決断
スイートルームが静寂に包まれた。
皇帝の足音が、廊下の奥へと次第に遠のいていく。
カチャリ。
扉が閉まった。
アシュラはバルコニーに立ったままだった。
夜風が彼の頬を撫でていく。
眼下には――
無数の光に彩られた東京が輝き続けていた。
手すりに置かれた手。
彼の意識は、ここではないどこかにあった。
「……」
生まれて初めて……
体が重く感じられた。
肉体的な疲労ではない。
感情の重みだ。
皇帝の放った言葉が、頭から離れようとしない。
『力とは、それを欲する者に与えられるのではない』
『それは……決して他者を見捨てぬ者に与えられるのだ』
アシュラはゆっくりと目を閉じた。
「……」
コンコン。
返事を待たずに――
扉がスライドして開く。
聞き覚えのある声が部屋に響いた。
「よお」
ダンテがドアの枠に気怠げに寄りかかっていた。
「……岡崎のオッサン、帰ったか?」
アシュラは肩越しに振り返る。
「……ああ」
ダンテは頭を掻いた。
「廊下ですれ違ったけどさ」
「クソ真面目な顔してたぞ」
ダンテが部屋の中に踏み込んでくる。
「……何されたんだ?」
「説教でも食らったか?」
アシュラは静かに息を吐き出した。
「……いや」
「話し合いをしただけだ」
ダンテはパチクリと目を瞬かせた。
「……そっちの方が余計に恐ろしいな」
アシュラは思わず苦笑した。
ダンテは歩み寄り、バルコニーでアシュラの隣に並んで立った。
しばらくの間――
二人は何も言わなかった。
やがて――
ダンテが沈黙を破る。
「あのさ……」
「ずっと考えてたんだけど」
アシュラは横目で見やる。
「何がだ?」
ダンテは腕を組んだ。
「あのガキのことだよ」
アシュラは眉をひそめた。
「……ガキ?」
「皇帝のことだ」
ダンテは心底不思議そうな顔をしていた。
「あいつ、まだ十二歳なんだろ?」
アシュラは静かに頷いた。
「俺もそう聞いた」
ダンテは遠くの地平線を見つめた。
「……どうやって?」
「俺たちがチャンピオンになったのは、たった九年前だぞ」
「あいつ、当時は……」
「……三歳だ」
ダンテはアシュラを見た。
「三歳のガキが、どうやって皇帝になるんだよ?」
アシュラは肩をすくめた。
「知らないよ」
ダンテはあごを擦った。
「……嘘ついてんのかもな」
アシュラがダンテを見る。
「皇帝が……か?」
ダンテは肩を揺らした。
「……聞いてみる価値はあるぜ」
アシュラはため息をついた。
「そんなこと尋ねる奴、誰もいないと思うけどな」
ダンテは笑った。
「……違いない」
笑い声が静まり返る。
二人 grandfather の足元で、都市が果てしなく広がっていた。
やがて――
ダンテが再びアシュラへと視線を向けた。
「で……」
「本当は何を言われたんだ?」
アシュラは沈黙を守った。
数秒の後――
「言われたよ……」
「……『強くなること』と『人を背負うこと』は違うってな」
ダンテの表情が、少し柔らかくなった。
「……あいつが言いそうなことだ」
アシュラは頷いた。
「それに……」
「……世界中が今、俺に何かを期待しているとも言われた」
ダンテは眼下の街の明かりを見つめた。
「そりゃ間違いじゃないな」
アシュラは視線を下げた。
「……俺に、その覚悟があるか分からなくなってきた」
沈黙。
すると――
ダンテが突然、アシュラの肩をぽんと軽く小突いた。
トン。
アシュラがダンテを見る。
「……何すんだよ」
ダンテはニヤリと笑った。
「お前は昔から考えすぎるんだよ」
「覚悟なんてものが無かったら……」
「最初からあのトーナメントに飛び込んでなんかねえよ」
アシュラは指で手話を作った。『他に選択肢がなかっただけだ』
ダンテは続けた。
「じゃあミノリを救ったのはどう説明する?」
「エルリックに殺されかけた時、前に立ったのはどうなんだ?」
ダンテは肩をすくめた。
「お前はな、誰かに『背負え』って許可される前から、勝手に人を背負って生きてきたんだよ」
アシュラはじっとダンテを見つめた。
「……」
ダンテは笑った。
「だから今更、今日から始まりましたみたいなツラすんな」
長い間――
アシュラは何も言わなかった。
やがて……
小さな笑みが、彼の唇に浮かんだ。
「……ありがとな」
ダンテは手すりに体重を預けた。
「お礼なんて言うなよ」
アシュラは静かに笑った。
◇
――同じ頃。
帝国グランド会議場。
東京に完全な夜が訪れていた。
円形の会場は、再び巨大なホログラムディスプレイの光によって照らし出されている。
各国の代表たちが、再びそれぞれの着席場所へと戻っていた。
今度は、雑談を交わす者は一人もいない。
ただ、緊張に満ちた『期待』だけが充満していた。
皇帝が入場する。
全代表が一斉に起立した。
皇帝は静かに会議場の中央へと歩み寄る。
その表情からは何も読み取れない。
勝利も。
失望も。
ただ、静かなる威厳だけが存在していた。
皇帝は室内を見渡す。
「……待たせたな」
すべての国家が息を呑んだ。
皇帝は手を後ろで組む。
「アシュラと話をしてきた」
沈黙。
完璧な静寂。
誰も口を挟まない。
挟める者など、誰もいなかった。
◇
皇帝は円卓を見渡す。
あらゆる代表が息を殺して待ち構えていた。
あらゆる国家が期待を抱いていた。
ついに――
皇帝が口を開いた。
「決断を下した」
静寂が答えとなった。
「アシュラ本人と二人で話をした」
「彼は、ここに集まった諸君らの懸念をすべて理解している」
アメリカ代表が身を乗り出した。
「……では」
「……どの国家が選ばれたのですか?」
皇帝は首を振った。
「どこでもない」
ざわめきが会議場を駆け抜けた。
「何だと!?」
「どこでもないとは、どういう意味だ!?」
中国代表が眉をひそめた。
「陛下、お言葉ですが、この問題を先送りにすることは混乱を招くだけです」
「分かっている」皇帝は冷静に答えた。「この会談の後、私は再びアシュラと面談を行う」
◇
数分後。
最後の国際大臣が退出すると同時に、会議場の重厚なオーク材の扉が静かに閉じられた。
隣接する廊下で待機していたアシュラとダンテは、女性秘書の手によって静かに内部へと案内された。
会議場に残されたのは、わずか四人だけだった。
皇帝。
アシュラ。
ダンテ。
そして、女性秘書。
皇帝は壇上から降り、アシュラの数歩手前で足を止めた。
その表情は至って穏やかだった。
「……君に伝えておきたいことがある。理解してくれると嬉しいのだが」
アシュラは静かに耳を傾けた。
皇帝は、壁一面に投影された巨大な地球の地図へと視線を向けた。
「何世紀にもわたり……」
「国家は影響力を求めて争ってきた」
「資源のために」
「軍事力のために」
「だが、チャンピオンが覚醒して以来……」
「……『力』そのものが、国家の資産となったのだ」
振り返る。
「日本には、すでに『皇帝』が存在する」
その声は揺るぎない。
「そして今……」
「……世界初の『規格外』が生まれた」
室内を静寂が満たす。
皇帝は続けた。
「もし二人が同一の国家にとどまり続ければ……」
「……地球のバランスは、いずれ崩壊する」
ダンテが眉をひそめた。
「他の国々は、日本が手出しできない存在になると思ってるわけか」
皇帝は頷いた。
「その通りだ」
「何らかの危機が発生した際……」
「すべての国家が、たった一つの国に完全に依存することになる」
「それは『平和』ではない」
「単なる『依存』だ」
アシュラは視線を下げた。
「つまり……」
「……俺に、出て行けと言っているんですか?」
皇帝は首を横に振った。
「違う」
「重荷を『分かち合ってほしい』と頼んでいるのだ」
「君はもはや、日本だけのチャンピオンではない」
「地球全体の、地球界全体の存在なのだから」
その眼光が柔らかくなる。
「『規格外』が一国の象徴になってはならない」
「あらゆる国家の『希望』とならねばならないのだ」
アシュラは沈黙を守った。
部屋の空気が、先ほどよりも重く感じられた。
静寂の後――
「……分かりました」
「行きます」
皇帝の顔に、安堵の笑みが浮かんだ。
「感謝する」
秘書がすぐさまメモを取る。
皇帝は手を後ろで組んだ。
「では……」
「君の旅は、どこから始まるのだ?」
アシュラは目を瞬かせた。
「……」
「……俺……」
「……全く見当もつきません」
ダンテが顔を手で覆った。
「こうなると思ってたぜ」
予告もなく――
ダンテはアシュラの袖を引っ張った。
「来い」
アシュラは眉をひそめた。
「……どこへ行くんだ?」
「外だよ」
◇
宮殿のバルコニーからは、帝国首都の全貌が見渡せた。
大理石の床を涼しい風が吹き抜けていく。
アシュラは腕を組んだ。
「で?」
ダンテは手すりに寄りかかった。
「俺に聞くなら……」
「――『ブラジル』から始めろ」
アシュラは首を傾げた。
「……ブラジル?」
ダンテのニヤリとした笑みが深くなる。
「聞けよ」
「あそこにはリオのカーニバルがある」
「アマゾンがある」
「地球最大の熱帯雨林だ」
「ビーチもある」
「音楽もある」
「極上のシュラスコ(肉料理)もある」
ドラマチックに言葉を区切る。
「そして……」
声を潜めた。
「……最高の『女たち』がいる」
アシュラはじっとダンテを見つめた。
「……本気で言ってるのか?」
ダンテは恥じる様子もなく頷いた。
「俺は教養のある男だからな」
アシュラはため息をついた。
「それは『教養』とは言わないと思うけど」
ダンテはそれを無視した。
「それに、あそこには怪物もいる」
アシュラが顔を上げた。
「……怪物?」
「いい意味でのな」
「チャンピオンたちだ」
「ブラジルの格闘技はエグいって評判だぜ」
「カポエイラ」
「柔術」
「ダンスを殺人に昇華させるファイターどもが揃ってる」
腕を組む。
「どこかからスタートするってんなら……」
「最高に生気(ライブ感)あふれる場所から始めようぜ」
アシュラは遠くの地平線を見つめた。
ブラジル……
なぜだか……
面白そうに思えた。
アシュラは薄く微笑んだ。
「……分かった」
◇
数分後――
二人は会議場へと戻ってきた。
皇帝が顔を上げる。
「決まったかね?」
アシュラは頷いた。
「……はい」
「俺の最初の目的地は……」
「……『ブラジル』にします」
秘書が即座にそれを書き留める。
皇帝は微笑んだ。
「素晴らしい選択だ」
会議用テーブルのボタンを押す。
「国際放送の準備を」
◇
数分後――
地球上のあらゆる場所で。
すべてのテレビが。
すべてのホログラム街頭ビジョンが。
すべてのチャンピオン・ネットワークが。
通常番組を中断した。
画面に皇帝が映し出される。
その声が、星全体へと響き渡った。
『地球界の市民たちよ』
『我が領域の「規格外」との間で、合意に達したことを報告する』
『多くが知っての通り……』
『世界評議会は、皇帝と規格外の双方が一国にとどまることについて懸念を示していた』
『慎重なる協議の結果……』
『一つの決断が下された』
間を置く。
『アシュラは「世界外遊ツアー」へと赴く』
『彼は地球全土を旅する』
『あらゆる国家から学び……』
『そして全ての国家に、彼の信頼を勝ち取る機会が与えられる』
短い沈黙。
『彼の最初の目的地は……』
『……「ブラジル」だ』
世界中が爆発した。
◇
――リオデジャネイロ。
人々が通りの真ん中で足を止めた。
パブやバーから、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
観光客たちが巨大な放送画面を見上げた。
「ブラジルを選んだって!?」
「マジかよ!」
「『規格外』がここに来るぞ!!」
◇
――ブラジリア。
政府高官たちが即座に立ち上がった。
「今日から準備を開始する」
「手落ちのないようにしろ」
◇
ブラジル・チャンピオン本部、その奥深く――
編み込み髪の背の高い男が、放送を消しながらニヤリと笑った。
「ほう……」
「地球界最強のルーキーが……」
「……やって来るのか」
スパーリング用アリーナの向こう側で――
一人の女性が訓練の手を止めた。
汗を拭い、微笑む。
「会ってみたかったのよね」
その近くで――
巨大な鉄の鍛錬柱を片肩に担いだ、肌の浅黒い大男が高らかに笑い声を上げた。
「いいねえ!」
「退屈なガキじゃなきゃいいんだがな!」
彼らの周囲に――
ブラジル最強のチャンピオンたちが、ゆっくりと集まりつつあった。
笑みを浮かべる者。
興奮を隠せない者。
ただ新参者の力を試したいだけの者。
海を隔てた遥か遠くで――
アシュラはスイートルームの窓際に静かに立っていた。
まだ知る由もなく。
一つの国家全体が、自分の到来に向けてすでに動き出していることを――。




