出発
朝は静かに訪れた。
陽光が高層ビル群に降り注ぎ、帝国グランドホテルの外には記者たちが群がっていた。
衛星カメラが頭上に浮かび、ニュースヘリが空を旋回する。
主要な放送局の見出しはただ一つ。
「地球界のイレギュラー、今日旅立つ。」
ホテルの中…
アシュラは旅行鞄のストラップを締め直した。
チャンピオンになって以来初めて…
戦いの準備ではなく、故郷を離れる準備をしていた。
ダンテは自分のバックパックを肩に掛けた。
「…荷物少ないな。」
アシュラは鞄の中を覗いた。
着替え一式。
それだけ。
「持ってるものが少ないんだ。」
ダンテは頭をかいた。
「…まあ、そうだな。」
ノックの音。
ホテルの扉が開く。
皇帝が数人の帝国役人と共に入ってきた。
昨日の式典とは違い…
今日は質素な白い服を着ていた。
装飾も玉座もない。
ただ、十二歳の少年が一つの界の重荷を背負っていた。
彼はアシュラを見た。
「準備はできたか?」
アシュラはうなずいた。
「たぶん。」
皇帝はかすかに微笑んだ。
「帰ってきたとき…」
「強くなっていてほしい。」
「だがそれ以上に…」
「賢くなっていてほしい。」
アシュラは黙って聞いた。
「力だけでは界を救えない。」
「他国を理解する者こそ…」
「彼らを結びつけることができる。」
彼は一歩近づいた。
「ブラジルを訪れるとき…」
「地球界のイレギュラーとしてではなく…」
「アシュラとして行け。」
「学べ。」
「聞け。」
「必要な時だけ戦え。」
「いつか…」
「彼らはお前と共に戦うかもしれない。」
アシュラは軽く頭を下げた。
「わかりました。」
外では…
帝国の車列が待っていた。
今回は兵士に囲まれてはいなかった。
代わりに…
数千人の市民がホテル前に集まっていた。
子供たち。
家族。
チャンピオンたち。
労働者。
観光客。
誰も叫ばず、押し合わず。
ただ見守っていた。
小さな少女が紙の旗を持って前に出た。
「チャンピオン・アシュラ…」
「無事に帰ってきてください。」
アシュラは旗を受け取った。
「…必ず。」
ダンテは笑った。
「…もうファンがいるな。」
車列が空港へ向かう間…
街は少しずつ後ろへ消えていった。
アシュラは窓の外を見た。
東京はすべての始まりの場所だった。
ダンテとの出会い。
カザン事件。
トーナメント。
発表。
すべて。
いつ戻れるのか、彼は思った。
空港にて…
巨大な航空機が待っていた。
銀色の機体には日本ではなくブラジルの紋章が描かれていた。
空港全体が封鎖され、残っていたのはチャンピオンと役人だけ。
搭乗の準備をしていたアシュラに…
声が響いた。
「アシュラ。」
振り返ると、ミノリが政府チャンピオンの制服姿で立っていた。
隣にはアッシュ。
二人とも出発前に間に合うとは思っていなかった。
ミノリは微笑んだ。
「本当に行くんだね。」
アシュラはうなずいた。
「しばらく。」
彼女は歩み寄り、小さな木の御守りを渡した。
「これ、作ったの。」
「幸運のお守り。」
アシュラは慎重に受け取った。
「…ありがとう。」
滑走路にアナウンスが響いた。
「最終搭乗。」
エンジンがゆっくりと始動する。
風が吹き抜ける。
アシュラは最後に皆を見た。
そして機体へと足を踏み入れた。
ダンテも続いた。
扉が閉まり、エンジンが轟音を上げる。
機体が加速する。
数百万の人々が生中継を見守った。
地球界のイレギュラーは…
初めて故郷を離れた。
ブラジルの航空機は果てしない雲海を突き抜けた。
月光が太平洋を銀色の鏡に変え、地平線まで広がっていた。
日本を出発して二十八時間。
ファーストクラスのキャビンの中…
ようやく平穏が訪れた。
アシュラは窓にもたれ、星々を静かに眺めていた。
向かいでは…
ダンテが豪華なキャビンを自分の居間のように変えていた。
ブーツをテーブルに乗せ、ブラジルのホログラフィックガイドを浮かべていた。
目を輝かせながら。
「アシュラ。」
「ん?」
「着いたら…」
「俺は消える。」
アシュラは窓から目を離した。
「…消える?」
ダンテは真剣にうなずいた。
「少なくとも二日間。」
アシュラは瞬きをした。
「…皇帝は学べって言ってたぞ。」
「学ぶさ。」
ダンテは笑った。
「でもまず…」
指を折りながら数えた。
「ブラジルのバーベキュー。」
「カーニバル。」
「サッカー。」
「アマゾン。」
そして近づいて…
「…ブラジルの女性。」
アシュラは数秒間彼を見つめ…
そして笑った。
心からの笑い。
「本気で計画してたのか?」
「東京からずっと。」
ダンテは誇らしげにうなずいた。
「別の大陸に来て、会議と戦い方だけ学ぶなんてありえない。」
帝国の護衛の一人が笑った。
「本当にチャンピオンなのか信じられない。」
別の護衛も笑った。
「冷たい謎めいた英雄を想像してた。」
「なのに…」
ダンテを指差した。
「…これだ。」
ダンテは胸に手を当てた。
「深く傷ついた。」
キャビンは笑いに包まれた。
役人たちも微笑んだ。
老外交官が眼鏡を直した。
「新聞は君たちを地球の未来と呼んでいた。」
ダンテは肩をすくめた。
「間違ってない。」
アシュラはため息をついた。
「でも新聞は彼が馬鹿だって書き忘れた。」
さらに笑いが広がった。
トーナメント以来初めて…
誰も死を考えず。
誰も戦いを考えず。
ただ明日を思った。
時は過ぎ…
外は夜に完全に包まれた。
月光だけが果てしない海を照らす。
キャビンの中…
静寂が広がった。
役人たちは後方のキャビンに退き、護衛が交代で見張っていた。
起きていたのはアシュラとダンテだけ。
アシュラは星を見続けた。
「…美しい。」
ダンテは伸びをした。
「ああ。」
「…死にかけたことを忘れそうだ。」
アシュラはかすかに笑った。
しばらく沈黙。
だ




