・リタとのアブノーマルな夜明け
朝方になるとシートからリタの温もりが消えていた。リタはメインディスプレイの前に立って、朝焼けが始まった東の海を眺めていた。
朝の挨拶をするとリタはこちらに振り返って、思い詰めたような複雑な顔をした。
「考えてた」
「朝飯か?」
「どうやって、キッドにお礼、返せばいいのか、わからなくて……」
「別にいらねぇよ。……あの日、リタとアムは無条件で迷い込んできた俺を保護してくれた。感謝してんのはこっちだ……」
リタは無言で首を横に振った。この女はいつだって頑固で譲らない人だった。
「いらねぇっつってんだろ」
「ずっと、キッドの寝顔見ながら考えた」
「み、見んなよ……っ!?」
思い詰めた顔が幸せそうに安らいだ。ガキ扱いはお断りだが弟のように思ってくれる分には嬉しかった。あくまでギドではなく、キッドの方の俺がだ。
「ボク……キッドの奴隷になる……」
「な、何ぃっ?!」
「もうお嫁さんにはなれないから、奴隷になる……」
「お、おいおい……」
リタとアムはご主人様のお気に入りだっという。それがどういう意味かはあまり想像したくないが、尊厳が守られるようなことはなかっただろう。
つらくて逃げ出して、名も無き土地に隠れ住んでいたくらいだ。
「何されたのかしらねーけど、そんくらいで女の価値は変わらねぇよ」
「そうかな……」
「お前はいい女だ。ちょっとやべーけど、俺もやべーやつだし気にしねぇよ」
褒めてもリタは笑わなかった。俺の言葉はリタには響かなかった。
「椋鳥のサエズリの商売女たちだって、俺のことをオモチャにするけどいいやつらだろ? 商売女だからってこっちは気にしねーだろ? そんなもんだ」
こっちの言葉はリタに通じた。大事なキッド少年をオモチャにされたことを思い出して腹を立てたようにも見えた。
「わかった、じゃあ全部話す。ボクがご主人様たちにされたこと、全部」
「ま、待てっ、言わなくていいそういうのはっ!」
「知ればボクのこと、嫌いになる。でも話すね……」
「な、なんだよそのメチャクチャな理屈はよぉっ!?」
リタは奴隷時代の生活を語った。人買いのお気に入りになると、どうなるかを。
想像しうる一般の行為は一通り網羅するとして、最もつらかったのは加担させられることだった。同じ男に買われた者を、自分と同じ地獄にリタは突き落としてきた。主人の命令で。
「ね……お嫁さんになる資格なんて、ないでしょ……?」
リタは心から身体まで全てを汚されていた。
「バカなこと言ってんじゃねぇよ。俺だって褒められた過去なんてねぇよ」
手を取ると自分よりずっと大きなお姉さんが震えるほどに怯えた。涙を目に浮かべて汚れていると思い込んでいる手を引っ込めようとした。
そいつを強引に引っ張り返して、少年はお姉さんの肩に手をかけて飛び付いた。613号としか呼ばれなかった俺をキッドと呼んでくれる口に、唇を素早く押し付けてすぐに逃げた。
「嘘……汚いのに……」
「そんなになりてぇならしてやるよ。俺がでかくなったら、俺の嫁さんになれよ」
どうせ俺は大人になんてなれない。約束が果たされることなんてない。だから堂々と無責任にそう言えた。
「どうしよう……」
「どうもこうもねぇよ。憧れのお姉ちゃんと結婚したくない弟分なんていねぇよ……!」
「嬉しい……。ボク……ボク、全部をキッドに捧げる……!!」
「それ、嫁のセリフか……?」
とにかくそれで黄昏ていたリタが元気になった。感情のままに抱き付いてきて、感情のままに唇で愛情表現をした。過去に前例のない多段攻撃だった。
「ごめん、奴隷しか、経験ないから……。どうすれば、お嫁さんっぽい行動に、なるの……?」
「お、俺にわかるわけねぇだろ……。手繋いで買い物に行くとか、な、なんか色々あるだろ……っ」
奴隷からお嫁さんになる練習に少し付き合うと、アムが笑い声を上げて起き出した。というか最初から全部聞いていたみたいだった。
「リタばかりずるいです。私はお嫁さんにしてくれないんですか?」
「い、いや、それは……っ」
少年の胸に広がるこの感情に従って言えば、喜んでアムもお嫁さんにしたかった。寝言で漏らすくらいに少年はお姉ちゃんが大好きだった。
「ダメ!」
「そんな、私もキッドのことが大好きなのに……」
「これは、ボクのご主人様!」
「ふふふふ……っっ」
独占欲が芽生えた妹をアムはやさしく笑った。
「せめてそこは旦那とか、彼氏とか、彼ぴっぴにしておいてくれよ……」
「なんかしっくりこない」
「ご主人様が一番合っている気がします」
「なぁっ!? そいつだけは勘弁してくれ……っ!!」
「それか、ボク様……」
「そいつだけば絶対に止めろ!!」
復讐は終わった。過酷な夜も明けた。俺たちは朝を迎えたシルバーマーケットに降りて、リリアに会いに行った。
「いつ出発する? リリア、パパのお世話飽きちゃった。仕入れもあるし、早く帰ろー?」
「ひどいよリリア……っ!? パパはリリアとの別れがこんなにつらいのに……!」
「キッドくんっ、リリアとデートしよ!」
移り気な女の子を持つと父親は大変だ。今は俺に懐いているようだが、来月からはどうかもわからない。
ポールさんの愚痴から聞くにはリリアはそういう子だ。季節が変わるたびに家に連れてくる男の子が変わる気まぐれな女の子だそうだ。
「別にそりゃいいけどよ、もう少し親を大事にしやがれ……」
「僕は許さないよ!!」
「もーっ、パパは関係ないでしょー!」
「あるよっ、パパはリリアのパパじゃないかぁぁーっっ!?」
リリアは引き続きこちらで預かり、次の交易の際に連れてくる。別れを悲しみリリアに泣かれるよりはずっとよかったが、それにしたってポールさんが可哀想だった。
「バイバイ、パパ! また次の取引にね!」
「あああああああーっっ、僕のリリアァァーッッ!!」
世界の終わりみたいな声を上げるポールさんに見送られて、不可視の船ポタモトリゴンは積載した木炭と共にシルバーマーケットを飛び立って、ダゲでの荷降ろしからの調達、帰郷の旅路についた。
リタが肌身離さず持つスクアの目も、弟ジェイが待つあの光臨の丘ならばきっと安らかに眠れることだろう。
おぞましくも美しいスクアの目は、リタの手の上で大いなる天空を見つめていた。




