勝利の先にあるゴール
目も眩むような閃光が収まると、アシュラはゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、果てしなく広がる広大なスタジアムだった。光の残滓が消え去ったその場所は、サッカースタジアムのピッチの上。漆黒の雨雲が渦巻く空の下、巨大なスタジアム照明が、どこまでも続く芝生を白々と照らし出している。
ゴロゴロと、重苦しい雷鳴がスタジアム全体に響き渡った。
アシュラは茫然と瞬きをする。
「……サッカー場か?」
「ようこそ、僕の一番お気に入りのゲームへ」
頭上から突き刺さるような嘲笑。見上げれば、アリーナのはるか上空に浮遊するプラットフォームの上で、シロが片脚をだらしなく投げ出して座っていた。その傍らには、怪しく発光する一球のサッカーボールが浮かんでいる。
シロが下劣な笑みを浮かべた。
「ゴールを決めてみなよ」
静寂。アシュラはただ男を睨み返した。
「……それだけか?」
「誰もが最初はそう言うんだよね」
シロの唇からその言葉が零れ落ちた刹那、ピッチの地面が一斉に輝きを放った。
青いラインが幾何学模様となって芝生の下を這い回る。
――バチバチバチッ!!
突如、フィールドから狂暴な電撃が噴出した。
アシュラは反射的に後方へと跳んだ。彼がさっきまで立っていた場所が、激しい爆音とともに爆散する。
アシュラの両目が危険なほどに細められた。
これは芝生などではない。その下にあるのは、無数のパネルだ。数千、数万ものパネルが、すべて高電圧の電気を帯びて脈打っている。
シロが身を乗り出した。
「一枚のパネルにつき、二万メガワット。踏む場所を一つでも間違えれば……内側からドロドロに焼き焦げるよ。せいぜい頑張りな」
アシュラが腰を落とし、そっと地面に触れた。
直後――ジジジ、ザザザァァァッッ!!
容赦のない激流が腕を伝って全身を駆け巡る。アシュラの身体が激しく痙攣し、皮膚から白煙が立ち上った。その凄まじい衝撃により、彼は後方へ二十メートル近くも吹き飛ばされる。
容赦なくターフへと叩きつけられ、全身のあらゆる筋肉に焼かれるような激痛が走った。
シロが頭上から大笑いする。
「おっと、まだ生きてる?」
アシュラは震える腕で、泥を掴みながらゆっくりと這い上がった。その腕はガタガタと激しく痙攣している。
「……なるほど。このフィールド自体が『生きてる』わけか」
「その通り!」
アシュラの頭上に、不気味な赤いホログラムが出現した。
『プレイヤーライフカウント:4』
シロがそれを指差す。
「致命傷を負うたびに、ライフが一つずつ消滅する。ゼロになれば……あとは言わなくてもわかるよね?」
一本のサッカーボールが、まるでアシュラを誘うかのように、その足元へと転がってきた。
アシュラは深く息を吐き出し、一歩、前へ踏み出した。
――バリバリバリッッ!!
フィールドが牙を剥く。全身を貫く電撃。スタジアムにアシュラの絶叫が木霊した。
一歩進んでは、感電。
さらにもう一歩進んでは、また感電。
激痛。麻痺。肉の焦げる臭いが大気に充満していく。
上空から見下ろすシロは、最高に愉快そうにそれを眺めていた。
「まさか、そのまま根性で歩いて突っ切るつもりじゃないだろうね?」
アシュラは応えない。
ステップ、感電。ステップ、感電。
七回目の直撃で膝が激しく折れ、十回目には心臓の鼓動が不規則に乱れ始めた。十二回目を迎える頃には、彼の皮膚そのものが青白く発光し始めている。
そして、十三歩目――。
パリィィン!
ライフの結晶が一つ、虚しく砕け散った。
『プレイヤーライフカウント:3』
アシュラはその場に崩れ落ちた。世界が激しく反転する。肺が酸素を拒絶し、呼吸がズタズタに乱れていく。
シロの笑い声が一段と高くなった。
「アハハ! もう半分死んでるじゃないか!」
だが、アシュラは死んでいなかった。
泥と汗にまみれた顔を上げ、じっと、その双眸で地面を凝視していた。
観察しているのだ。耳を澄まし、思考を研ぎ澄まし、この地獄のフィールドを、電気の、リズムを、その隠されたパターンを『視て』いる。
アシュラの視線が、鋭く一焦点を結んだ。
微かな笑みが、その口元に浮かぶ。
(……見えた)
あらゆる放電の直前、そこには極小の、目に見えないほどの「振動(予兆)」がある。発動する半秒前、大気が微かに脈打つのだ。
次のパネルが輝きを増した瞬間、アシュラの身体が駆動した。
ドゴォン!!
彼の背後で青い雷霆が炸裂する。――不発。
別のパネルが起動。軸足を回し、反転。――回避。
さらに次。スライディング。――不発。
次。跳躍。――回避。
シロの顔から、徐々に笑みが消え失せていった。
アシュラはもう電撃に耐えているのではない。まるでディフェンダーの動きを読むストライカーのように、獲物の足跡を追うハンターのように、フィールドの挙動を完全に「先読み」していた。
領域の外側、現実世界の観客席がハチの巣をつついたような大騒ぎに包まれる。
実況の声が、興奮のあまり完全に裏返っていた。
『信じられない! 予測している! 挑戦者アシュラ、フィールドの落雷をすべて完全に回避しています!!』
『いや、違う!』別の解説者が絶叫する。『あれは予測じゃない……フィールドの呼吸に、完全に同調しているんだ!!』
激しく飛び散る火花の中を、アシュラは踊るように駆け抜けた。
捻り、反転し、ダッシュし、滑り込む。無駄を極限まで削ぎ落としたその動きは、もはや一つの演舞だった。死のトラップだったはずのピッチが、今や彼のための「戦術マップ」へと書き換えられていく。
シロが忌々しげに目を細めた。「……チッ、調子に乗りやがって」
スタジアム全体が大きく揺れた。
数千、数万のパネルが同時多発的に起動し、逃げ場のない「青い地獄」がフィールド全域を埋め尽くす。安全なルートなどどこにもない。ピッチそのものが雷の海へと変貌した。
アシュラが足を止める。初めて、その動きに躊躇が生まれた。
だが次の瞬間、彼は狂おしいほどの笑みを浮かべた。
「……そう来なくっちゃな」
ズドォォォンッ!!
彼は前方に爆発的なダッシュを掛けた。背後から雷の追撃が迫るが、アシュラはそれを紙一重でかわしていく。もはやただの残像。フィールドの雷撃すらも、彼のステップを加速させるためのメトロノームに過ぎない。
そして、誰もが予想し得なかった事態が起きた。
アシュラが、あえて激しく放電しているアクティブパネルの真上に、自らド真ん中から踏み込んだのだ。
シロの目が見開かれる。「なっ、何だと!?」
数万ボルトの電流がアシュラの肉体に牙を剥く。だが、彼はそれに「抵抗」しなかった。その破壊的なエネルギーの流れを、自らの脚の筋肉へと強引に「誘導・転換」したのだ。
過給された電流が、彼の脚力を爆発的に跳ね上げる。
ドパァンッッ!!
まるでレールガン。放たれた弾丸。雷そのものと化したアシュラが、一瞬でフィールドを駆け抜ける。
スタジアムが完全に狂乱に陥った。
『電気を取り込んだァァ!? フィールドのトラップを、自分の推進力に変えてやがります!!』
アシュラは笑っていた。この領域に引きずり込まれて以来、初めて見せる、心底楽しそうな笑み。
肉体は悲鳴を上げ、筋肉は焼き切れそうになっている。だが、今この瞬間――世界のルール(電気)は、彼の手の中にあった。
目の前に迫るゴールポスト。あと数メートル。
シロの表情が、一気に夜の闇のように引き攣った。「させるかよ……ッ!!」
彼の周囲で膨大なデータが爆発し、何百人ものデジタルディフェンダーが具現化した。全身に電撃を纏った、不気味なピクセル状のフットボールプレイヤーたち。
壁のような包囲網が、一斉にアシュラへと襲いかかる。
しかし、アシュラの加速は止まらない。
一人目を、鋭いフェイントで置き去りにする。
二人目を、強烈なショルダーチャージで粉砕。
三人目の股下を、スライディングで滑り抜ける。
四人目の頭上を、鮮やかな跳躍で飛び越え、五人目を容赦ない前蹴りで蹴り飛ばす。
その間、足元のボールは完全に彼の支配下にあった。
ゴールは、もう目の前だ。
「ここで……潰れろォォォッッ!!」
シロが絶叫した。フィールドの全パネルが完全に臨界を突破し、スタジアムそのものを消し去らんばかりの、巨大な青い雷の嵐がすべてを飲み込んでいく。
アシュラは、ただその嵐を見据え、ゴールを見据え、勝利の瞬間を捉えていた。
そして――跳んだ。
バチバチバチバチッッ!!
凄まじい雷光が彼の全身を焼き、視界が急速にブラックアウトしていく。それでも、彼の身体は最高の一弧を描いて空へと昇っていく。より高く、より鋭く。
世界が、スローモーションに反転した。
宙に浮遊する球体。轟く雷鳴。
アシュラは空中でその身体を反転させた。
完璧な、無欠の――バイシクル・キック。
ドゴォォォォォォォォンッッッ!!!
放たれたボールは、もはや球体ではなかった。それは空間のすべてを貫く、巨大な「雷霆の槍」と化して飛翔した。パネルを破砕し、障壁を消滅させ、スタジアムそのものを真っ二つに引き裂きながら、ゴールネットごと全てを爆破する。
静寂。完全なる、音のない世界。
直後――バリバリバリ、ドシャァァァンッッ!!
領域そのものが、ガラス細工のように音を立てて崩壊し始めた。
光が完全に霧散した時、アシュラはコンクリートの床の上に大の字になって倒れていた。全身から立ち上る湯気。すでに存在しないはずの空から、幻のような冷たい雨が静かに降り注いでいる。
その顔には、泥にまみれた、しかし満足そうな笑みが浮かんでいた。
「……決まったな」
「遅ぇんだよ、お前は」
聞き覚えのある声に、アシュラはハッとして首を動かした。
数メートル離れた場所に、同じようにボロボロになったダンテが転がっていた。全身を焦げ付かせ、血まみれになりながらも、その唇は楽しそうに吊り上がっている。
アシュラの目が見開かれた。二人はしばらく無言で見つめ合い、やがて、どちらからともなく可笑しそうに笑い声を漏らした。安堵と、極限の疲労が混ざり合った、静かな笑い。
「……生きてたか」
「当たり前だろ」
シロが作り出した悪夢の残骸の中で、二人の親友は並んで横たわっていた。「皇帝のゲーム」が始まって以来、彼らはようやく、本当の意味で合流を果たしたのだ。
戦場のはるか外側、VIPルームの巨大なモニターを見上げていたガイウスが、仮面の裏で小さく口元を緩めた。
「アシュラはゲームを力でねじ伏せたのではない。……ゲームのシステムそのものを、完全に『理解』したのだな」
そこで、画面は完全に砂嵐へと切り替わった。
――ゴホッ、ゲホッ!
立ち込めるコンクリートの粉塵を裂いて、シロが這い出てきた。その挙動はひどく狼狽しており、呼吸は完全に狂っている。彼の傍らには、自慢の特性ゲームコンソールが、見る影もなく焼け焦げ、熔解したただの「鉄クズ」となって転がっていた。彼の絶対的な権力の象徴は、もうどこにもない。
シロは歯が砕け散らんばかりに噛み締めた。その瞳に宿るのは、屈辱と、狂気的なまでの殺意。
「この、虫ケラどもが……ッ!!」声の電子ノイズは消え去り、生々しい、悍ましいまでの怒号が響き渡る。「僕の世界を、僕の最高傑作を、よくもブチ壊してくれたなァァァッッ!!」
彼が拳を地面に叩きつけると、局所的な衝撃波が床を走り、無数の亀裂をさらに広げた。
「領域が壊れたところで、僕自身の手でお前たちを消去してやる!!」
数十ヤード先。アシュラは必死に身体を起こそうとしていたが、筋肉が完全に機能を拒絶し、腕がガタガタと激しく震えて地面を捉えられない。
「ダンテ……おい、ダンテ……立て……」
応答はない。
薄れゆく意識の中で横を向いたアシュラは、息が止まるのを感じた。ダンテはピッチの上に不自然な形で横たわったまま、微動だにしない。唇からは血が静かに流れ落ち、そのプラーナは完全に「消失」していた。完全に気絶している。
一閃。
アシュラが彼のもとへ這っていくよりも早く、シロがその目の前に瞬間移動した。その右拳には、不安定に激しく明滅する黄金のピクセルエネルギーが、破壊の波動を伴って凝縮されていく。
「本当の『データ抹消』を教えてあげるよ」シロの顔が、精神異常者のそれへと歪んだ。「――『画素崩壊』!!」
振り下ろされる拳。それは局所的な「デジタル核爆弾」だった。凝縮された凄まじい運動エネルギーが、アシュラの胸部にクリーンヒットする。
ドゴォォォォンッッッ!!!
凄まじい衝撃波がアシュラの身体を人間レールガンと化し、地下ホールの壁を次々と貫通させ、巨大なコンクリートの支柱を幾本も粉砕しながら、遥か彼方の壁へと叩きつけた。
宙を舞うアシュラの口から鮮血が噴き出し、灰色の粉塵を赤く染める。彼が最終的に激突した床には、深さ十フィートに及ぶ巨大なクレーターが刻まれていた。
地下施設全体が、そのあまりの衝撃に悲鳴を上げるように激しく震動する。
不気味なほどの、静寂。
アシュラはクレーターの底で、完全に弛緩していた。その瞳からは光が失われ、額から流れる血が視界を赤く染めていく。身体が全く動かない。意識が、深い闇の底へと急速に沈んでいく。
コツ、コツ、と。
静寂を切り裂いて、冷酷な足音が近づいてきた。
「僕のゲームで、この僕に逆らえるとでも思ったのかい……?」シロがクレーターの縁に立ち、冷たく見下ろした。
シロはアシュラの首を乱暴に掴み上げると、まるで軽い荷物でも扱うかのように、その身体を宙へと吊り上げた。アシュラの足が、虚しく宙で揺れる。
シロは左手を掲げ、その指先に、極限まで圧縮された高密度のエネルギーの刺を形成した。狙いは、完全に無防備となったアシュラの「心臓」。
だが、その指先が爆発するよりも早く――。
スタジアム全体の空間そのものを震撼させる、凄まじい「声」が響き渡った。それは人間の喉から発せられたものではない。世界の始まりから響いてきたかのような、重々しく、あまりにも圧倒的な「神の波動」。
『――その汚い手を離せ、羽虫が』
直後、周囲の気圧が文字通り激変した。一瞬にして空気が希薄になり、シロの耳が強烈な風圧で弾ける。
どこからともなく発生した狂暴な暴風が、地下ホール全体を席巻した。瓦礫や巨岩を一瞬にして細かい砂へとすり潰し、強化スチール製の支柱を濡れた紙のようにへし折っていく。地面が大きく割れ、そこから漆黒と深藍のプラーナが混ざり合った、巨大な「闇の竜巻」がアシュラの身体を中心に噴い上がった。
「な、何だこのエネルギーは……っ!?」
シロの悲鳴は、暴風の轟音にかき消された。彼はアシュラから手を離さざるを得ず、その圧倒的な質量に押されて何歩も後退する。
地下アリーナの照明が激しく明滅し、次々と火花を散らして爆発していった。中継用のカメラのレンズが、あまりの霊的圧力に耐えかねてパキパキと音を立てて砕け散る。
外に駐車されていた中継車の中では、オペレーターたちが完全にパニックを起こしていた。
「映像が消えた!? 完全にノイズだけだ! 繰り返す、第一階層の信号が完全にロスト! 電磁フィードバックで機材が溶けていくぞ!?」
荒れ狂う闇の嵐の中。そこには、ただ一つ、不気味なほど静かに宙に浮遊する「シルエット」があった。
中継カメラが完全に焼き切れる直前、最後に捉えた映像――それは、四本の腕で必死に顔を覆いながら、その圧倒的な光の激流を前にガタガタと震え上がるシロの姿だった。
ドゴォォォン!!!
地下構造全体を揺るがす地鳴りが収まり、徐々に塵が晴れていく。シロは激しく咳き込みながら、恐怖を隠すように叫んだ。
「この化け物が! なんでまだ生きてるんだァァッ!!」
シロは残されたすべての黄金エネルギーを絞り出し、空間を切り裂くような猛烈な突撃を敢行した。「――『画素崩壊・極』!!」
対象を分子レベルで完全に消滅させるために放たれた、渾身の一撃。
だが――。
「愚かな」
冷徹な囁き。
シロの拳は、アシュラの顔面の手前でピタリと停止していた。
その手首が――ただの一方の手で、あまりにも容易く掴まれていた。
シロが恐る恐る顔を上げる。そこにいたのは確かにアシュラの肉体だった。だが、その「眼」が完全に違っていた。それは人間のそれではなかった。感情という概念が一切存在しない、底なしの虚無。そしてその唇から漏れ出た声も、アシュラのそれより遥かに深く、傲慢な神の威厳に満ちていた。
「お、お前は……一体何者だ……っ!?」
少年の唇が、三日月のような歪な弧を描く。
「すぐに知ることになるさ」
アシュラの口を借りて、バクガ(莫迦)が嘲笑した。
――ミシミシ、バキキッ!
凄まじい握力。骨が粉々に砕け散る音が響き渡り、シロが悲鳴を上げる。バクガはただ軽く手首を払うだけで、Aランクのトップチャンピオンであるはずの男を、まるでゴミ屑のように壁へと投げ飛ばした。
ドゴォン!!
壁に激突し、黒い血を吐き出しながら立ち上がろうとしたシロは、自分の身体の異変に気づき、完全に凍りついた。
両手が――ない。ただ一瞬掴まれただけで、その両腕の先が、完全に分子レベルで崩壊して消滅していたのだ。
「僕の手が……!? 手がァァァッッ!!」
本当の恐怖が、シロの神経システムを完全に支配した。彼はなりふり構わず、背中を向けて全力で走り出した。痛みに泣き叫び、野生のネズミのように逃げ惑う。ふと背後を振り返った彼は、その場で完全に思考を停止させた。
アシュラの姿が、根本から変貌を遂げていた。
漆黒のエネルギーが液状の影となって全身を覆い、その白髪が一瞬にして、星のない夜空のような「純黒」へと染まっていく。肉体のビルドはより強固に、より重厚に変化し、神聖でありながらも同時に禍々しい、圧倒的なオーラを放っている。
シロはガタガタと震えながら、掠れた声で乞うように呟いた。
「……誰だ。お前は、誰なんだ……」
その存在がゆっくりと顔を上げた。その双眸は、虚無の中で回転する「二つの黒い星」へと変貌していた。
「――創造の、最悪の悪夢だ」
シュッ。
音もなく空間を転移したバクガが、空中で鮮やかな一閃を描いた。
ドガァァンッ!! 凄まじい回し蹴りがシロの胸部に炸裂し、肋骨を何本も粉砕しながら、彼を再び大空洞の奥へと吹き飛ばす。
シロは血と涙にまみれながら、必死に闇に向かって叫んだ。
「誰か……誰か助けてくれ!! 誰でもいい!!」
だが、誰も来ない。地下第一階層は、完全に外界から遮断された死の檻だった。
ただ、バクガのゆっくりとした、規則正しい足音だけが静かに近づいてくる。
「哀れだな……」バクガは己の手を見つめ、心底不快そうに吐き捨てた。「アシュラ、お前はこんな弱卒相手に遅れを取ったのか。同じ器を共有していることすら、虫唾が走る」
バクガはシロの髪を乱暴に掴み上げると、そのまま上空へと軽く放り投げた。その黒い星の瞳は、一度も瞬きをしない。
静寂。
バクガは静かに右手を掲げ、その手のひらを天井へと向けた。
「――『明けの明星』」
彼の手のひらの上に、極限まで圧縮された漆黒の「球体」が出現した。それは完全に歪みのない完璧な球であり、内部で小さな宇宙が渦巻いているかのように回転している。その球体から放たれる凄まじい宇宙重力は、周囲の光を歪ませ、空間そのものを物理的に捻じ曲げていく。
バクガが立つ足元の地面が、その重圧に耐えかねて巨大な地割れとなって崩壊していく。
それだけではない。はるか頭上に位置する巨大な「皇帝のビル」そのものが、その不条理な引力によって、鉄骨の基礎からギチギチと音を立てて激しく揺れ始めていた。
日本全土のプラーナ観測所のモニターが一斉に赤くフラッシュし、測定不能の警告音が鳴り響く。安全基準値を遥かに超えたエネルギーの暴走。
「消えろ」
バクガが、上空のシロに向けて指先を向けた。
世界から、すべての音が消えた。
直後、すべてを無に還す「絶対的な闇の柱」が垂直に噴い上がった。シロの肉体はコンマ一秒の猶予もなく、原子レベルで完全に消滅。その光条は止まることなく、地下施設のあらゆる防御障壁を紙のように貫通し、地上の「皇帝のビル」のど真ん中を綺麗に消し飛ばしながら、天空へと突き抜けた。
闇のエネルギーは雲を完全に蒸発させ、夜空に巨大な「無の穴」を開ける。
その大爆発は、周囲数マイルのすべての五感を一時的に麻痺させるほどの、不気味なほどの「反転した輝き」を放っていた。
【緊急臨時放送】
『東京都内において、大規模な地殻変動および臨海プラーナ異常が感知されました。全住民はただちに最寄りの頑丈な建物、または地下施設へと避難してください。これは訓練ではありません――』
地上では、その凄まじい衝撃波によって上空の雲が巨大なリング状に切り裂かれ、複数の区にまたがる巨大な渦が形成されていた。街中には突風が吹き荒れ、街路樹をなぎ倒し、高層ビルの窓ガラスを次々と粉砕していく。
新宿、渋谷、千代田の各エリアに、不気味な気象サイレンが鳴り響いた。
「空を見ろ!」一人の歩行者が絶叫する。はるか彼方の空で、不気味な深藍色の雷が激しく鳴り響いていた。
気象庁のモニターは完全にパニック状態に陥っていた。「都内を中心にマグニチュード5.8の地震が発生! 隣接する千葉、神奈川でも激しい揺れを観測中! 一体何が起きたんだ!? 構造的な予兆は一切なかったぞ!?」
日本全土が、一瞬にして静まり返った。何が起きたのか、誰一人として理解できていなかった。ただ一つ確かなのは、人間の理解を遥かに超越した「絶対的な何か」が、今この瞬間に世界に産み落とされたということだけ。
人間の肉体を纏った、神の顕現。
爆心地の真ん中、トーナメント地区の中心には、地下深くまで綺麗にくり抜かれた、完璧な円形のクレーターがぽっかりと口を開けていた。
地下の廃墟の中。バクガは静かに、横たわるダンテのもとへと歩み寄った。若者の呼吸は風前の灯火であり、心音は途切れ途切れだった。
バクガはその場に膝を突くと、黒い紋様が浮かび上がった手を、ダンテの破壊された胸の上にそっと置いた。
「……アシュラ、今回の一件は、お前に大きな貸しができたな」
皮肉めいた囁き。
その手から淡い、慈愛に満ちた光が溢れ出し、ダンテの身体を包み込んだ。体内の損傷が急速に修復され、引き裂かれた肉が塞がり、その呼吸がみるみるうちに安定したリズムを取り戻していく。
治療が完了すると同時に、バクガの纏っていた強大な力は潮が引くように霧散していった。純黒の髪は、元の雪のような白髪へと戻り、二つの黒い星の瞳は、静かに人間の彩華へと反転する。
アシュラの膝から、完全に力が抜けた。
極限の疲労のなか、彼の意識は完全に途切れ、彼はダンテのすぐ隣の床へと崩れ落ちるように倒れ込んだ。
数分後。アリーナの自動バックアップシステムがようやく機能し、壊れかけたメインカメラがパチパチと音を立てて再起動した。
ホログラフィックのトーナメントスクリーンが映し出したのは、文字通りの「世界の終わり」のような光景だった。第一階層のアリーナは完全に消失し、そこには地上へと直接繋がる、巨大な煙を上げるクレーターだけが残されている。その中心で、二人の挑戦者が並んで、静かに意識を失っていた。
不気味に点滅していたデジタルスコアボードが、最終パラメータの計算を終え、眩い光を放つ。
『――試合終了――』
【勝者:アシュラ(1ポイント)】
【勝者:ダンテ(1ポイント)】
スタジアムの崩壊を免れたエリアにいた観客たちが、一瞬の静寂の後、割れんばかりの悲鳴と、それを上回る怒濤の大歓声を爆発させた。
遠く離れたフクルの街。テレビに齧り付いていたミノリが、勢いよく立ち上がった。その目から大粒の涙を溢れさせながら、二人がまだ生きているのを見て、歓喜の声を上げる。
「勝った……! 二人とも、本当に勝ったんだ……っ!!」
また、武蔵野地区の支部オフィスでは、ハヤト隊長が端末越しにその大混乱の生中継を見ながら、低く笑い声を漏らしていた。彼はゆっくりとコーヒーを口に運ぶと、誇らしげな笑みを浮かべた。
「言っただろう。……あの二人は、正真正銘の『怪物』だってな」
メイン会場のVIPラウンジ。ガジールはガラスの欄干に寄りかかり、隣のガイウスに向けて、その鋭い歯を見せてニカッと笑った。
「先月より、一段と『レベルアップ』してやがるな?」ガジールは腕を組み、その獰猛な瞳を輝かせた。「どうやら、本当のショーはここからが本番みたいだぜ」




