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痛みなし   作者: EXTRO
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フレームレートの限界を超える

 巨大なホログラフィックディスプレイに表示されたカウントダウンが、薄暗くなっていく光の中で激しく明滅していた。

 50…… 49…… 48……。

 アシュラとダンテは、鋭く無言の頷きを交わした。言葉など不要。純粋な戦闘本能だけで結ばれた二人の呼吸は完全に同期していた。数値が「45」を刻んだ刹那、二人の身体は同時に爆発的な加速を見せる。

 背後では、数十人ものチャンピオンたちが一斉に四方へと散り、互いに有利なポジションを奪い合おうと、あるいは初手で圧殺すべき獲物を求めて、その影を荒々しく引き延ばしていた。

 息の詰まるような猛全力疾走が、およそ十分間。だが、奥へ進めば進むほど、周囲の空気は目に見えて重苦しさを増していく。大気そのものが粘性を帯びたかのように、目に見えない圧倒的な「質量」となって押し寄せてくる。

 突如、ダンテが強引にスパイクをコンクリートに叩きつけ、急ブレーキをかけた。

「アシュラ――お前も、これを感じてるか?」

「ああ」と、アシュラが応じる。

 だが、気づいた時にはすでに遅かった。

 ゴーン――。

 低く響き渡る鐘の音が、大地を揺るがした。それは金属の打音というよりも、地の底から脈打つ巨大な心臓の鼓動に近かった。二人の足元の地面が、突如として目も眩むような光の奔流とともに、巨大で緻密な術式シジルを浮かび上がらせる。

 ――ッ!

 直後、世界リアルが文字通り捻じ曲がった。

 それはあまりにも唐突で、暴力的な転移だった。視界が吐き気を催すほどの万華鏡めいた色彩へと反転し、その狂った一瞬の中で、隣にいたはずのダンテの気配プラーナが完全に掻き消える。世界がようやく回転を止めた時、アシュラは無数の巨大な鏡が砕け散ったかのような、不気味な「鏡面世界」のただ中に立ち尽くしていた。どこを見ても、鋭利な破片には緊張に顔を歪める自分自身の姿が無限に映り込んでいる。

 一方、それとは完全に切り離された別の空間。

 ダンテが目を覚ました場所は、虚空に浮かぶ崩壊したコロシアムだった。周囲を照らすのは、怪しく明滅するネオン光の球体と、不気味に光を反射するガラスのプレーンのみ。

 二つの領域を、等しく息の詰まるような静寂が支配する。

 そこへ――パチ、パチ、パチ、と。

 どこからともなく、しかし確実に、小気味よい拍手の音が響き渡った。

 一本のそびえ立つ鏡の反射から、ぬうっと一人の男が姿を現す。その肉体はまるで不良品バグのモニターのように不規則にグリッチし、ピクセル単位でブレていた。顔の右半分は端正な人間のものだが、左半分は激しく明滅するデジタルノイズの塊であり、不気味なネオンカラーに変色し続けている。発光する配線が精巧に編み込まれたロングコートを纏い、その唇には絶対的な自信を湛えた、歪な笑みが浮かんでいた。

「おや」

 男の声は、奇妙な電子の二重音声デュアルトーンとなって空間に反響した。

「まさか、二人のプレイヤーが同時に僕の罠に飛び込んでくるなんてね。最高にツイてるよ」

 鏡の世界で、アシュラは眼光を鋭く細めた。

「……何者だ、お前は」

「君たちのホストさ」

 男は恭しく、しかし芝居がかった一礼をした。

「名前はシロ・モモジ(桃地 白)」

「ここはどこだ?」アシュラは拳を強く握り締め、骨を鳴らす。「光学幻術の類か?」

「幻術? まさか、そんな安っぽいものじゃないよ」

 シロはくすくすと笑いながら、その身体を数インチほど左へグリッチ(瞬間移動)させた。

「これは僕の『生得技術インネイト・テクニクス』。対象を僕が設計した『プラーナ注入型ゲームコンソール』の内部へと引きずり込む能力さ。まあ、局所的な『領域展開』とでも思ってくれていい。発動にはいくつかの厳格な手順プロセスが必要なんだけど……君たちがここに立っているという結果の前には、そんな制約は何の意味も持たない」

 シロが軽く手をかざすと、虚空から無数の半透明なスクリーンや、ホログラフィックのゲームコントローラーが次々と具現化していく。

「ここでは、僕のルール(法律)に従ってもらう」

 シロの声は、同時にダンテのいるコロシアムにも響いていた。

「君も、君の相棒も、完全に僕の技術の檻の中だ。物理的な距離で引き離されたわけじゃない。同じ座標のまま、異なる『次元の階層レイヤー』に分断されているのさ。いわば『近接認識歪曲』だね」

 別空間のダンテは静かに目を閉じ、自身のプラーナを集中させてアシュラのエネルギーを探ろうとした。しかし、力を解放した瞬間、その波動はまるで砂嵐スタティックのように虚空へと霧散してしまう。

「僕の領域内では、五感の知覚そのものが捻じ曲がる」シロの笑みが、人間の限界を超えて吊り上がった。「この世界は無限のレイヤーで構成されていて、それぞれの階層には、固有のルールのために誂えたカスタムアリーナが存在する。そして、各レイヤーには絶対的な法則が敷かれているのさ。ここから抜け出す方法はただ一つ……」

 彼は言葉を切り、残虐な愉悦に瞳を光らせた。

「この僕を倒すか、あるいは君たちが選んだ『ゲーム』のルールそのものを攻略クリアするかだ」

 崩壊したコロシアムで、ダンテはゆっくりと目を開けた。その表情には、すべてを察した冷徹な理解が宿っていた。

「なるほどな……。つまりお前の能力は、自分自身の『領域』を現実に上書きし、その中に無限の特殊ルールを持つゲームステージを作り出すこと。それが基本構造ベースか」

 シロのデジタルアイが、驚きに一瞬パチリと跳ねた。

「へえ。察しがいいね」

「そして、俺が相棒の気配を追えない理由」ダンテの声は微塵も揺るがない。「お前の技術が感覚知覚を遮断しているからだ。俺たちをパラレルな次元に隔離した。ってことは、物理的な現実世界じゃ、俺たちは今も隣同士で突っ立ってる可能性が高いな。ただ五感センサーがオフラインにされてるだけだ。要するにさ……お前の能力は、ただの『巨大なビデオゲーム』なんだよ。そしてゲームである以上、発動条件はクソみたいに厳格なはずだし、『ホスト』であるお前自身も守らなきゃいけない絶対の制約がある。今はまだ分からねえが……すぐに暴いてやるよ」

 シロの笑みが、微かに引き攣った。

(……こちらの説明を待たずに、能力の根幹と制約の仮説まで導き出しただと? こいつ、思った以上に危険だな)

「それに」ダンテのトーンが、一段と冷たく落ちていく。「お前にとっちゃ、これもただの『遊び』なんだろ」

「当たり前じゃないか! すべてはゲームさ!」

 シロは狂ったように笑い声を上げ、両手を大きく広げた。

「トーナメントも、世界も……上の世界にいる神々にとっちゃ、僕たちなんてただの娯楽コンテンツに過ぎない! すべてはゲームなんだよ! そして君たちは、僕の可愛い新入りプレイヤーだ。ああ、安心しなよ。外の世界の観客オーディエンスには、君たちの無様な足掻きがバッチリ生中継されてるからさ!」

 彼が手を一振りすると、空間がバリバリと音を立てて破砕し、いくつかの浮遊するキューブへと変化した。それぞれの立方体は高密度で不安定なエネルギーを放ち、その表面には解読不能なシンボルが刻まれていて、内部に何が潜んでいるのか全く判別できない。

「さあ、キューブを選びなよ」

 シロは浮遊する鏡に退屈そうに寄りかかり、わざとらしいあくび混じりの顔で挑発する。

「僕に勝つまで、ログアウトはできないよ?」

 鏡の平原で、アシュラは目の前に浮かぶ選択肢をじっと見つめていた。

「完全なギャンブル、というわけか」

「その通り!」シロの声が木霊する。「宇宙が始まって以来の、最も原始的なルールだ!」

 アシュラは迷うことなく手を伸ばし、最も近くにあったキューブを容赦なく掌で叩き割った。物体は一瞬にして崩壊し、眩い黄金の光の柱となって噴出す。

『――システム:ゲームが選択されました。未確認フィールド:コード09A――』

 一方、ダンテもまた、目の前のキューブ群を睨みつけていた。

(こいつの能力の核はすでに読めた。プレイヤーがホストを打倒すれば、領域は強制解除される。シンボルの意味なんて知る必要はねえ。お前の作ったゲームごと、お前を叩き潰すだけだ)

 ダンテが指先で一つのキューブを小突く。

『――システム:ゲームが選択されました。未確認フィールド:コード07C――』

 パチン、とシロが指を鳴らした。

 次の瞬間、崩壊したコロシアムはピクセル状の色彩となって激しくブレ、消滅していった。周囲の空気が、耳を刺すような高電圧のノイズを伴って激しく振動し始める。

 ――ピン。

 突如として現れたソリッドな白い球体が、新しく形成された床を鋭く跳ねた。その球体は、淡く不気味な青いプラーナを纏って激しく振動している。床から金属製のスマートなテーブルがせり上がり、ガチリと音を立てて固定された。空間に二つの特殊なラケット(パドル)が具現化し、ダンテとシロの手にそれぞれ吸い込まれるように収まる。

 ダンテは手のひらでラケットの重さを確かめ、その信じられない光景に完全に真顔になった。

「……は? 正気かよ。卓球ピンポンだと?」

「驚くかもしれないけれど、大体のプレイヤーは二本目のサーブを迎える前に、笑い死にするか絶命するかのどちらかだよ」

 シロは流れるような動作で構えを取った。

 彼が再び指を鳴らすと、金属テーブルの表面がまるで生き物のように駆動を始めた。パネルがガタガタとスライドし、驚異的な速度で水平、垂直、ジグザグ、さらには垂直方向に回転を繰り返しながら、絶え間なくその形状を変形させていく。

 そして、怪しく光る白いボールは、まるで今にも臨界を迎えようとする核リアクターのように、低く、恐ろしい駆動音ハミングを響かせ始めた。

「ああ、言い忘れてたけど、そのボール?」シロの歯がネオンブルーの光を反射して不気味に輝く。「ただの玉じゃないよ。高度に圧縮されたプラーナの塊さ。もしリターンをミスれば……君のすぐ真横で、それが大爆発ドカンする」

 ダンテは手の中でラケットを鋭く回転させ、その瞳を獲物を捉える獣のように細めた。

「ここは僕の世界だからね。あらゆる回復技術ヒールの使用はシステム側で禁止してある」シロが告げると同時に、ダンテの頭上に赤く明滅するホログラフィックのカウンターが出現した。「致命傷を負うたびにライフが一つ減る。痛みが蓄積するほど、受けるダメージの倍率は跳ね上がる。そして君が弱り切って腕を振るうことすらできなくなった時、その残りのライフを僕が一つずつ美味しく『収穫』させてもらうのさ」

『プレイヤーライフカウント:4』

「とりあえず、十往復ラリー耐えてみなよ」シロが不敵に腰を落とす。「大抵の奴は、三球目すら拝めずに肉片になるけどね」

 ズドン――ッ!!

 シロがサーブを放った。

 ボールはまるでスナイパーライフルから放たれた弾丸のごとき速度で射出され、瞬きする間に行き交う五枚の変形パネルを乱反射した。ダンテの野生の反射神経が跳ね上がる。本能のままにラケットを振り抜いた。激突の瞬間、凄まじい衝撃波と火花が炸裂し、強化処理が施されていたはずのテーブルの表面にピキピキと無数の亀裂が走る。

 試合デスマッチの火蓋が切って落とされた。

 一球交わすごとに、ラリーの速度は指数関数的に跳ね上がっていく。インパクトの度に、脳を揺るがすような絶大な運動エネルギーが腕の骨を伝って伝わり、周囲の空間そのものを激しく震わせる。

「おいおい、目が全然追いついてないんじゃないかい!?」

 シロはラリーの最中、常軌を逸した手の動きで残像を残しながら、狂ったように嘲笑した。

「これが君の絶対的な『限界』か!?」

 ダンテは歯を食いしばり、割れた唇から血を滴らせながらも、その弾道から決して視線を逸らさなかった。

「……まだ、始めてもいねえよ!」

 咆哮とともに、ダンテは全体重を乗せた強烈なスマッシュを叩き込んだ。空気を視覚的に歪ませるほどの衝撃波が卓上を奔る。

 だが、それがシロのコートに届く直前――ボールの軌道が、空中であり得ない角度にグニャリと捻じ曲がった。

 ダンテの目が見開かれる。「なっ――!?」

 ボールは猛烈なカーブを描きながら、超高速で変形するテーブルの極限のエッジをかすめ、そのままダンテの目と鼻の先で大爆発を起こした。

 ドォン――ッ!!

 爆風がダンテの身体をボロ雑巾のように吹き飛ばす。彼はデジタルフロアの上を激しくバウンドしながら転がり、コンクリートの柱に背中から叩きつけられた。焦げ付いた腕から黒煙が立ち上る。

 同時に、彼の頭上で光り輝いていたデジタルシンボルの一つが、ガラスのように儚く砕け散った。

『プレイヤーライフカウント:3』

「もっと頑張ってよ、退屈させないでくれ」

 シロは指先でラケットを器用に回しながら、小馬鹿にするように言い放った。

 ダンテは口内に溜まった血をペッと吐き出し、激しく震える肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。頬を伝う一筋の紅い血。しかし、その苦痛とは裏腹に、彼の唇は不敵な笑みに歪んでいた。

「……へっ。おいおい、今の本気か? 随分と軽いじゃねえか」

 シロは小首を傾げ、その享楽的な笑みを冷徹なものへと変えた。

「生意気だね、嫌いじゃないよ。君のその口が、肺が潰れた後も同じように回るかどうか、試してあげよう」

 ボールが再び、シロの手元にリスポーンする。

 ――ガァン!!

 凄まじい打球音がアリーナに雷鳴となって轟いた。ダンテの瞳は、もはや光の層を透過して視界から完全に消失と出現を繰り返す、物理法則を無視した弾道を必死に追う。

 当たるか外れるか――完全な野生の勘だけでラケットを振った。

 ――ガキィンッ!

 ボールは上空へと跳ね上がった。だが、ネットを越えてシロのコートへ向かうはずの球は、まるで獲物を狙う毒蛇のように空中で不自然に反転。再びダンテの顔面めがけて牙を剥いた。

 ダンテは辛うじてラケットを顔の前に突き出し、クロスガードでそれを受け止める。

 ドバムッ!!

 顔面を焼くような熱風が吹き荒れるが、今回のダンテの足は地を捉えて離さなかった。吹き飛ばされない。彼は奥歯を噛み締め、その両手からは深紅のプラーナが爆発的な火花となって散り始める。

「なるほどな」ダンテの声が、一段と低く沈む。「その小賢しいオモチャ、二度も同じ手が通ると思うなよ」

 地を蹴り、前へ。先ほどまでとは比較にならない速度で突進する。その勢いのまま身体を独楽のように回転させ、変形し続けるテーブルの最もカオスな変形パネルを狙って球を痛烈にしばき倒した。ボールはカミソリのような鋭角で卓上を跳ね返り、シロの耳元を風切り音を立てて通過する。

 しかし、爆発は起きなかった。

 球はシロの目の前の空間でピタリと静止し、激しくバイブレーションしたかと思うと、吸い込まれるようにシロの手の中へと戻っていった。

 シロは哀れみの混じった、酷く冷めた笑みを浮かべた。

「賢いね。でも、君は本当に分かっていない。自分がどれほど絶望的な場所にいるのかを」

 彼は手の中でボールを軽く放り投げ、キャッチする。そのデジタルアイには、不気味な紅い光が灯っていた。

「僕は、このゲームの『開発者プログラマー』だ。テーブルの形状、物理演算、今この瞬間、君が吸い込んでいる空気の組成に至るまで――すべては僕の都合の良いようにチューニングされている」

 彼はコツコツと、金属的な靴音を響かせながらテーブルの端を優雅に歩く。

「このパネルはランダムに動いているわけじゃない。僕の意思に従っているんだよ。すべての表面運動は、僕の手の速度、僕の反応速度に、1000分の1秒単位で『完全同期アジャスト』されている。君がどれだけ足掻こうと、僕の設計ゲームで僕を上回ることは不可能なんだ」

 シロの笑みが、捕食者のそれへと変わる。

「君のスペックじゃ、最初から僕の『速度階層スピード・ティア』に届いていない。つまり、君がこれから繰り出すあらゆる挙動は、それが始まった瞬間(初動)の時点で、僕にとってはすでに『過去のデータ』なんだよ」

 シロが指を鳴らす。

 瞬間、ボールが現実から位相を消し、次の瞬間にはダンテの鼻先一インチの場所に唐突に出現した。

 ダンテの反応は、文字通り首の皮一枚。

 ――チィンッ!!

 凄まじい運動エネルギーの反動が骨髄を震わせ、手首の関節が強引に引き抜かれそうになる。

 激しく肩を上下させ、汗と血で全身を濡らしながら、ダンテは低く呟いた。

「……お前のスピード・ティアに届いてない、だァ? だったらよ……」

 彼は顔を上げ、獰猛に歯を剥き出しにする。

「そんなクソみたいな『階層』ごと、ここでブチ壊してやるよ」

 シロは面白そうに片眉を上げた。

「やってみなよ。でも、すぐに思い知ることになる。このゲームは『努力』なんていう安い概念には味方しない。苦痛ペインの先にある『完璧』だけが支配する世界だってことをね」

 シロが再びボールを放つ。

 それは、それまでのラリーを完全に過去にする一撃だった。卓上を奔る閃光はもはや紅い一本のレーザーと化し、通過した大気を視覚的な熱波へと焼き裂いていく。一打ごとにパネルが狂ったように組み替わり、アリーナ全体が死の反射光を放つ迷宮へと変貌する。

 ダンテがステップを踏むたびに、足元のデジタルフロアが衝撃でバリバリと砕け散った。どれほどラケットを振るおうと、コンマ数秒の遅れが致命的なズレとなって襲いかかる。それでも、彼は絶対に膝を折らない。

 室内の温度が急上昇した。

 突如、一球だったはずのプラーナ球が弾け、三つの小さな球体へと分裂。まるで殺戮の人工衛星のように、テーブルの周囲を高速で旋回し始める。

「さあ、難易度を上げようか!」シロの狂気的な笑い声。

 ダンテの呼吸はすでに限界を迎え、腕からは絶え間なく血が流れ落ちていた。しかし、骨が軋むほどの力で、ラケットのグリップを白くなるまで握りしめる。

「……来いよ、遊んでやる」

 三つの球体が、レールガンの超音速弾の如き速度で同時に射出された。

 ダンテの身体が、ブレる。野生の生存本能が脳内で最大音量の警報を鳴らしていた。極限の絶望の中、彼の肉体は流れるような一連の動作で、三つの球体を完全に、かつ同時に弾き返した。寸分の狂いもない、あまりにも美しく精密な三連撃。その衝撃がアリーナの空気を爆破し、周囲の構造物を激しく破壊する。

 ドゴォォン!!

 そのリターンの凄まじい風圧に、シロすらも数フィート後退を余儀なくされ、その歪んだ笑みをさらに広げた。

 だが、ダンテが体勢を立て直すよりも早く――跳ね返った三球は、システム的な不条理さで即座に急反転。完全に彼の死角を突いた。

 バガァァンッッ!!

 凄まじい大爆発がコロシアムの床を吹き飛ばし、ダンテの身体を容赦なく外周の強化隔壁へと叩きつけた。もうもうと立ち込める煙と瓦礫。

 シロの暗い笑い声が響く中、ダンテのボロボロになった身体の上で、また一つ、光るライフシンボルが消滅した。

『プレイヤーライフカウント:2』

「はぁ……はぁ……」

 ダンテはよろめきながらも、再び立ち上がった。全身の筋肉が激しく痙攣し、肌は焼け焦げ、衣服は完全に引き裂かれてボロ布のようになっている。

 それなのに……彼は笑っていた。

 やがてその笑みは、デジタルアリーナの静寂を不気味に切り裂く、低く地を這うような笑い声へと変わっていく。

 シロの狂気に満ちた笑みが徐々に消え、深い不快感へと変わる。

「……何がそんなに可笑しいんだ?」

 ダンテは頭を垂れ、顎から絶え間なく血を床へ滴らせながら呟いた。

「なぁ、シロ……お前、ランクは何だ?」

 シロは傲慢に眉を跳ね上げた。

「Aランクだよ」

 その瞬間、ダンテの笑みが、獣そのものの獰猛さで開かれた。血と汗のマスクの裏で、白い歯がギラリと輝く。彼から放たれるあまりのプレッシャー(威圧感)に、シロの身体が本能的に半歩、後ろへ引けた。

 ダンテは片手をテーブルにドサリと置き、激しく肩で息をしながら言った。

「……お前、昨日会った『あの人』より、確実に遅い(ぬるい)わ。俺さ……あの化け物に出会ってからずっと思ってたんだよ。どうやったらあの速度に追いつけるかってな。……ここ、最高の実験場じゃねえか。限界を超えるにはお誂え向きだ」

 シロの目がスリット状に細まる。だが、彼の脳がその言葉の真意を処理しきるよりも早く――卓上を一筋の「無」が駆け抜けた。

 ダンテが、消えた。

 次の瞬間、彼はシロの目の前に出現していた。微動だにせず、超高速で飛来していたはずのプラーナ球を、見向きもせずに『素手』でガシィッと掴み取って。

「俺、頭悪いから計算とかよく分かんねえんだけどさ」

 ダンテは首を傾げたまま、その声から一切の感情を排した冷徹なトーンで告げる。

「俺たちは昨日、大分から東京までの距離を三時間で走った。でも、俺たちを引っ張ってたあの人は、同じ距離を『二分』でやれるって言ったんだよ」

 ダンテの手首が、爆発的なスナップを利かせて駆動した。掴んでいたボールが、空間を引き裂く凄まじい衝撃波ソニックブームを伴ってシロへと撃ち返される。

「あの人の領域スピードに――今ここで、追いついてやるよ!!」

 その瞬間、領域の外――現実世界のスタジアム会場は、割れんばかりの大歓声と地鳴りのような興奮に包まれていた。日本全土の巨大ホログラムスクリーンには、ポケットディメンションの内部で繰り広げられている、このあまりにも異常な死闘がリアルタイムで映し出されていた。

 VIP席にゆったりと腰掛けていたガイウスは、片手で顎を支えながら、その薄い唇にフッと、すべてを見通したような笑みを浮かべた。

 再び、領域の内側。

 シロのラケットが、ダンテの超重質のリターンと激突した。

 一撃交わすごとに、花火のような火花がアリーナを埋め尽くす。ボールの速度はすでに視覚的認識の限界を超え、周囲の環境光すらもその軌跡を追い切れずに歪み始めている。

(――嘘だろ、こいつ本当にさっきと同じ奴か!?)

 シロの脳内で、パニックに満ちた悲鳴が上がる。一打ごとの衝撃があまりにも重く、両腕の感覚が麻痺していく。

(最初から、力を隠していたっていうのか……!?)

 シロの顔に、絶望と狂気が混ざり合った笑みが戻る。

「関係ない! ここが僕の『領域』である限り、僕の勝ちだァ!!」

 彼が喉を鳴らして絶叫すると、その肉体から不安定なデジタルエネルギーが噴出した。直後、バリバリとデータを引き裂くおぞましい音を立てて、彼の脇腹から『二本のピクセル状の腕』が文字通り生え変わるように突き出た。

「僕のアバターの物理コードを書き換えた! これで凌げると思うなよ!」

 シロは強引にプラーナ球を『五つ』に分裂させ、四本の腕で同時にそれらを叩き込んだ。

 ダンテはそのうちの三球を、人間の域を超えた残像めいた動きで叩き返す。残りの二球が彼の肉体で至近距離爆発を起こしたが――彼は眉一つ動かさず、一歩も退かなかった。

「アハハハハハハ!!」

 シロは狂ったように笑いながら、波状攻撃を繰り出していく。アリーナ全体がその圧力で激しく軋み、二人の手元は完全な「無の残像」と化していた。腕の数が数百本に増殖したかのような錯覚。空間は、絶え間ない爆発音とプラーナの衝突音によって完全に支配されていた。

 ドゴォン! ドゴォン! バキィィン!!

 二人の「速度」がもたらす圧倒的な運動エネルギーの負荷に耐えかねて、領域世界の空間構造そのものに、目に見える亀律クラックが走り始める。

「これで終わりだァ!!」シロが声を枯らして叫ぶ。

 全身から無数の血を流し、その瞳をドロドロとした溶岩のような深紅に輝かせながら、ダンテは静かに、しかし確実に告げた。

「いいや、シロ。ゲームは――ここからが本番だ」

「僕の世界で勝てるわけがないだろう!」シロが金切り声を上げる。「ここでは僕がプログラマーだ! 僕が法律だ! 僕が神なんだよ!!」

 四本の腕をすべて掲げ、それぞれがホログラフィックのラケットを握る。五つの球体はさらに増殖を続け、最終的に『十五』の光球となり、シロの周囲に死の星座を形成した。

「この嵐を、凌げるものなら凌いでみろ!!」

 十五発の流星群の如き光球が、ダンテの生命生体反応ライフ・シグネチャーを完全にロックオンし、一斉に牙を剥く。

 ――だが、ダンテは動かなかった。

 膝を微かに震わせ、視界を血で滲ませながら、彼はただ静かに、深く息を吸い込んだ。右足が一インチだけ後ろへ下がる。その姿勢が、完全に静止する。

 その瞬間――パキン、と。

 ガラスがひび割れるような、澄んだ音が響いた。それは地面からではない。彼が立つ『空間そのもの』から発せられた音だった。

 ドンッ!!

 ダンテのオーラが、深紅の巨大な光の柱となって天空へと噴出した。彼の両腕の皮膚の下を、まるで赤い稲妻の血管が目覚めたかのように、幾筋もの光のラインが這い回る。

「……スピードってのはさ」

 吹き荒れるゲームの中心で、ダンテが静かに囁いた。

「動きの多さじゃねえんだよ。『集中』の密度のことだ」

 刹那――彼が、完全に世界から消滅した。

 直後、十五発の破壊の流星が、さっきまでダンテが立っていたはずの座標を完全に粉砕した。だが、そこに手応えは何もない。文字通り、虚空を撃ち抜いただけ。

 一瞬の静寂ハートビートの後、シロの真後ろに、唐突にダンテが姿を現した。彼のラケットが振り下ろされる速度は、すでに音速を超え、空間を引き裂く悲鳴のような轟音を伴っていた。

 ドゴォォォォン――ッ!!!

 凄まじい衝撃波が卓上を駆け抜け、金属製の変形テーブルを文字通り『真っ二つ』に一刀両断した。

「が、は……ッ!?」

 シロは四本の腕を無様に振り回しながら、前のめりに倒れ込んだ。そのデジタルアイが、底知れぬ恐怖に激しく揺れ動く。

「な、何だ……今のは……!? どうやって僕の背後に――ッ!?」

「言っただろ」ダンテはゆっくりと振り返る。その顔には不気味な影が落ち、瞳だけが暗闇の中で燻る業火のように赤く輝いていた。「俺はずっと、Aランクの速度を追いかけてた。……今、やっと追いついたみたいだわ」

「ふ、ふざけるなァァ!」シロは咆哮し、壊滅していくアリーナを修復しようと、虚空から必死に新しいデータパネルを召喚する。「この世界は僕のコードで動いている! 何度だって書き換えて、初期化リセットしてやる!」

 だが、その言葉が彼の唇を離れた瞬間――周囲を流れる発光データストリームが、激しくパチパチと明滅し、バグを起こし始めた。

 ダンテがただ一歩、足を踏み出すだけで、世界のシステム(根幹)そのものが歪み、崩壊を起こしていく。

 外部の現実世界。VIP席のガイウスは、前のめりになって画面を見つめていた。

「……なるほどな。領域の『処理速度システム』を超えたか」

 ガイウスの声には、深い敬意が混ざっていた。

「あの領域は、シロの最大速度を基準にプログラミングされている。だが、ダンテの今の速度はシステムが演算できる許容値を完全に超えている。――ダンテは今、この世界の『フレームレート』を物理的に突き破っているんだ」

 崩壊していくゲームの世界。シロは四本の腕を狂ったように振り回し、何度も何度もラケットを振るった。だが、その打撃が捉えるのは、すべてダンテの『残像』のみ。ダンテの圧倒的な速度の前に、ゲームの論理ロジックそのものが完全に瓦解していた。

 ボールはあらゆる角度――上下、左右、物理的な壁を透過しながら不条理に乱反射を繰り返し、そしてついに、ダンテはシロの顔面の真ん前に出現した。その身体から放たれる圧倒的なプラーナは、まるで沸騰する溶融液のようだった。

「ゲームオーバーだ、シロ」

 ドンッ。

 ボールがシロのラケットに当たった。だが、それは跳ね返らなかった。

 次の瞬間、それは超新星爆発のごとき凄まじいエネルギーとなって、至近距離で大爆発を起こした。世界のシステムが致命的なバグ(キャタストロフィック・エラー)を起こし、周囲の空間が内側に向かってベキベキと折り畳まれていく。

「ごふッ……!!」

 大量の血を吐き出しながら、シロはその場にドサリと膝を突いた。追加で生やしていた二本の腕は、無用なバグデータとなって煙を上げて消滅していく。彼は必死に自身のプラーナを安定させようとしたが、もはや手遅れだった。

「バカな……」シロは恐怖に顔を歪め、絶望の目で勝者を見上げた。「どうやって……これほどの速度を……ッ!」

 ガシィッ! と、ダンテの手がシロの配線コートの襟元を容赦なく掴み上げ、強引に視線を合わせさせた。顔中が血まみれであるにもかかわらず、ダンテの唇に刻まれた笑みは、どこまでも冷酷で、そして絶対的な自信に満ち溢れていた。

 彼の手の中には、この世界に残された『最後の一球』が握られていた。

 彼はそれを、打とうとはしなかった。ただ、二人の胸の真ん中で、その球を力任せに――ギュリ、と握り潰した。

「……じゃあな、ログアウトの時間だ」

 ダンテが低く囁いた瞬間。

 ボールは純白の爆発を起こし、二人の身体を、そして崩壊を続けていた虚構の世界のすべてを完璧に飲み込み、光の塵へと変えていった。

 直後――。

 現実世界のスタジアムは、鼓膜を破らんばかりの地鳴りのような大歓声と、嵐のような拍手に包まれた。

 高層階の特等席(VIPブース)では、世界の頂点に君臨するはずのSSランク、そしてSSSランクの伝説的なチャンピオンたちすらも、眼下のアリーナを見下ろしたまま――言葉を失い、ただただ愕然と立ち尽くしていた。


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