
「ダンテ!!」
ダンテが彼の方を見た。
口の端から血が滴り落ちている。
彼は笑った。
小さく。
疲れたように。
以前、幾度となく見せてきたのと同じ笑みを。
「……アッシュ……」
アシュラは動こうとした。
身体が拒絶する。
「……逃げろ」
ダンテの頭が垂れ下がった。
海が静まり返る。
ただ波の音だけが残されていた。
そして、その波の上に立ち……
『男』が待っていた。




