明日の重み
数多の《覇者》たちの興亡を見守ってきたその都市は今、黄金の光の河となって輝いていた。聳え立つ摩天楼は茜色の夕刻を映し出し、無数の飛空艇が静かな星々のようにビル群の合間を漂う。
黒塗りの帝国車列が、静かに首都を走り抜けていた。
車内には、静寂だけが満ちている。
アシュラは車の窓に頭を預けていた。
覚えている限り、こんな時間は本当に久しぶりだった。
ただ、エンジンの静かな低音だけが響いている。
隣で、ダンテが大きく腕を伸ばし、深いため息を漏らした。
「……なんか、変な感じだな」
アシュラは横目で視線を送る。
「何がだ?」
ダンテは頭の後ろで手を組んだ。
「命がけで逃げ回ってないってのがさ」
アシュラは再び外の景色へ目を戻した。
「……ああ」
車列はさらに都市の奥深くに侵入していく。
通り過ぎる車列に、通行人たちが足を止める。
皇帝の紋章に気づく者もいれば。
後部座席に座る二人の少年を見て、目を見開く者もいた。
子供たちが興奮気味に指をさす。
大人たちが声を潜めて囁き合う。
ただただ、呆然と見つめる者もいた。
アシュラはその視線に気づく。
「……見られているな」
ダンテが窓の方へ身を乗り出した。
「どうせ『あのバカ二人、どうやってあのトーナメントを生き残ったんだ?』って思ってんだろ」
沿道に立っていた小さな少女が、突如として手を振った。
アシュラは一瞬躊躇し――
それから、静かに手を振り返した。
少女の顔がパッと華やぐ。
その母親はすぐさま、通り過ぎる車列に向かって深々と頭を下げた。
車両は進む。
それ以上、二人は何も言葉を交わさなかった。
◇
数分後。
車列は『帝国特別区』へと入った。
柔らかい金色に照らされた巨大な敷地を、広大な白壁が囲んでいる。
重厚な門がゆっくりと開いた。
その先には、アシュラがこれまでに見たこともないような豪奢な建造物が聳え立っていた。
――『帝国グランドホテル』。
マーブル模様のテラスからは人工の滝が流れ落ちている。
無数の燈籠の光の下、庭園がどこまでも広がっていた。
エントランスには帝国近衛兵たちが微動だにせず整列している。
車列が止まった。
将校がドアを開ける。
「ようこそ」
「この邸宅は、お二人だけのためにご用意された特別仕様でございます」
ダンテが先に車外へ踏み出した。
見上げる。
さらに、視線を上げる。
「……これ、ホテルなのか?」
アシュラもその隣に降り立った。
「ネクサスホールよりもデカく見えるな」
将校は穏やかに微笑んだ。
「皇帝陛下がご家族とお過ごしになる場所でもあり――政治的な首脳会談等にも使用される場所でございます」
「今夜は……」
「お二人だけのものです」
ダンテはパチクリと目を瞬かせた。
「……うっかり何か壊したらどうなる?」
将校は表情一つ変えずに答えた。
「出来ましたら、ご遠慮いただけますと幸いです」
アシュラは思わず苦笑した。
◇
二人のスイートルームは最上階にあった。
エレベーターそのものが、フクルで暮らしていたアパートの部屋よりも広い。
扉が開いた瞬間――
二人は足をとめた。
天井から床まで届く巨大なガラス窓が、首都の夜景を一望している。
プライベートガーデンの隣には、湯気を立てる室内温泉。
ダイニングテーブルには、すでに温かい料理が所狭しと並べられていた。
新品の衣服も用意されている。
ダンテはゆっくりと周囲を見回した。
「……俺たち、うっかり大金持ちになっちまったか?」
アシュラは窓辺へと歩み寄る。
眼下には、果てしない光の海。
街の灯りが、まるで地上に降りた星々のように煌めいていた。
「これが……」
「……『平和』ってやつか」
◇
数時間が経過した。
二人とも、自分たちの限界以上に腹を満たしていた。
今、二人はバルコニーに並んで立っている。
夜が完全に行き渡っていた。
眼下に広がる帝国首都の煌めき。
心地よい、涼やかな風が吹き抜ける。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。
その静寂は――勝ち取ったものだった。
ダンテが手すりに両肘を預ける。
アシュラは改めて、豪華な部屋の内部を見つめた。
「こんなこと、想像もしていなかった」
ダンテは視線を落とした。「俺もだよ」
笑い声が、ゆっくりと消えていく。
ダンテは遠くの地平線を見つめた。
「……お前、本当に死んだと思ったんだぞ」
アシュラはすぐには答えなかった。
静かな時間が流れる。
「……俺もだ」
声は低かった。
「何も聞こえなかった。何も見えなかった」
「ただ覚えているのは……」
「……堕ちていく感覚だけだ」
その記憶が、二人の間に漂う。
ダンテが手すりを強く握りしめた。
「あのクレーターに跳び飛び込んだ時……」
「何も考えてなかった」
アシュラがダンテの方を向く。
「分かっている」
ダンテは苦笑した。
「エルリックがお前を引っ張り出してくれなかったら……」
「俺は死ぬまで探し続けてたさ」
アシュラは視線を下げた。
「……ありがとう」
ダンテは困惑した顔をする。
「何がだ?」
「戻ってきてくれてだ」
沈黙。
ダンテは首の後ろを掻いた。
「……そういうの、気恥ずかしいからやめろ」
「俺はただ、約束を守っただけだ」
アシュラは微笑んだ。
「俺も、俺の約束を守る」
星空の下、二人は並んで立ち続けた。
敵もいない。
戦場もない。
ただ、眼下に広がる街並みがあるだけ。
ほんの束の間――
世界は彼らに、休息を許していた。
◇
――同じ頃。
帝国特別区の内部。
夜深き時間にもかかわらず、巨大な会議室には明々と光が灯っていた。
円卓を囲むのは、世界のあらゆる主要国家の代表たち。
誰一人として、寛いだ表情の者はいない。
彼らの手元には、幾重にも重なった資料。
そのすべてのファイルの表紙に――
一枚の写真があった。
アシュラ。
皇帝は、眼下に眠る首都を見下ろすパノラマウィンドウの前に立っていた。
振り返ることもなく、皇帝は口を開く。
「明日……」
「地球界の新たなる未来が始まる」
誰も答えなかった。
◇
宮殿から遥か離れた場所――
別の高層ビルの屋上。
一人のスーツを着た男が、眼鏡越しに静かに帝国ホテルを見下ろしていた。
スーツ。ネクタイ。アタッシュケース。
どこにでもいる、ごく普通のビジネスマンに見える。
だが――
彼の瞳が、一瞬だけ銀色に輝いた。
脳内に、かすかな機械音が響く。
『ターゲット、確認』
銀色の輝きが消える。
人間の瞳に戻った。
男は、通り過ぎる通行人に向かって丁寧なに微笑みかけた。
そして、人ごみの中へと姿を消した。
朝は、まもなくやって来る。
そしてそれと共に――
世界全体の命運を決めるゲームの『最初の駒』が動かされる。
◇
朝の光が帝国グランドホテルに降り注ぐ。
巨大なガラス窓から差し込む柔らかい光が、部屋を黄金色に染め上げていく。
珍しく――
アシュラは日光の眩しさで目を覚ました。
ゆっくりと体を起こす。
下に敷かれたベッドは、これまで眠ったどんな寝具よりも柔らかかった。
「……」
数秒間、じっとベッドを見つめる。
「……これは危険だな」
部屋の反対側では――
ダンテがまだ爆睡していた。
体の半分がベッドから落ちかけている。
高級な羽毛布団は、なぜか天井のシャンデリアに絡みついていた。
アシュラは目を瞬かせた。
「……どうやって?」
ノックの音が激しく響いた。
アシュラが答えるより早く――
扉が開く。
二十人近い従者たちが、完璧な陣形を組んで入室してきた。
全員が銀のトレイを掲げている。
アシュラは固まった。
「……」
先頭の従者が恭しく一礼する。
「おはようございます、チャンピオン・アシュラ様」
「ご朝食をご用意いたしました」
アシュラは従者たちの果てしない列を見つめた。
「……朝食?」
瞬く間に――
ダイニングテーブルは料理の山で埋め尽くされた。
新鮮なフルーツ。
ステーキ。
ライス。
スープ。
焼き立てのパン。
ジュース。
果てはデザートまで。
アシュラは口ぐちに凝視した。
「……何人分用意したんだ?」
従者はプロらしい笑みを浮かべた。
「こちらは、まだ一コース目に過ぎません」
アシュラは思わずむせた。
「……一コース目!?」
背後で大きな衝突音が響いた。
ダンテがベッドから転げ落ちたのだ。
ダンテは跳ね起きる。
「……敵襲か!?」
そして――
食卓の料理に気づく。
目を見開いた。
「……撤回。何でもない」
◇
一時間後。
従者たちは壁際に静かに整列していた。
じっと見守っている。
アシュラとダンテは、黙々と料理を平らげていた。
皿から皿へ、料理が消えていく。
従者たちは密かに視線を交わし合った。
「……」
「……」
一人が小さく呟く。
「『見積もりを誤っていたようですね』」
もう一人が頷く。
「『追加をお持ちします』」
ダンテが顔を上げた。
「……まだあんのか?」
◇
さらに一時間後。
ついにテーブルの上は空になった。
朝食が終わると――
女性秘書が入室してきた。
彼女は丁寧に一礼する。
「陛下より、お二人のために本日のご予定が用意されております」
ダンテが眉をひそめた。
「……予定?」
「本日は、お二人の自由時間でございます」
アシュラは驚いた顔を見せた。
「……つまり、俺たちは自由なのか?」
秘書は頷いた。
「皇帝陛下は『チャンピオンであっても、時に人間であることを思い出すべきだ』とお考えでございます」
ダンテは即座に立ち上がった。
「岡崎のオッサン、分かってんじゃねえか!」
◇
外には、豪奢な黒塗りの車両が待機していた。
周りを固めるのは、数員の精鋭近衛兵たち。
アシュラは周囲を見回した。
「……本当にこんなに警衛が必要なのか?」
隊長は冷静に答えた。
「貴方はこの世界の『規格外』です」
隊長はダンテへと視線を向ける。
「そして貴方は、そのパートナーだ」
「お二人をお護りすることは、現在の我々の最優先事項です」
ダンテがアシュラに耳打ちする。
「……お前、高くつく男になったな」
アシュラはため息をついた。
「自分でも実感しているよ」
◇
特別区を出て、彼らが最初に訪れた場所。
――『商業地区』。
アシュラは、このような場所が存在することすら想像したことがなかった。
巨大なホログラム広告がビルの間を漂っている。
上空を交差して飛び交う空飛ぶ列車。
数多の国々からやってきた人々が通りを埋め尽くしている。
賑やかな音楽が空気に溶け込んでいた。
二人が車から足を踏み出した瞬間――
通りの動きがピタリと止まった。
「……」
「……」
「……」
誰かが叫んだ。
「――アシュラだ!!」
別の声が続く。
「ダンテもいるぞ!!」
一瞬にして――
街全体が歓声に包まれた。
「サインください!!」
「アシュラーー!」
「ダンテーー! こっち向いて!」
近衛兵たちが即座に反応した。
円陣を組み、二人を保護する。
アシュラは目を丸くした。
「……何が起きているんだ?」
ダンテが爆笑する。
「……おめでとう」
「俺たち、有名人だぜ」
一人の小さな少年が人ごみを押し分けて出てきた。
齢八歳にも満たない少年。
手には木剣を握りしめている。
その手は震えていた。
「チャン、ピオン……アシュラ……」
「……これに……」
「……サイン、してくれますか……?」
近衛兵が制止しようと動く。
アシュラは手を挙げた。
「大丈夫だ」
アシュラはかがみ込み――
木剣を受け取った。
「……名前は?」
「……ケンです」
アシュラは微笑んだ。
丁寧に自分の名前を刻み込む。
そして、手渡した。
ケンは、まるで宝物でも見るかのように木剣を見つめた。
ダンテはあごを掻く。
「……俺には誰もサイン頼んでこねえな」
直後――
少女たちの集団がダンテを取り囲んだ。
「ダンテさんのサインも欲しいです!」
ダンテはニヤリと笑った。
「……前言撤回」
「まだまだ俺も捨てたもんじゃねえな」
アシュラは静かに歩き去る。
「……おめでたい奴だ」
◇
その後――
彼らは巨大なショッピングモールへ足を踏み入れた。
――『GINZA SIX』。
モール全体が、たちまち野次馬で埋め尽くされる。
オーナーは客の正体を知るや否や、泡を吹いて倒れそうになっていた。
「全品無料でございます!」
「どうぞ! 当店の光栄でございます!」
アシュラは呆然とした。
秘書が微笑む。
「『ギンザ シックス』。東京で最も格式高いショッピングエリアでございます」
ダンテは周囲を見回した。
「……つまり、金持ちどもが狩りをする場所か」
ダンテはすぐさま、ふざけた服を試着し始めた。
高級な白いスーツ。
濃いサングラス。
そして、バカでかいファーコート。
ダンテはアシュラを見た。
「……どうだ?」
アシュラは顔すら上げずに答えた。
「……借金取りに追われてる奴に見える」
従者たちは必死に笑いを堪えていた。
アシュラが選んだのは、ずっとシンプルなものだった。
黒を基調としたストリートウェア。
オーバーサイズの黒いスウェットの下にダークグレーの襟付きシャツを重ね、太めのペンダントチェーンを合わせている。
下半身はワイドな黒のカーゴパンツ。脛には控えめなクロス型のパッチがあしらわれ、ユーティリティベルトと銀のウォレットチェーンが腰元で揺れる。
足元は、厚底のホワイトソールと白いシューレースが映える黒のローカットスニーカー。
ダンテが覗き込んだ。
「……お前、いっつも『ラストボス』みたいな格好するよな」
◇
午後になる頃――
二人は首都で最も高い展望台へと辿り着いていた。
――『東京スカイツリー・天望回廊』。
巨大な都市全体が、眼下に果てしなく広がっている。
アシュラは両手を手すりに預けた。
摩天楼の間をすべるように走る列車を眺める。
平和というものがどんな景色だったか、忘れかけていた。
「……きれいだな」
隊長が静かに近づいてきた。
「……チャンピオン・アシュラ」
「お覚悟なさっておくべきことがございます」
アシュラが振り返る。
「明日……」
「……地球上のすべての国家が、貴方を待っております」
アシュラの顔から、ゆっくりと笑みが消えていった。
平和な一日は――
終わりを告げようとしていた。
◇
朝の光が帝国特別区を包み込む。
外の静かな庭園とは対照的に、グランド会議場の空気は、踏み込んだ者を窒息させるほどの重圧に満ちていた。
円形型の室内。
二十一の国旗が、それぞれの代表者の背後に掲げられている。
すべての座席に座るのは、地球における強国の代表たち。
大統領。
首相。
軍司令官。
チャンピオン協会理事。
何百万もの人々の命運を握る権力者たちが、一つ屋根の下に集っていた。
中央には、地球のホログラム映像が浮かび上がっている。
青く。
穏やかで。
壊れやすい。
誰もすぐには言葉を発しない。
プロジェクターの静かな駆動音だけが部屋に響いていた。
やがて――
皇帝が静寂を破る。
「よくぞ集まってくれた」
落ち着いた声が、一切の無駄なく会場に届く。
「このような緊張感漂う場ではなく、より喜ばしい状況で迎えられればよかったのだが」
いくつかの国の代表が深く頷いた。
無表情を貫く者もいる。
ホログラムの画面が切り替わった。
映し出されたのは――
巨大なクレーター。
犠牲者リスト。
先日のトーナメントの惨状。
皇帝は手を後ろで組んだ。
「六十名のチャンピオンが参加した」
「帰還できたのは、わずか十名だ」
皇帝は静かに語る。
「地球はもはや、孤立した存在ではない」
「隣界の者どもが、我々を注視し始めている」
ドイツの代表が身を乗り出した。
「注視など、昔からされていた」
「単に、我々を重要な存在とみなしていなかっただけだ」
テーブルのあちこちで、不安交じりの視線が交わされる。
インドの代表が続けて口を開く。
「我が国の軍事力は、この十年間で飛躍的に向上した」
「だが、歴史ある異界に比べれば……」
言葉を区切る。
「……我々はまだ、赤子に過ぎん」
誰も反論しなかった。
それが真実であることを、全員が知っていたからだ。
皇帝はホログラムを見つめる。
「九年前――」
「《チャンピオン時代》が人類を変えた」
「国家間はミサイルの数で力を誇示することをやめた」
「チャンピオンの質と数で、力を測るようになったのだ」
ホログラムが再び変化する。
人口。
軍事力。
チャンピオンの配置状況。
各国が誇る影響力が表示される。
アメリカ代表がうっすらと笑みを浮かべた。
「バランスは驚くほど保たれてきた」
「一国が他国を圧倒するほどの力を持つことはなかった」
日本の外務大臣が冷静に返す。
「だからこそ、地球は平和を維持できたのです」
短い沈黙。
フランスの代表が腕を組んだ。
「平和……」
「……それとも、恐怖か?」
その問いが部屋に残響する。
彼は続けた。
「どの国も知っているはずだ。他国を攻撃すれば、チャンピオン同士の全面戦争を引き起こすとな」
「戦争の代償が大きくなりすぎたのだ」
「だからこそ、侵略の代わりに外交が取って代わった」
ブラジル代表が同意を示す。
「世界規模の紛争を誰も許容できなかったからこそ、経済は回復した」
「チャンピオン時代が、我々を団結させたのだ」
ロシアの軍司令官が、ついに重い口を開いた。
「同時に、我々を分断もさせた」
部屋の空気が、一段と冷え込む。
彼はテーブルを指で叩いた。
「すべての国が、より強力なチャンピオンを育成しようと血眼になっている」
「誰も公には認めんがな」
「だが、全員が裏でやっていることだ」
誰もその追及を否定しなかった。
事実だったからだ。
皇帝は彼らを静かに観察している。
「その競争が、人類を前進させてきたのも事実だ」
皇帝の表情が厳しさを増す。
「だが、我々の最大の脅威は――」
「――もはや、お互いではない」
皇帝の指が、地球の外側を指し示した。
「我々の《領域》の外側に存在する者たちだ」
誰も言葉を挟まない。
全員がすでに理解していたことだからだ。
あのトーナメントが証明したのはただ一つ。
地球はかつてないほど強くなった。
だが、広大な多次元宇宙に比べれば――
あまりにも幼く。
あまりにも脆弱だった。
皇帝はゆっくりと、集まったリーダーたちへと振り返る。
「そしてこれこそが……」
「……本日の会談の、本当の目的だ」
空気が変わる。
何人かの代表が背すじを伸ばした。
手元のファイルを開く者もいる。
すべての書類の頂点に、一枚の写真。
一人の少年。
白い髪。
静かな瞳。
――アシュラ。
もはや、誰の顔にも笑みはなかった。
政治という名の『戦い』が――
ついに始まったのだ。
◇
巨大な会議場は静まり返っていた。
二十一の国旗が、それぞれの代表者の後ろに威厳をもって立っている。
外では――
数千人の報道陣が特別区の壁の外で待ち構えている。
内部では――
地球界の未来が、一つの円卓を囲んでいた。
皇帝は立ったままである。
すぐには誰も口を開かない。
やがて――
アメリカの代表がゆっくりと身を乗り出した。
テーブルの上に指を置く。
「……『規格外』について議論する前に……」
「……我々は『バランス』について話し合う必要があります」
複数の代表が頷いた。
中国の代表が手をこまねく。
「現在のバランスは、すでに日本に有利に傾いている」
彼は日本の首相へと視線を向けた。
「貴国には、我が世界最強のチャンピオンがいる」
「皇帝だ」
間を置く。
「そして今……」
「……最初の『規格外』までもが生まれた」
沈黙。
ロシアの司令官が吐き捨てるように言った。
「軍事的な優越は、政治的な優越を生む」
「ここにいるどの国も、それを無視することはできない」
フランス代表が頷く。
「歴史がそれを証明しています」
「一国が強大になりすぎれば……」
「……最終的に、他国はその国に依存せざるを得なくなる」
ドイツ代表が静かに眼鏡を直した。
「あるいは、恐怖することになる」
重苦しい空気が部屋を支配する。
日本の外務大臣は平静を保っていた。
「我が国が他国を脅かしたことなど一度もありません」
ブラジル代表が皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ええ」
「一度もありませんね」
「ですが問題は『今日の日本』ではない」
「『明日の日本』です」
彼は皇帝を真っ直ぐに見つめた。
「もし『規格外』が本当に無制限の成長性を秘めているのなら……」
「……いずれ……」
「……地球上のいかなる軍事力も彼に対抗できなくなる。――たとえ皇帝岡崎、貴方であってもだ」
誰も遮らない。
それが――
大袈裟ではないと分かっていたからだ。
◇
回転する地球のホログラムが、テーブルの上で静かに光を放ち続ける。
皇帝は沈黙を守っていた。
彼らの言い分を、そのまま言わせている。
インドの代表が次に口を開いた。
「地球が平和を享受できたのは、絶対的な力を持つ国が存在しなかったからです。――皇帝という絶対的抑止力は存在しても、だ」
「我々のチャンピオンはお互いを牽制し合っていた」
「経済も、影響力も、均衡を保っていたのです」
彼は日本の方を見やった。
「そのバランスが、もはや崩れようとしている」
イギリスの代表が頷く。
「世界最高の科学者が……」
「……たった一つの国に生まれたと想像してみてください」
「最高のエンジニアも」
「最高の軍司令官も」
「最高の兵器もだ」
彼は手を組んだ。
「最終的に……」
「世界はその国を中心に回り始めることになる」
日本の首相が、ようやく重い口を開いた。
「……で、具体的に何を提案されるおつもりか?」
アメリカ代表は躊躇しなかった。
「『責任の共有』です」
日本の首相が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「つまり――」
アメリカ代表の声は至って冷静だった。
「『規格外』は、一国の所有物であってはならないということです」
一瞬にして、部屋の緊張感が跳ね上がった。
中国が誰よりも早く乗っかる。
「同意する」
ロシアも頷いた。
「我が国もだ」
フランスもそれに続いた。
「フランスも同意見です」
ドイツがため息をついた。
「この議論は、避けて通れんものだったか」
日本の首相がゆっくりと立ち上がった。
表情は一切変えない。
「なるほど……」
「ではこの会談は、地球の未来のためではなく……」
「……アシュラを奪い取るためのものというわけか」
沈黙。
誰もそれを否定しない。
ブラジルがようやくその沈黙を破った。
「奪おうとしているわけではありません」
「『独占』を防ごうとしているのです」
彼はホログラムの地球を指さした。
「もし明日、別の異界が宣戦布告してきたら……」
「ここにいるすべての国が戦うことになります」
「日本だけではない」
「ならばなぜ、地球最大の『兵器』が、一国の政府にのみ従わなければならないのですか?」
複数の代表が同調するように囁き合う。
オーストラリア代表が初めて口を開いた。
「我々の懸念は、軍事面だけではありません」
「『安定』の問題です」
「もしアシュラが日本だけに留まり続ければ……」
「投資も……」
「研究も……」
「チャンピオン・ギルドも……」
「世界中の優秀な人材が、自然と日本へ集中することになる」
「我が国の最も優秀な頭脳も」
「最も強い戦士たちも」
「産業すらもだ」
彼は背もたれに寄りかかった。
「日本の経済は、十年以内に地球を支配することになるでしょう」
韓国代表が頷く。
「我が国のチャンピオン育成プログラムなど、無価値同然になってしまう」
カナダ代表も静かに付け加えた。
「我が国の大学も」
「研究所も」
「テクノロジーもだ」
「すべてが彼を追って日本へ流出する」
インド代表が続ける。
「観光業すらそうだ」
「世界中の人々が、『規格外』を一目見ようと日本へ押し寄せるでしょう」
「金は影響力のある場所に集まる」
「影響力は、力のある場所に集まるのだ」
ブラジル代表が小さく微笑んだ。
「そしてビジネスは、その両方に追従する」
皇帝は反論することなく、静かに耳を傾けていた。
なぜなら、彼らの主張のすべてが――
道理に通っていたからだ。
すると、ドイツ代表が再び口を開いた。
「私の懸念は、少し異なる」
全員の視線が彼に集まる。
「もし地球の『規格外』が政治的に日本に所属していたとして……」
「もし明日、別の領域が攻め込んできた際、我がドイツが最初の標的になったらどうなる?」
「あるいはブラジルが? エジプトが?」
「日本は常に、自国民よりも我々を優先して助けてくれると保証できるのか?」
誰も答えない。
なぜなら……
当然の疑問だったからだ。
部屋は再び静寂に包まれた。
ついに――
皇帝が口を開いた。
「理解した」
その穏やかな声が、瞬時に会議場を静まり返らせる。
「諸君らの懸念は、痛いほど理解できる」
皇帝はゆっくりとホログラムの地球へ歩み寄った。
「軍事的な不均衡を恐れているのだな」
ロシア代表を見る。
「経済的な不均衡を恐れている」
ブラジル代表へ視線を移す。
「政治的な不均衡を恐れている」
そしてドイツ代表へ。
「そして依存を恐れている」
皇帝は深く頷いた。
「そして諸君らの懸念は……」
「……すべて正しい」
日本側の人間すら、沈黙を守っていた。
なぜなら……
彼らもそれを否定できなかったからだ。
そして――
皇帝は薄く微笑んだ。
「だが……」
「諸君らは一つ、重大な勘違いをしている」
すべての代表が皇帝を注視した。
皇帝の視線が、宮殿の窓の外へと向けられる。
その先――
アシュラは帝国ホテルのどこかにいるはずだ。
おそらく朝食を腹いっぱい食べ終わり……
二十一もの国家が自分の未来を巡って血眼で議論していることなど、露ほども知らずに。
皇帝は静かに言った。
「諸君らは終始、アシュラを『所有物』であるかのように語っている」
室内の空気 potato が凍りついた。
「彼は所有物ではない」
「日本の兵器でもなければ」
「地球の兵器でもない」
「一人の人間だ」
絶対の静寂が、会議場を支配する。
「ゆえに――」
「アシュラがどこに属するべきかを決める者がいるとするならば……」
「……それは私ではない」
「日本でもない」
「いかなる政府でもない」
皇帝は、部屋にいるすべてのリーダーたちを鋭い眼光で見回した。
「決めるのは――アシュラ自身だ」
会議場が一瞬にして怒号に包まれた。
「な、なんだと!?」
「そんな馬鹿な話があるか!」
「彼はまだ十七歳のガキだぞ!」
「政治の『せ』の字も知らん若造だ!」
「そのような子供に、これほど重大な決定を委ねられるわけがないだろう!」
怒号を切り裂くように、皇帝の威厳ある声が響き渡る。
「そうかもしれん」
「だが、世界が彼に『未来』を背負うことを望むのであれば――」
「――世界はまず、彼の『自由』を尊重しなければならん」
読者の皆様へ
まず最初に、皆様一人ひとりに心からの感謝を申し上げます。第1章から読んでくださっている方、戦闘シーンにコメントをくださった方、パワーストーンで投票してくださった方、そして静かに次の展開を待っていてくださった方、皆様の応援は私にとってかけがえのないものです。
ついに待望の時がやってきました!『NO PAIN』第2巻が正式に公開されました!
これを記念して、3章分をまとめて公開しましたので、すぐにアクションの世界に飛び込んでいただけます。
この第2巻は、より壮大で、よりダークで、より衝撃的です。限界に挑戦し、より生々しい戦闘に深く踏み込み、第1巻では見られなかったほどの大きな賭けに挑みます。容赦ない闘志、迫力満点の戦闘シーン、そしてあらゆる勝利を苦労して勝ち取らなければならない主人公がお好きなら、きっとこのスリリングな体験をお楽しみいただけるでしょう。
今月、NO PAINの成長を応援する方法:
パワーストーンとレビューを投稿してください。皆様からの投票がランキング上位、そしてアルゴリズムへの反映につながります!
コメント欄に感想をお寄せください。すべてのコメントを拝見しています。戦闘シーンへの皆様の反応を見ることが、私の創作意欲の源です。
この物語を信じてくださり、辛抱強く待ってくださり、この旅路を共に歩んでくださり、本当にありがとうございます。さあ、準備を整えて、リリースラッシュをお楽しみください。そして、Volume 2を忘れられない作品にしましょう!
心からの感謝を込めて
— 作者(Excel)
新しい月を迎えられますように




