Bankoku Kaigi
静寂が議場を支配した。
皇帝の放った言葉が、重々しく尾を引く。
「……アシュラ自身だ」
数十秒もの間――
誰一人として口を開かなかった。
やがて――
アメリカ代表が、ゆっくりと身を乗り出した。
「……陛下」
「お言葉ですが……」
「彼はまだ十七歳です」
「政治的な経験など皆無に等しい」
「地球界の均衡を……あのような子供に委ねようというのですか?」
複数の代表が同調するように頷いた。
中国代表が続けて発言する。
「同意いたしかねますな」
「この決定を、単なる感情論に委ねるわけにはいかない」
「その結末は、ここにいるすべての国家に影響を与えるのです」
ロシア代表が腕を組んだ。
「もし『規格外』が日本を選べば……」
「何も変わらん」
「だが、もし彼が他国を選べば……」
「世界の勢力図は、一夜にして激変する」
ドイツ代表が眼鏡の位置を正した。
「では、彼が全ての国家を拒絶した場合はどうなる?」
議場は再び喧騒に包まれ始めた。
円卓のあちこちで、囁き声が広がる。
ブラジル代表だけは、一人思案顔を浮かべていた。
「……あるいは」
「だが、圧力をかけて選択を強要するのは、それ以上に危険だ」
フランス代表が頷く。
「自分が『兵器』として扱われていると気づいた瞬間……」
「……我々は彼の信頼を永遠に失うリスクを冒すことになる」
インド代表が静かに付け加えた。
「そして、いかなる政府も信用しない『規格外』など……」
「……あらゆる領域にとって悪夢でしかない」
再び、静寂が訪れた。
◇
皇帝が、ゆっくりと一歩前に踏み出した。
その圧倒的な存在感だけで、全ての雑音が消え去る。
「決断は、すでに下してある」
誰も言葉を挟まない。
「諸君らはみな、強大な力が一国の手に渡ることを恐れている」
「ならば……」
「その懸念を取り除こう」
テーブルの上に浮かぶ地球のホログラムが変化した。
二十一の国家が、次々と光を帯びていく。
――日本。
ブラジル。
ドイツ。
インド。
カナダ。
フランス。
オーストラリア。
韓国。
イタリア。
エジプト。
メキシコ。
スペイン。
ナイジェリア。
アルゼンチン。
インドネシア。
トルコ。
イギリス。
ロシア。
中国。
アメリカ。
イラン。
皇帝が手を一筋挙げた。
「外交外遊だ」
代表たちは困惑したように視線を交わし合った。
「アシュラに世界を巡らせる」
「彼を迎え入れる意志のある国々を、彼自身に訪問させるのだ」
「諸君らの文化を」
「民を」
「チャンピオンたちを」
「軍事力を」
「テクノロジーを」
「そして……理想を目撃させる」
「いかなる国家も、彼に圧力をかけることは許されない」
「力によって彼の決断を誘導しようと試みることも禁ずる」
皇帝の鋭い眼光が、部屋全体を過る。
「この条件を破った政府が出た瞬間……」
「……その国家は、彼を招く権利を永遠に失うものと思え」
その警告に込められた重圧に、異論を唱える者は誰もいなかった。
◇
ブラジル代表が笑みを浮かべた。
「……フェアだな」
ドイツ代表も頷く。
「異論はない」
フランス代表が背もたれに寄りかかった。
「その条件なら受け入れよう」
一人、また一人と……
代表たちがゆっくりと納得を示していく。
勝利したからではない……
これ以上に優れた解決策が存在しないからだ。
◇
ただ一人、中国の代表だけが沈黙を守っていた。
やがて、彼は重い口を開く。
「もし『規格外』が最終的に日本を選んだとしても……」
「……我々は彼の決断を尊重しよう」
アメリカ代表が息を吐いた。
「我が国も同様だ」
ロシア代表が一回、頷いた。
「異議なし」
室内の空気が、明らかに和らいだ。
会談が始まって以来――
初めて、緊迫感が薄れた瞬間だった。
◇
皇帝は円形の会議場を見渡した。
「妥協点を見出せたことを嬉しく思う」
皇帝は手を後ろで組んだ。
「だが……」
「まだ一つ、残された件がある」
すべての代表が皇帝へ視線を向けた。
「私はまだ、アシュラ本人と話をしていない」
再び、室内が静まり返る。
「世界が彼の未来を決める前に、彼はすべてを知る権利がある」
皇帝は言葉を区切った。
「彼と二人きりで話をしてくる」
「助言者も」
「政治家も」
「軍の代表も同席させん」
「我々二人だけでだ」
その威厳ある視線が会議場を巡る。
「話し合いが終わった後……」
「……今夜、再びこの場に集まってもらう」
「その時に、私の回答をお渡ししよう」
誰も反論しなかった。
もはや、議論すべきことなど何も残されていなかったからだ。
◇
代表たちがゆっくりと席を立った。
磨き上げられた大理石の上に、椅子の引く音が響く。
書類が回収され。
国旗が下ろされる。
会議場を去りながら、小さなグループごとに議論が交わされ始めた。
希望に満ちた顔をする者もいれば。
不安を隠せない者もいる。
すでに、アシュラが自国を訪れた際に何を見せるべきか計算し始めている者もいた。
会議場から、徐々に人が消えていく。
最後に、一人の人物だけが残された。
東京を一望する高層窓の前に、皇帝が一人立っていた。
午後の陽光を受け、果てしない街並みが眼下に広がっている。
窓ガラスに映る己の影を見つめながら――
皇帝は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……教えてくれ、アシュラ」
「世界全体の重みがその肩に圧しかかった時……」
「……お前はどんな未来を選ぶ?」
外では――
風がその言葉を、果てしない空へと運んでいった。
そして、帝国グランドホテルのどこかで……
アシュラは未だ、何も知らずにいた。
自分の人生の航路が――
間もなく永遠に変えられようとしていることを。
◇
夕刻。
帝国グランドホテルは首都全体を見下ろしていた。
沈みゆく陽光を受け、東京が黄金色に揺らめく。聳え立つビルの間を、数無しの車列が滑るように流れていた。
街は、平和だった。
――今は、まだ。
◇
アシュラはバルコニーに一人立っていた。
涼しい風が、遠くの街の喧騒を運んでくる。
遥か遠くで、子供たちの笑い声が聞こえる。
通りからは音楽が漂っていた。
妙な感覚だった。
ほんの一週間前まで……
自分は追われる身だったのだ。
それが今や……
武蔵野のアパート全体よりも高価な服を着ている。
人生は、あまりにも早く変わりすぎる。
「……」
手すりに両手を預ける。
「……『規格外』……」
その言葉は、未だにしっくりこなかった。
◇
背後でノックの音が響いた。
「入ってもいいかね?」
アシュラが振り返る。
スイートルームの入口に立っていたのは――
皇帝だった。
たった一人。
護衛もいない。
秘書もいない。
従者すら連れていない。
彼一人だけだった。
アシュラは即座に姿勢を正した。
「陛下」
皇帝は穏やかに微笑んだ。
「楽にしてくれ」
「『岡崎』と呼んでくれて構わない」
「それに、今の私は『皇帝』としてここに来たわけではないのだから」
「私は……」
「……同じ道を歩んできた者として、ここに来た」
アシュラは脇へ退いた。
「どうぞ」
◇
皇帝は静かに入室した。
その視線が豪華な室内を一巡し、バルコニーの近くで止まる。
「素晴らしい眺めだな」
アシュラは頷いた。
「こんな景色、見たことがありません」
皇帝はアシュラの隣へと歩み寄った。
しばらくの間――
二人は何も言葉を交わさなかった。
その沈黙は気まずいものではなく、どこか心地よいものだった。
◇
やがて――
皇帝が尋ねた。
「正直な気持ちを聞かせてくれ」
「今、何を考えている?」
アシュラは、ほぼ間を置かずに答えた。
「……混乱しています」
皇帝は静かにクスリと笑った。
「そうだろうな」
アシュラは街の方へ視線を向けた。
「一週間前まで……」
「俺はただのチャンピオンの一人に過ぎませんでした」
「それが今や……」
「世界中の人間が俺の名前を知っている」
「なぜこんなことになっているのか、理解すら追いついていません」
皇帝は頷いた。
「それは、君の環境が変わってしまったからだ」
「……君の『心』が追いつくよりも前にな」
◇
アシュラは沈黙を守った。
皇帝が続ける。
「私が皇帝になった時……」
「私は、あらゆる人間を憎んでいた」
アシュラは驚いた顔を見せた。
「……本当ですか?」
皇帝は可笑しそうに笑った。
「ああ、本当だとも」
「誰も彼もが、私から何かを奪おうとしていると思い込んでいたのだよ」
「私の力を」
「私の権威を」
「私の決断を」
「私の勝利をな」
地平線を見つめる。
「私は人を見なくなった」
「ただ『期待』という名のバケモノだけを見るようになっていた」
◇
アシュラは静かに耳を傾けた。
皇帝の声が、柔らかさを帯びていく。
「力というのは、不思・議なものだ」
「強くなられればなるほど……」
「……人々は君がどう感じているかなど尋ねなくなる」
「ただ『君が何をするのか』だけを求めてくるのだ」
アシュラはゆっくりと視線を落とした。
「……」
◇
皇帝は手を後ろで組んだ。
「知っての通り……」
「外界の人々は『規格外』になることを祝福だと思っている」
皇帝は薄く微笑んだ。
「だが、私はそうは思わない」
アシュラが目を瞬かせた。
皇帝はアシュラを真っ直ぐに見つめた。
「それは『呪縛』であり、『重荷』だ」
「一人のチャンピオンは、自分の命を背負う」
「分隊長は、隊員たちの命を背負う」
「一国最強のチャンピオンは、祖国の希望を背負う」
間を置く。
「だが……『規格外』は……」
果てしない摩天楼を見下ろす。
「……『未来』そのものを背負うのだ」
「私と君の役割は、無数の命と文明の未来を背負うことにある」
◇
アシュラは答えなかった。
答えようが……なかったからだ。
◇
皇帝は言葉を重ねる。
「君は人を救うだろう」
「人に希望を与えるだろう」
「人を失望させることもあれば……」
「人を恐怖させることもある」
「誰かにとっての『ヒーロー』になり……」
「……また別の誰かにとっての『最大の恐怖』になるのだ」
アシュラの方へと向き直る。
「君には、それを止めることはできない」
アシュラは静かに呟いた。
「……もし俺が、そんなものを望んでいなかったら?」
皇帝は微笑んだ。
「分かっている」
「私も望んでなどいなかった」
◇
沈黙。
◇
皇帝はゆっくりと、窓の一つへと歩み寄った。
「私はまだ十二歳だが……」
「私が九歳の頃……」
「師から一つの問いを投げかけられた」
振り返る。
「師は言った」
『平和に生きたいか……』
『……それとも、皆の平和を守る《盾》となりたいか?』
アシュラは眉をひそめた。
「……何と答えたのですか?」
皇帝は静かに笑った。
「答えなかったさ」
「逃げ出したのだ」
アシュラは目を見開いた。
「……あなたが?」
「ああ」
「三日間な」
「姿を消したのだよ」
「責任なんてものからは、全力で逃げ出したかった」
その笑みに、懐かしさが滲む。
「師は結局、川辺で釣りをしている私を見つけ出した」
◇
アシュラは思わず微笑んだ。
「……マジですか?」
皇帝は誇らしげに頷いた。
「一匹も釣れなかったがね」
二人は笑い合った。
ささやかな、しかし確かな笑い声だった。
◇
やがて――
皇帝の表情が、再び真摯なものへと戻る。
「その時、師が私に言ったのだ」
「一つの言葉を……」
「三年間、片時も忘れず胸に抱き続けてきた言葉をな」
アシュラのエメラルドの瞳を直視する。
「『力とは、それを欲する者に与えられるのではない』」
「『それは……』」
「『……決して他者を見捨てぬ者に与えられるのだ』と」
◇
アシュラの笑みが、ゆっくりと消えていった。
その言葉が、胸の奥深くへと染み込んでいく。
◇
皇帝は続けた。
「君が『規格外』になったのは、才能があったからではない」
「君が選ばれたのは……」
「……自分が死ぬと信じ切っていたその瞬間でさえ……」
「……君が最初に考えたのが自分自身ではなく」
「ダンテのことだったからだ」
「ミノリのことだったからだ」
「君の背後にいた、全ての人々のことだったからだ」
一歩、近づく。
「だからこそ……」
「……神々は君を選んだのだ」
◇
アシュラは床を見つめた。
「……神々が……」
「……俺を選んだ?」
皇帝は力強く頷いた。
「私はそう確信している」
◇
静寂が、長きにわたって部屋を支配した。
風の音だけが聞こえる。
◇
やがて――
アシュラが顔を上げた。
「もし、いつか……」
「……俺に十分な力がなかったら?」
皇帝は微笑んだ。
「ならば、さらに強くなればいい」
「もし……失敗したら?」
「ならば、再び立ち上がるだけだ」
「もし……人が死んだら?」
皇帝の瞳が、遠くを見つめる。
「――人は死ぬ」
即答だった。
誠実で。
嘘偽りのない慰めなど一切含まない答え。
「君がどれほど強力になろうとも……」
「……いつか、君の指の隙間から零れ落ちる命がある」
「君は自分を責めるだろう」
「自分を憎むだろう」
「これまで下してきたあらゆる決断を疑うことになる」
皇帝はアシュラの肩に手を置いた。
「その日が来たら……」
「罪悪感だけを一人で背負うな」
「そこから得た『教訓』を背負うのだ」
◇
アシュラは皇帝を見つめた。
「……どうやって、立ち続けているんですか?」
皇帝は沈みゆく夕日を見つめた。
「毎朝……」
「……私が守ってくれると信じて目を覚ます者がいるからだ」
優しく微笑む。
「私は、その信仰を裏切るわけにはいかない」
◇
部屋は再び静寂に包まれた。
太陽が東京の地平線の向こうへとゆっくりと姿を消していく。
黄金色の光が、深い茜色へと溶けていく。
皇帝はついに、扉の方へと向き直った。
「代表たちが私の回答を待っている」
立ち止まる。
「だが、行く前に……」
「一つだけ、君に問いを投げかけさせてくれ」
真っ直ぐにアシュラを見つめた。
「皇帝としてではない」
「統治者としてでもない」
「ただの『一人の子供』から、もう一人の子供へ」
「もし明日……」
「……世界全体の信頼が君に託されたとしたら……」
「……君は、逃げ出すか?」
アシュラは静かに立っていた。
答えは、すぐには出なかった。
なぜなら――初めて。
その問いに込められた『本当の重み』を、理解したからだった。




