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痛みなし   作者: EXTRO
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11/14

嵐が記憶に残したもの


朝の光が広大な大都市『フクル』に降り注ぎ、ガラスの巨塔群を黄金色に染め上げていく。

高層ビルの間を無音で滑空するスカイトレイン。

巨大なスクリーンを行き交うホログラムの広告。

通りは会社員や学生、商人たちで溢れかえり、いつもと変わらない「日常」が始まろうとしていた。

この街に生きる人々にとって、フクルは戦争を知らない街だった。

テクノロジーと平和が手を取り合う理想郷。

――あるいは、そう信じ込まされているだけか。

きらびやかな看板の群れの背後、時の流れに取り残された廃墟同然の古いアパートがあった。

ひび割れた壁や割れた窓はネオン広告の層の下に隠され、街の輝きの中で完全にその存在を消している。

その埃っぽい一室の奥で、アシュラはゆっくりと痛む体を伸ばした。

背中を覆う無数の古い傷跡。

彼の皮膚の下で、かつての戦いで刻まれたプラナの焼痕がかすかに光り、そして再び消えていく。

壁には刀が立て掛けられ、その横にはインスタントヌードルの空カップが山のように積まれていた。

彼は目をこすり、小さくため息をつく。

「また、平和な一日か……」

「まだ、妙な気分だな」

アパートのドアがきしむ音を立てて開いた。

破れかけたジャケットをだらしなく肩にかけたダンテが、安物のコーヒーが入った二つのマグカップを手に持って入ってくる。

彼はカップの一つをアシュラに手渡した。

「平和だと?」

ダンテは鼻で笑った。

「退屈の間違いだろ」

「俺なら、こんな静けさはまともな戦い一つで喜んで差し出すね」

アシュラはマグを受け取り、かすかに微笑む。

「お前なら朝飯の前に戦争を始めかねないな」

ダンテは誇らしげに肩をすくめた。

「朝飯が俺を舐めた目で見てきたら、の話だけどな」

二人は静かに笑い合った。

ほんの一瞬だけ、外の世界のことなどどうでもよくなった。

テーブルの上に置かれた小さなホログラム画面が、突然チカチカと起動する。

ニュースキャスターの姿が映し出された。

『――当局は、フクル東部地区で報告された異常なエネルギー変動の調査を続けています』

『専門家は、一時的な電力網の異常が原因であると見ており――』

ダンテがあくびを噛み殺す。

「ニュースまで退屈極まりない街だな」

アシュラは窓辺に歩み寄り、それを押し開けた。

新鮮な山の空気が室内に流れ込んでくる。

眼下には、生命力に満ちた都市が広がっていた。

光の川のように流れる車。浮遊広告の下、巨大な交差点を渡る群衆。

国中から追われる身となった二人の逃亡者にとって、この大都市フクルは自らの素性を隠すのに十分すぎるほど巨大な器だった。

バルコニーからは小さな公園が見下ろせる。

子供たちが木刀を手に笑いながら剣術の真似事をして、「チャンピオン」の英雄譚を演じていた。

アシュラはその光景を静かに見つめる。

彼の表情が少しだけ和らいだ。

果てしない流血を見てきた者にとって、平和というものは、ただそれだけで重みを持つ。

ダンテが手すりに寄りかかった。

「で、次はどうする?」

アシュラは黙ったままだった。

ダンテがニヤリと笑う。

「まずは朝飯だな。世界征服はその次だ」

アシュラは静かに首を振って笑った。

彼の視線が遠くのスカイラインへと向かう。

その時――。

何かが、狂った。

最も高い超高層ビルの遥か上空で、空間そのものが一瞬だけ歪んだ。

極めて小さな歪み。

ほとんど目視できないレベルの異変。

アシュラは目を細めた。

「……今のを感じたか?」

ダンテが上空を見上げる。

空は何事もなかったかのように広がっている。

「ただの風だろ」

アシュラは何も答えなかった。

街の遥か上空を、目に見えない気流に運ばれたかのように、微細な黒い粒子が灰のように漂っていた。

誰も気づかない。

市民も、当局も。

この街を守る「チャンピオン」たちさえも。

朝は何事もなかったかのように過ぎていく。

しかし、光に満ちた都市のどこかで――闇はすでに呼吸を始めていた。

朝霧が淡いヴェールのように街を包み込み、未だに微かなプラナの残滓を宿す崩壊した塔の輪郭をぼやけさせていく。

混沌が眠りにつく時、逃亡者たちでさえ平和という名の夢を見ることができた。

街の端にある廃アパート。その静寂の中に彼らはいた。

壊れた窓から埃がゆったりと漂い、割れたブラインドの隙間から陽光が差し込んでいる。

木の床の上に結跏趺坐で座っているのはアシュラだ。

上半身は裸で、その肉体には激闘と激しく燃え盛るプラナによって刻まれた無数の傷跡があった。

呼吸は遅く、一定。

皮膚の下で眠る膨大なエネルギーを抑え込むように、彼の周囲の空気がごくわずかに震えていた。

首筋を汗の滴が伝い落ちる。

その時、聞き慣れた声が静寂を破った。

「よお、アシュラ! 朝からまたそれか?」

「瞑想したって朝飯は降ってこないぞ」

アシュラは目を開けなかった。

部屋の向こう側では、ダンテが錆びついたコンロの前に立ち、凹んだ鍋を握っていた。焦げた麺の強烈な匂いが室内に充満していく。

アシュラがようやく口を開いた。

「瞑想じゃない。制御だ」

「ムサシノの戦い以来、俺のプラナはまだ安定していない」

ダンテは頭の後ろをかきむしり、笑った。

「はいはい、制御な。こっちとら、調味料が切れたっていう現実を制御しようと必死なんだけどな」

アシュラは片目を開けてため息をつき、立ち上がった。

ひび割れた窓から街を見下ろす。

埃と崩壊した屋根の向こう側には、それでも変わらない日常があった。

人々が行き交う賑やかな通り。

店を再開する商人たち。

路地裏を追いかけっこする子供たち。

都市は、確実に癒えつつあった。

「空気が軽いな」アシュラが呟く。

「プラナの流れが安定している。まるで……本当に平和になったかのように」

ダンテが腕を組んだ。

「平和ってのは大抵、また厄介事に巻き込まれる前触れだろ」

二人は静かに笑い合った。

この一瞬だけは、国中を追われる逃亡者であることを忘れられた。

ただの疲れ切った二人の生存者として、稀有な静寂の朝を楽しんでいる。

今はただ、息を吸うことができる。

混沌と夜明けの狭間に隠れる、世界から忘れられた二つの亡霊のように。

時間は流れ、朝はゆっくりと正午へと移り変わる。

ブラインドの隙間から差し込む強い日差しが、床に散らばった新聞、空き缶、そして部屋の隅に忘れ去られた古い武器ケースを照らし出していた。

ダンテは大きなうめき声を上げて、破れたソファに倒れ込んだ。

「逃亡者ってなら、もうちょっとマシな特典があってもいいと思わないか?」

「金とか、名声とか。せめてまともなベッドとかさ」

アシュラは思わず苦笑した。

「手配書の掲示板にお前の首が吊るされるのを皆が待っている、という部分は忘れたのか?」

ダンテは豪快に笑った。

「どうやら俺が手に入れた特典はそれだけみたいだな」

アシュラは腕に巻かれた包帯をきつく締め直した。

その表情が真剣なものへと変わる。

「そろそろここを発つぞ。西部地区の巡回が増えている」

ダンテは面倒くさそうに手を振った。

「もう二ヶ月も隠れてるんだぜ? 俺たちがやったことを、まだ誰かが覚えていると思うか?」

アシュラは下の街を見つめた。

「人々は顔を忘れる。だが――名前は決して忘れない」

特に、賞金首のポスターに刻まれた名前は。

部屋に沈黙が降りた。

どちらも言葉を発しない。その真実を知っているからだ。

どれほど平和に見えようとも、彼らの過去はどこまでも追いかけてくる。

アシュラは数少ない物資を使い古されたサッチェルバッグに詰め終えた。

「今夜動く。長く留まれば留まるほど、過去が追いつくスピードは速くなる」

彼はもう一度、窓へと歩み寄った。

眼下では、まるで何もなかったかのように人々が笑っている。

彼らが戦った世界さえも、修復の道を見つけていた。

その時――。

大気を奇妙な振動が駆け抜けた。

あまりにも微細で、常人なら気づかないレベルの異変。

遥か彼方、スカイラインの向こう側で、プラナが天を衝く見えない波のように波打った。

アシュラの目が鋭く細められる。

彼のオーラが本能的に揺らめいた。

大気の「質」そのものが変わった。

街の深部で――何かが目覚めた。

数時間後、廃アパートに黄昏が訪れた。

ひび割れた窓ガラスを、雨粒が静かに叩いている。

アシュラがバッグを固定する傍らで、ダンテは自身の機械刃メカニカル・ブレードを点検していた。その表面を、青いプラナの光線が淡く駆け巡る。

「もう一晩くらい残れただろ」ダンテが言った。

「誰もこんな場所探しちゃいないさ」

アシュラは振り返りもせずに答える。

「前回も同じことを言っていたな。その5分後にはBランクのチャンピオンたちに包囲されていたが?」

ダンテは頭をかいた。

「……違いない。派手な展開は俺が持ち込む」

「で、後片付けはお前だ」

アシュラは静かに笑った。

「混沌と後片付け、だな」

二人の顔に笑みが浮かぶ。

しかし、その笑いが消えぬうちに、遠くの雷鳴が街に響き渡った。

アシュラが突然、動きを止めた。

再び空気が変わる。

彼のプラナが、自己防衛のように勝手に反応していた。

ダンテが即座に気づく。

「またあの感覚か?」

アシュラはゆっくりと窓へ近づいた。

「いや……」

「今度は違う」

スカイラインの向こうで、奇妙な黄金の光が不規則なパルスとなって明滅していた。

電気的なものではない。自然現象でもない。

それは、街全体へと拡散していくプラナの波動だった。

ダンテの笑みが消えた。

「平和な街にしちゃ、ちとエネルギーが過剰すぎるな」

アシュラの声が囁きへと変わる。

「誰かが覚醒している……あるいは、何かが喰らっているのか」

部屋が静まり返る。

言葉を重ねる必要はなかった。二人の本能がすでに答えを出している。

平穏は終わったのだ。

ダンテが拳の関節を鳴らした。

「俺たちを狙うトップギルドの手の者だと思うか?」

アシュラは光り輝く地平線を見つめ続けた。

「かもしれない。だが、何が相手だろうと……大気そのものの呼吸を変えるほどのバケモノだ」

彼が窓を開けると、冷たい風が室内に吹き込んできた。

その風に乗って、遠くから何かが聞こえる。

雷鳴ではない。機械の音でもない。

それはまるで――詠唱、あるいは悲鳴のようだった。

ダンテの口元がゆっくりと吊り上がる。

「どうやら、次の『問題』が見つかったみたいだな」

アシュラの真紅の瞳が、スカイラインで踊る奇妙な光を映し出していた。

「違う」

「向こうが俺たちを見つけたんだ」

遠方で大爆発が起こり、地平線を激しく照らした。

アパートの窓がガタガタと震える。

ダンテの目から青い光が放たれ、アシュラの目からは赤い光が灯る。

遥か彼方、不安定なプラナが生き物のような嵐となって地区を飲み込んでいく。

彼らは数ヶ月間、世界の記憶の底に隠れ伏してきた。

だが、運命というやつは逃亡者を決して忘れない。

そして、街の向こう側で――嵐はついに彼らの名前を思い出したのだ。

夜が、影で織られたカーテンのようにフクルへと舞い降りた。

冷たい風が人通りの絶えた通りを吹き抜け、雨と焦げた石の匂いを運んでいく。

明滅する街灯が水たまりに反射し、眠りについた都市の向こう側から遠いサイレンの音が響いていた。

完全に眠ることのない不夜城において、静寂とは往々にして最大の警告となる。

闇の中を二つの影が動いていた。

フードで顔を隠し、指名手配中の逃亡者を捜索する巡回の手を避けるように、彼らは荒廃した路地裏をすり抜けていく。

アシュラは一切の足音を立てずに先頭を歩いた。

ダンテはその背後を追い、ジャケットのポケットに両手を突っ込んでいたが、すでに生地は雨でびしょ濡れだった。

数分後、ダンテがようやく沈黙を破った。

「未だに納得いかねえな。ここで起きたすべてのことを考えてみろよ。なんでこの街はこんなに平和そうなツラをしてられるんだ?」

アシュラは歩みを緩めない。

「人間ってのは、傷跡が見えなくなればすぐに忘れる生き物だ」

路地を抜けると、かつては賑わっていたであろう市場の跡地に出た。

今やそこは完全な廃墟だった。

崩落した露店がひび割れた壁に寄りかかり、溶けた街灯が黒焦げた枝のように地面からねじれ曲がっている。 pavement(舗装路)には深い亀裂が走っていた。

かつてフクルを揺るがした激戦の気配が、今も大気に居座っている。

ダンテが低く口笛を吹いた。

「おいおい……ここで戦った奴ら、一切手加減しなかったみたいだな」

アシュラは石床に刻まれた巨大な焦げ跡の横に膝をついた。

彼の指先が地面に触れた瞬間、かすかな脈動が彼に呼応した。

彼の目が鋭く細められる。

「プラナの残滓が……まだ生きている」

二人の周囲で、大気が柔らかく震えた。

まるで死ぬことを拒む残り火のように。

アシュラがゆっくりと立ち上がる。

「このレベルの空間の歪みは通常あり得ない。戦闘中にチャンピオンの『プラナ・コア』が粉砕された時にしか起きない現象だ」

あらゆる生命体は、天地開闢の折に古の神々(エルダー・ゴッズ)が遺した神聖なる本質――『神聖プラナ』で織られた魂を持っている。

通常の凡夫は生命を維持する程度の量しかその力を宿さない。

だが、「チャンピオン」と呼ばれる存在は違った。

彼らの魂の奥底には『プラナ・コア』と呼ばれる第二の器が存在し、そこに膨大な量の神聖プラナを蓄積することができた。

それがすべての超常能力、不可能を可能にする業、奇跡の源泉。

もしそのコアが砕ければ、魂そのものが崩壊を始める。

その運命から生き延びられる者は、極めて稀だった。

ダンテが眉をひそめる。

「じゃあ、遺体はどこへ行った?」

二人ともその答えを持っていなかった。

彼らはさらに廃墟と化した地区の奥深くへと進む。

壊れた屋根から雨水が滴り落ちる。街はもぬけの殻のようだった。

その時、アシュラが唐突に足を止めた。

「……待て」

「何か聞こえないか?」

ダンテが息を止める。

一瞬、雨の音以外は何も聞こえなかった。

だが、その雨音の下から――。

微かな息遣い。

ほとんど聞き取れないほどの声。

二人はその音の方へと急いだ。

崩落した看板の下、雨水に半分浸かった状態で、一人の少女が横たわっていた。

彼女はぴくりとも動かない。

ただ、彼女の右手を包み込むかすかな黄金の輝きだけが、辛うじて生存を証明していた。

ダンテの目が大きく見開かれる。

「生きてるのか?」

アシュラは彼女の横に膝をつき、脈を調べた。

彼の表情が暗くなる。

「辛うじてな。鼓動が弱い……」

「それに、プラナがほぼ完全に枯渇している」

ダンテは警戒しながら周囲を見回した。

「ここで戦ったのがコイツだってのか?」

アシュラは周囲の破壊の痕跡を見つめた。

「おそらく。……あるいは、彼女自身がこの惨劇を引き起こした原因かもしれない」

稲妻が天を割った。

一瞬だけ、少女の顔が露わになる。

彼女のすぐ横には、半分焼け焦げたチャンピオンの識別タグ(IDタグ)が落ちていた。

辛うじて読み取れる名前は一つだけ。

ミノリ。

アシュラがその名を静かに呟いた。

「ミノリ……」

ダンテは首を振った。

「聞いたことのない名前だ。だが、絶対にタダ者じゃねえな」

「見ろよ、あのコアだ。これだけの破壊に巻き込まれてまだ無事なんだぜ」

アシュラが彼を振り返る。

「なぜそれが分かる?」

ダンテは損傷したIDタグを指さした。

「普通のチャンピオンは政府発行のタグなんて持ち歩かない。持ち歩くのは――『特殊部隊スペシャル・ディビジョン』の連中だけだ」

雨がさらに激しさを増していく。

アシュラは慎重に、意識を失った少女を腕の中に抱え上げた。

彼女は恐ろしいほど軽かった。

「このまま置いていくには不安定すぎる。もし当局が先に見つければ……」

「ただの戦死者として処理されるだろう」

ダンテはため息をついた。

「俺たちは指名手配犯だぜ? コイツを助けるなんて最悪のアイデアだ」

アシュラは彼の目を真っ直ぐ見据えた。

彼の声はどこまでも冷静だった。

「見捨ててはいけない」

数秒間、二人は動かなかった。

やがて、ダンテが静かに笑った。

「お前って奴は、本当にどうしようもないな」

アシュラはミノリの体を肩に担ぎ直した。

「お前は毎回そう言うな。そのくせ、いつも付いてくる」

ダンテが笑う。

「誰かがお前を生かしておかなきゃならないからな」

二人は共に雨の中へと消えていった。

アシュラが意識のない少女の体に自身のマントをかける傍らで、ダンテは背後の誰もいない通りを警戒し続けた。

長い沈黙の後、ダンテがようやく尋ねた。

「あいつ、目を覚ますと思うか?」

アシュラは闇に包まれた前方を見つめた。

「分からない」

雨は降り続いていた。

崩壊した都市の遥か上空で、雲の隙間を雷鳴が駆け抜ける。

アシュラのマントの陰で、ミノリの手を包んでいた微かな黄金の光が一瞬だけ明滅し――。

そして、完全に消え去った。

フクルの忘れ去られた廃墟の奥深くで、古の力が目覚めようとしていた。

これまで決して交わることのなかった三つの宿命が今、同じ未来へと動き出そうとしていた。


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