皇帝からの招待状
フクルの事件から、一ヶ月が過ぎた。
街の通りは修復され、商人たちは店を再開し、一般の人々はゆっくりと日常へと戻っていく。
世界は回り続けていた。
だが、誰もがそんな平穏を許されるわけではない。
遠く離れた大分市の、数え切れないほどの人混みの中に身を潜め、二人の逃亡者は群衆へと消え続けていた。
大分市、川沿い — 夜
川の上には、霧雨とも言えぬほどの静かな雨がしとしとと降っていた。
阿修羅は錆びついた手すりに静かに腰掛け、冷たい夜気でフードを湿らせていた。彼の視線は、物思いにふけるように、眼下を流れる水面へと向けられている。
背後から、足音が近づいてきた。
ダンテが温かい食べ物の入った袋を二つ持って現れた。
彼は何も言わず、そのうちの一つを阿修羅に向かって放り投げた。
「胃袋に逆襲されて喰われちまう前に、食っとけよ」
阿修羅は視線すら向けずに、それを受け止めた。
かすかな笑みが浮かぶ。
「昨日は二つとも盗もうとしてなかったか?」
ダンテは肩をすくめた。
「反射神経のテストだよ」
刹那の間、二人は静かに笑い合った。
そして、再び静寂が戻る。
ただ、川の流れる音だけが残されていた。
翌朝
夜明けの光が、ゆっくりと大分を染めていく。
街の端にある廃線となった線路には霧が立ち込め、通りは不気味なほどに静まり返っていた。
阿修羅とダンテは、バックパックを肩に背負い、並んで歩いていた。
ダンテが怠惰に体を伸ばす。
「で、これからの計画は?」
「また別の街か?」
「それとも、足が完全に動かなくなるまで走り続けるのか?」
阿修羅は視線を前方に向けたままだった。
「東へ向かう」
「検問所は避ける」
「政府のレーダーに引っかからないように立ち回るんだ」
突然――
空気が変わった。
目に見えない悍ましい力が、世界に降り立つ。
大気そのものが凍りついたかのようだった。
ダンテが足を止める。
彼の呼吸が、急激に重くなる。
「なんだ、これ……」
「このプレッシャーは、一体何なんだ?」
空気中にスタティック(静電気)がバチバチと弾けた。
足元の地面が微かに震える。
阿修羅の目が見開かれた。
あのガジールとの死闘の最中でさえ、これほど圧倒的なものは感じたことがなかった。
全身の生存本能が、最大級の危険をアラートしている。
そして――
すべてが静まり返った。
押し潰されるような圧迫感は消え去り、代わりに不自然なほどの静寂が満ちる。
ただ、彼らの背後から微かな足音だけが響いていた。
砂利を踏みしめる、ブーツの音。
遅く。
一定の足取り。
二人は振り返った。
線路の上に立っていたのは、黒い外套に身を包んだ長身の影だった。
滑らかな白い烏の仮面が、その顔を完全に覆い隠している。
完璧な静止を保つ彼の外套を、風が静かに揺らしていた。
彼の声は、酷く冷静だった。
しかし、その一言一言には、想像を絶する質量が伴っていた。
「伝言を届けに来た」
その響きだけで、肌に鳥肌が立つ。
阿修羅もダンテも、微動だにできなかった。
彼を取り巻く圧迫感が、まるで目に見えない鎖となって二人の身体を縛り付けているかのようだった。
仮面の男は、わずかに首を傾げた。
「そう警戒する必要はない」
「私は、かなり長い間お前たちを見守ってきたのだからな」
阿修羅の瞳孔が細くなる。
ダンテは静かに拳を握りしめた。
見知らぬ男は、さらに前方へと歩を進める。
一歩進むたびに、誰もいない線路に足音がこだました。
「武蔵野の事件の時から……」
「私はお前たち二人を観察していた」
「フクルへ渡る姿も見た」
「見捨てられたモーテルで眠る姿もな」
「お前たちが、自分一人しかいないと思い込んでいた時でさえ、私は見ていた」
彼の声は、奇妙なほどに平穏なままだった。
「お前たちは常に、神聖なる盤上の駒に過ぎない」
「そして、この世界の均衡におけるお前たちの役割は、間もなく変わる」
阿修羅の鼓動が跳ね上がった。
(気配を完全に隠していたというのか……)
(もしこの男の言うことが本当なら……)
(俺たちを何度でも殺せたはずだ)
(身体が、動かない……)
(この男は、一体何者なんだ?)
圧倒的な重圧を受けながらも、ダンテが一歩踏み出した。
彼の声が、静寂を切り裂く。
「そんなにずっと俺たちを覗き見してたってんなら……」
「なんで今更、姿を現した?」
烏の仮面の奥から、静かな含み笑いが漏れた。
「相変わらず単細胞だな、ダンテ」
仮面の男は、手を後ろで組んだ。
「もし、もっと早くに私が姿を現していれば……」
「お前たちは既に死んでいただろう」
風が止んだ。
鳥たちの気配すら、完全に消え失せる。
謎の男は、わずか数メートルの距離で足を止めた。
彼の口調が、厳かなものへと変わる。
「私は今日、使者としてここに立っている……」
「――『皇帝のゲーム(エンペラーズ・ゲーム)』のな」
阿修羅とダンテの身体が凍りついた。
二人の顔から、一気に血の気が引いていく。
「皇帝のゲーム……?」
二人は同時に、掠れた声で呟いた。
仮面の男は頷いた。
「お前たちを殺せという命令は受けていない」
「ただ、その成長を見届けるようにとな」
彼の身体の周囲で、微かな黄金のプラーナが揺らめき始めた。
「お前たちは、直々に推薦されたのだ」
「……皇帝の『SSS級』幹部の一人によってな」
阿修羅が眉をひそめる。
「推薦……?」
「誰にだ?」
仮面の男は、しばしの沈黙を置いた。
「時が来れば、自ずと答えは知ることになる」
「だが今は……」
彼は一本の指をゆっくりと突き出した。
その指先を中心に、黄金のプラーナが螺旋を描いて渦巻く。
「感謝するがいい」
「運命はお前たちを選んだのだ」
阿修羅は警戒しながらも、一歩前へ出ようとした。
「ゲームだと……?」
仮面の男のオーラが、消えかける炎のように明滅した。
そして、完全に消失する。
ただ、彼の声だけが空間に響き渡った。
「もし、どちらか一人でも拒絶するのであれば――」
「この場で息の根を止めてやる」
世界が 激しく 揺れた。
耐え難いほどの質量が、線路の上に叩きつけられる。
地表の草は平らにひれ伏した。
小石が浮き上がり、全方位で粉々に砕け散る。
阿修羅とダンテの足元の地面に、深い亀裂が急速に広がっていった。
二人は同時に、その場に膝を屈した。
肺が空気を拒絶する。
目に見えない圧倒的な重みが二人を圧殺しようと迫り、彼らは必死に地を這い、地面を掻きむしった。
仮面の男は、完璧な静止を保ったままだ。
その外套すら、微塵も揺れていない。
再び彼が口を開いた時、その声は機械的なビジネスライクなものへと戻っていた。
「覚悟を決めておくことだ」
「次の邂逅は、これほど friendly(優しく) はない」
「明日……」
「すべてを説明する」
それだけを言い残し、彼は背を向けて線路を下っていった。
一歩、また一歩と、彼は朝霧の彼方へと消えていく。
その瞬間、重圧が霧散した。
線路に激しい風が吹き戻る。
舞い上がった土煙が落ち着き、再び静寂が戻った。
阿修羅は激しく咳き込みながら、 必死に 立ち上がった。
隣では、ダンテが荒い呼吸を繰り返しながら、 泥臭く 身を起こす。
長い間、二人は何も語らなかった。
やがて、阿修羅は誰もいなくなった線路の先を見つめた。
その瞳には、確固たる決意の炎が宿っている。
「明日、か……」
ダンテは口の端についた血を拭い、深く、長く息を吐き出した。
「……クソが。まともな説明じゃなきゃ、承知しねえからな」
静かな街の遥か上空――
雲の向こう側で、
運命の歯車は、既にその駒を動かし始めていた。




