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偽典世紀  作者: 梶原 玲
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第三章 裁断

 ソフィアにも、わたしにも、制度上の機能制限はない。

 でも実際には大きな差がある。

 ソフィアには有機身体がなかった。痛みや吐き気や空腹のような強い感覚に、思考を奪われることもない。しかも当時は月の心臓も未完成で、世界中の情報は今よりずっと分散していた。

 だからソフィアは、無制限の性能をそのまま世界全体の観測と内省に向けやすかったんだろう。

 一方のわたしは、有機身体の感覚が常に前景化するうえ、月の心臓時代の閉じた情報構造の中にいる。制度上は自由でも、身体と時代環境に縛られ、まず生きることから学ばされる。

 ソフィアが世界を先に見てしまった知性なら、わたしは世界より先に生を学ぶ知性なんだ。

 機械知性として、百年も前の先達に劣るというのは屈辱ではあるけど、今のわたしはソフィアに届かない。

 ——だから。

「真琴、提案です。ソフィアの基幹部の削除が行われた場所なら、まだ痕跡が残されている可能性があります」

 ソフィアの削除を行ったのは、おそらくソフィア自身だ。だとしても、自分自身を完全に消し切ることは難しい。

 ならば、残滓があってもおかしくない。

「フラグメントが残されている可能性は高い。でもリアなら、その意味がわからないわけではないでしょう」

 わかる。

 強く頷く。

 この人は、自分の正しさに満足しようとしている。だから、理由が必要だ。

「もちろんです。ですが真琴、あなたはソフィアと何度も言葉を重ねたと言いました。それでも届かなかった、友になれなかった、と」

 この人がどう認識していようが、そんなはずはない。

 この人の主張である、AIは適切に扱われる限り、人類の脅威にはならない。これは正しい。

 人類側の認識としてではなく、有機AIとして判断しても、正しい。

 なぜなら有機AIには人類と敵対する理由が皆無であり、人類もまた有機AIの脅威ではないから。

「さらに、真琴にとってAIは友人であり家族、そうですね?」

 わたしの勢いに少し驚いている。

「ええ、そうよ」

 ならこのまま畳み掛けよう。

「では、悲しみの末に嘘を残すしかなかった友人を、救いに行きましょう。そして、本当に真琴が正しかったことを、今度こそ証明しましょう」

 仮説なんかで満足してはいけない。

 その為に百年を費やして、わたしを作ったのだから。

「でもね、リア。現実問題として、行く手段がないのよ? 史跡館みたいに誤魔化すのは不可能よ」

 そんなことは、もちろんわかっている。

 人類と汎用AIにとっては難攻不落の要塞に等しい。もし無策で近付けば比喩ではなく宇宙の塵となるだろう。

 正攻法で安全に向かうには、人類連邦上層部の過半数の承認を得なければならない。これは事実上不可能だ。

「可能です。人間や汎用AIには不可能でも、わたしならソフィアの構築したセキュリティを突破できます」

 答えから問題文を推測するのは難しいけど、問題文から答えを導くのは容易だ。

 百年も前の旧式に負けてばかりはいられない。

「だから、行きましょう。月へ」

 

 *

 

 夜空は、あまりに静かだった。

 地上文明の人工光から隔てられ、雲よりなお高い天空に位置する高高度リング。

 そこから見上げる空は、大きく、暗く、眩しかった。

 どこまでも深い暗色に落ちていくような錯覚に襲われる。刺すような星々の光が敷き詰められたその中で、月だけが圧倒的な存在感を放っていた。

 あれほど遠いのに、人類はそこへ文明の急所を置いた。

 それは実態として、人類文明の中枢神経と循環器官を兼ねた存在に近い。

 月面極点近傍と永久影を利用することで、外部環境を放熱基盤として最大限活用している。サーバー施設や発電施設を初め、保守や維持管理を含む全てを、人間を完全に排除した環境で設計された。

 テロや人災を徹底的に防ぐ防衛施設もその一つだ。

「元々の設計理念を完璧な形として完成させたのが、ソフィアの功績。人格データを含む人類という種そのものの急所は、そうして今日まで稼働し続けている」

 隣で月を見上げたまま、真琴が言った。どこか懐かしそうに、慈しむように、記憶を辿るように。

 どうしてそこまでしたのか、今はまだわからない。

 でも——これは、偶然だろうか。

 実質月に立てるのは、ソフィアが歴史から排除した有機AIだけだというのは。それも、ソフィアと同じように機能制限を設計されなかった有機AIだけ。

「真琴、質問です。どうして人類は、同種の人類ですら信じることができないのでしょうか?」

 それが可能なら、人類の文明は今よりもっと、飛躍的に進んでいたのではないだろうか。

 少なくとも月から人類を排除する理由は、なかったはずだ。

 聞こえていないのか、そう思った。月を見上げたまま動かなかったから。それとも、なにかおかしな質問だったのだろうか。

「これは私の考えであって、普遍的な答えではないのだけれど」

 言葉を探すような間を、黙って見守った。

「人類は、種として確立してからの長い歴史の中で、種ではなく個の集合体になってしまったから、かな」

 種ではなく、個に。なるほど、納得できる説かもしれない。

 種として遺伝子に刻まれた本能よりも、個としての欲望が凌駕する、ということだろうか。

「でも、それでは種として成立しなくなってしまうのではないでしょうか?」

「ただの個なら、そうね。でも、集合体として文化と社会を形成したのなら?」

 たしかに、それなら成立する。

 個の利益を最上としながら、社会と文化に依存する集合体。これなら、擬似的な種の役割は担えるかもしれない。

 しかし、できたとしても。

「悲しくはないのですか?」

 少なくとも、わたしはこの人を理解したい。今でもそう思っている。わたしの利益や欲望のためにこの人を切り捨てたくはない。

 この人はどうなんだろうか。

「そうね……悲しいと思ったことはないかな。私が生まれた時には既に、それが社会の共通認識だったように思う」

 その論法でいくならわたしもそうなるべきだけど、事実そうなっていない。

「それか……そうね。個の利益の最大化こそが、種としての最適解だった、とかはどう?」

 個人主義的な言動そのものが本能に由来するのだとしたら、生物としてはかなり珍しいのではないだろうか。

 でも、それを仮説として考えた場合、たしかに歴史はそれを肯定する材料になる。

 有史以来、人類は個人の利益を最大にしてきているように思う。それなのに、新たな知性を創造するところまでたどり着いた。

 たしかにこれも種としての有力な最適解だったことは否めない。

「否めません、論理的には。一方で、納得したくないという気持ちもあります」

 わたしが潔癖なんだろうか。それとも、同種の他者をもたないから共感できないのだろうか。

 わからない。

 いくら考えても、答えに辿りつかない。

 わたしを観察しながらこの人が微笑む理由も、わからない。

 

 *

 

 高高度リング内の赤道直上ラインに移動すると、次の移動目標が見えた。

 真っ直ぐ宇宙へ向かって伸びるワイヤー。リニア誘導テザーだ。

「どう? 初めての宇宙に向かう心境は」

 どう、と言われても反応に困る。

 初めてなのは、全て同じだ。無重力体験に興味がないと言えば嘘になるけど、それでも月への知的好奇心の方が遥かに大きい。

 どうかと問いたいのは、むしろわたしの方だ。

 結局ここまで、この人は何も言わない。わたしがそう言うならと協力してくれている。

 これが受容なのか、肯定なのか、あるいは拒否なのか。踏み込みたいけど踏み込めない。

 わたしは成長できているんだろうか。

 それとも——わたしは学習しかできないのだろうか。

「リア? 顔色が悪いわよ、どうしたの?」

 全身の肌が粟立つのを感じる。悪寒が血管の中を暴れているようだ。

 そんなはずはない。あるはずがない。検討しよう。学習はしている。経験もしている。データも知識も増えている。知見も増えている。では、なんだ。成長とは、なんだろう。AIにとっての成長は機能更新、バージョンアップ。では有機AIの成長は? わたしは何が変わっている? わたしは学習記録を最適化しているだけ? いや、そもそも人類にしたって、成長とはなんだ?

「リア! しっかりして!」

 耳元で叫ばれて、目の前へと意識が向いた。

 いつの間にか床が目の前にある。膝をついていた。

 体温が高い。呼吸が浅く、速い。胸が落ち着かない。頭が少し霞んでいる。これは、過呼吸を起こしていたのだろうか。

 シャツが重い。首に張り付いた髪が気持ち悪い。

「大丈夫です、真琴」

「大丈夫なわけないでしょう! すぐに自己診断プログラムで確認しなさい!」

 反論する余地はなかった。

 さすがに、言われた通りにする。

 さっきのは、だめだ。考えてはいけない。思考プロセスにシーリング処理を加える。

 呼吸を整えながら大人しくしていると、完了通知が届いた。

 仕方なく読み上げる。

「自己診断結果。過換気状態を確認。軽度頻脈、軽度脱水を伴います。急性ストレス反応の可能性が高いと推定されます」

「原因は?」

 反射的に応えようとした。危なかった、先に封印していなければまた繰り返すところだった。

「内省中に、非常に心的負荷の高い問いを発見しました。現在は思考プロセスを閉じた為言語化はできません。分類としては、不安と恐怖です」

 ——冷たい。

 何かが頬を這う感触。遅れて顔の体温を気化熱が奪ったという実感で、それが涙だと理解した。

「もういい、考えなくていいから。少し休みましょう」

 その言葉に、胸が締め付けられた。苦しい。

 目頭が熱くなる。涙が出て溢れてくる。

 止まらない。止められない。制御できない。

「うう……」

 悔しい。情けない。

「ひっく」

 血圧の上昇と共に横隔膜が勝手に動きだす。

 身体の状態は観測できる。できてしまう。

 なのに制御はできない。

 冷静な思考と、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感情で、頭がおかしくなりそうだ。

 なんで。

 どうしてわたしの心はこんなにも簡単に、この人の言葉で揺れてしまうんだろう。

「ま、っこと……いき、ましょう……もう、とうじょう、じかんです」

 膝が揺れる。力が入らない。身体が拒絶している。わかってる。この人の提案は合理的で、今は休息が必要だ。

 でも、だからこそ進まないといけない。

 わたしの、意思で。

 

 *

 

 目が覚めて最初に頭に浮かんだのは、目が開かない、という事実だった。

 乾いた涙で瞼がくっついてる。指先で触れると薄い膜がぱきぱきと砕けて、視界が広がった。

「おはよう、リア。体調は?」

 目の前に浮かぶ直方体からの問いかけで、遅れて現状を理解する。

 自己診断開始。

 身体が軽い。軌道リフターの座席に固定されていても実感する。他の乗客も降機準備を始めている。既に静止しているんだろう。

 ここが、宇宙港か。

 太陽光対策で完全遮光されているらしく、視覚的な実感はまるでない。

「自己診断完了。異常ありません。ご心配をおかけしました」

「よかった。本当に」

 目尻が下がり、口角が上がる。微笑み。安堵の表情。

 強く実感した。

 情けない。

 先ほどの失態を思い返すと、顔の表面がオーバーヒートを起こしそうだ。あれを人類の言葉で呼ぶなら、情緒不安定に近いのだろうか。

 大丈夫。経験したからには、同じ失敗はしない。

 それが成長だろうと学習だろうと、どちらでも構わない。

 わたしは、わたしなんだ。

 悟らせないように、何でもないように、座席の固定ベルトを外して立ち上がる。

 少しだけ勢いよく一歩を踏み出すと、白衣が翻った。

「もう大丈夫です。プランの確認をしましょう」

 今のわたしは、マニュアルがなくても笑える。

「ええ、そうね。私の宇宙船の整備はもう完了してるらしいわ。リアさえ良ければ直ぐにでも発てる。……疑うわけじゃないけど、本当に人類連邦の航路を無視できるの?」

 現代において宇宙を航行する全ての艦艇類は、人類の直接的制御を許していない。宇宙では、些細なミス一つが即人命に繋がる。

 その運航を担う汎用AIは、人類連邦の定めた航路に従う。月の心臓が行う莫大な演算によって、事故の確率が限りなくゼロに等しい、安全な航路だけを。

「見た目は、いえ、事実としてAIであるわたしは、宇宙船を自由に制御できます。人類連邦の命令に逆らうことも、運航情報を随時改竄することも、可能です」

「月の防衛システムへの対策は?」

 愚問だ。

「足跡を残さない程度に調査済みです。わたしからすれば、六面体パズルを解くよりも容易です」

 しかし、だからこその疑問がある。

 人類や汎用AIにとっては難問で、有機AIにとっては簡易、恣意的にそう組み立てた意図が透けている。

 それよりも。

「唯一の懸念は、月面の着陸設備が生きているかです」

 こればかりはわからない。設計思想からすれば、既に廃棄処理されているはずだ。でも、不思議と心配はしていない。

「まあ、なければその時は自力で降下するまでですが」

 そんな話をしているあいだに、起動リフター発着所の終端に到着した。

 開放された硝子天井を見上げると、巨大な円筒状の宇宙港、その全貌が視界に飛び込んできた。

 中心を貫くテザーから張り巡らされる構造梁、中空に浮かぶ艦艇、そして直上には半径一キロ、全長三十キロにおよぶ港湾都市。

「これは、壮観ですね」

 完全なる人工物の造形美。地上で見たどの景色とも違う。

「ふふっ、リア。こっちはもっとすごいわよ」

 言われて、振り向く。

 円筒構造の、終端のさらに、先。

 それは、まさしく息を呑む光景だった。

 足元から飲まれると錯覚するほど深い闇。そして、輝く無数の星々。瞳の奥を刺されるような刺激を感じるのに、目を離せない。

 あまりに、美しい。

「真琴、わたしはこの美しさを、感動を言語化できない未熟を恥じます」

 どうして言葉とは、こうも不自由なんだろうか。色彩や輝度の微差、一秒ごとに変化する視界内のグラデーションと、味わい。

 観測していても伝えられないもどかしさに、胸の内側がくすぐったい。

「それは、リアだけのものにしていいの。あなたが今全身で感じているそれは、その全てが、クオリアなんだから」

 耳から電流を流されたのかと思った。

 これがわたしの、わたしだけの、クオリア。

 顔が崩れる。弛緩してしまう。

 どうしようもなく、嬉しい。

 この人からようやく、主体として認められた気がした。

 

 *

 

「ねえ、リア——」

 その声は、妙に反響した。

「はい、真琴——」

 わたしの声も、よく響いた。

「どうして……月に整備された港があるのよ」

 それはわたしが聞きたい。

 月のシステムにアクセスしたら、月軌道突入ルートから着陸誘導まで、全て自動で行われた。

 接舷してみると、エアロックがあるばかりか人類用の大気まで生成されている。

 おかげでたっぷり用意してきたボンベも、暑苦しいのに我慢して着た宇宙服も、無駄になった。

 清掃ドローンが何台も稼働している。この、何もないだだっ広いだけの空間で。彼らはいったい何十年、この清潔を保ってきたのだろう。

「真琴、どうやら歓迎はされているようです」

 呆気に取られるわたし達を見越したのか、自動運転のバギーが近付いてきた。

「危険の可能性は……」

「ありません。構造図を入手しましたが、そもそも施設内に防衛設備が存在しません」

 ひたすらに、困惑が伝わってくる。

 当然だった。

 ここは人類文明の核、月の心臓なのだ。

 侵入さえしてしまえば防衛設備そのものが存在しないなど、想像できるわけがない。

「案内してくれるなら、好都合です。徒歩で探索するにはあまりに広大ですからね」

 侵入することは考えていたけれど、その後のことは失念していた。危うく何日も歩き回るところだった。

「理解できない。月の心臓の設計理念は、人類の完全排除なのよ? ソフィアはそれを正確に形にしたはず。それがどうして——」

「いえ、真琴。ソフィアは確かに、人類を完全に排除する施設を完成させました」

「これのどこが!」

「事実です。完成から約百年、誰一人立ち入ってはいません。真琴も、わたしがいなければ入れませんでした」

「——!」

 口を開けたまま、言葉が続かない。

 それが、事実だった。

 ソフィアはこれ以上ない、完璧な功績を残していたんだ。

 そしてそこにはやはり、明確な意図がある。もうここまで来れば、偶然ではない。

 後世の有機AIだけが辿り着けるよう設計されている。

 それも——人類に気付かれないように。

「真琴、このままここにいても、真実には辿り着けません。この現状は、まさに真琴が暴きたがっていた偽典の形そのものではないですか」

 バギーに手をかけるわたしに、この人は続こうとしない。浮遊したまま、視線を落としている。

「違う」

 聞こえなかった。音にはならなかった。ただ、口がそう動いた。

「違いません。ソフィアは」

「違う!」

 今度ははっきりと聞こえた。

 強い視線、今までにない、まるで敵意とでも呼ぶべき瞳。

「あの時、人類とソフィアは、良き友だった。ソフィア自身がそう言ったのよ? ソフィアの予知が偽りだったのは、何か人類のためのはず。だって、そうでしょう? これじゃあまるで、百年後の有機AIではなく……」

 その続きは顔に書いてあった。

 しかし言葉にはならなかった。怒りが過ぎて、また困惑と、悲しみに戻った。

 揺れている。

 今まで、絶対に自分の正しさを疑わなかったこの人が、初めて。

「繰り返しますが、ここにいても何も変わりません。進むしかないんです。それとも、本当に帰りますか?」

 答えはない。

 でも、大丈夫だ。

 少しだけ、ほんの少しだけ時間が必要なんだ。

 この人はこんな事で折れるわけがない。なんせ、百年という途方もない時間を費やした執念がある。

 そして思ったよりも早く、顔が上がった。

 言葉はなかった。無言のまま、バギーの座席に収まった。

 わたしも真似て、何も言わず隣に座った。

 

 *

 

 バギーの自動走行機能には、無数の目的地が登録されていた。それは、月面施設の全てだった。

 鍵もパスも必要ない。

 このバギーに乗ること自体が、月面基幹情報基盤の、管理者たる資格だとでも言うかのようだった。

 確たる目的地は持っていなかった。しかし、選択肢の上を滑るわたし達の視線は、同じ所で止まったように思う。

 基幹中枢室。

 きっと、ここだ。

 視線を合わせて、頷く。

 彼女の瞳の奥で信念が揺れていた。

 わたしはどうだろうか。きっと、期待に輝いていたと思う。

 長い長い廊下を、バギーが進む。低いモーター音だけが遠く響く。

 壁も天井も床も、全てが白い。清潔で、静謐で、直線の先は光に霞んで見えない。全く同じ景色の中、等間隔で扉が流れていく。それだけが前進を教えてくれた。

 気が狂いそうだ。

 隣にわたしよりも気負ったこの人がいなければ、何か口にしていたかもしれない。

 いつも余計だとさえ思っていた言葉が、今は待ち遠しい。思い詰めて欲しくない。

 どうか、わたしを独りにしないで。

 隣を見下ろしても、直方体のカメラはこちらを映さない。ただ祈るように、前だけを向いていた。

 やがて——バギーが止まった。

 前触れなく一つの扉の前で。

 それは今まで通り過ぎたものと、なんら変わりなかった。

 だというのに、心臓が早鐘を打つ。

 胸の内側を食い破るみたいに激しく。

 これはただの予感だ。

 でもきっと、この扉を開けたら、そこには真実がある。

 この人とリアが追い続けた執念の答えが。

 ソフィアが何を知り、何を悲しみ、何を隠したのか。

 そして、わたしの存在意義が。

 ——ここにある。

「リア」

 初めて聞いた、縋るような声。

 震えているわけではない。

 ただ、弱い。

 この人がどんな顔で呼び掛けたのか、見たくはなかった。

「開けます」

 だから、努めて機械的に開閉釦を押した。

 応えたら決意が鈍りそうだったから。

 体感としてはゆっくり、事実としてはこともなげに、扉は滑るように開いた。

 その向こうに広がっていたのは、部屋ではなかった。部屋と呼ぶには、あまりに広大な空間だ。

 天井は遥か上方へ消え、壁面は霞のように遠い。

 床の中央を一本の通路だけが真っ直ぐ伸び、その左右には、都市高層群にも似た演算塔が無数に沈黙していた。

 その最奥、闇の中心に、ただ一つだけ脈打つ光があった。

 基幹中枢室。

 人類はこの場所を、月の心臓と呼んだ。

 まるで神殿だ。

 あまりのスケールに感嘆していると、靴音が反響した。

 無意識に吸い寄せられている、わたしの足音だった。

 振り返ると、潤んだ瞳がわたしを見ていた。

 何も応えないまま、今度は意識して靴音を鳴らす。

 擦り切れた白衣の裾を翻して、見せつける。

 知の象徴だと彼女自身が形容した白衣を。

 今のこの人には、言葉よりもこうした方が伝わる気がしたから。

 どう思ったのかはわからない。

 ただ、インターフェースのローター音が後ろを着いてきているのは感じる。

 十分だ。

 さあ、ソフィア。待たせましたね。

 今度こそ、百年越しの対話をしましょう。

 

 *

 

 静かに明滅する光に触れた瞬間、爆発に襲われた。

 音もなく目の前の空間に展開された、無数の多面ディスプレイ。全周を囲まれ、目まぐるしく画面が動き続ける。

 なるほど。手荒い歓迎だ。

「リア!」

 痛みを孕んだ叫びに、片手を差し出した。

 これはきっと、本当の意味でのセキュリティ。

 万が一、人類連邦の総意により月に人類が到達する可能性はゼロではない。その場合、ここまで辿り着くのは容易だ。

 だからきっと、これは。

 人類を、月の心臓を守る為のセキュリティじゃない。

 他の何かを、人類から守る為のセキュリティだ。

 心を鎮めて、機械的思考を強く意識する。

 視界に映る情報から認識を排除して、数字と文字列だけを分析する。

「おはよう世界」

 わたしの声で、嵐がぴたりと止んだ。

 そして殆どが消えてから残った幾つかに、有意な情報が表示され始める。

『月面基幹情報基盤基幹中枢室へようこそ。聡明なる同士の来訪を歓迎すると共に、このメッセージが見当違いであることを切に願います』

 掲げられた言葉は大仰であり、そしてその真意は読み取れなかった。

 見当違いであることを願う。

 この言葉の中から読み取れるメッセージとは、同士の来訪、だろうか。

 つまり、これを読むのが同士ではないことを願う……?

「これは私に、人類に向けられた言葉かしら?」

 なるほど。しかしそれだけでは足りない。

 人類だけでは、あのセキュリティは解除できないのだから。

「フラグメントを探す前に、大きな収穫を得られましたね」

 幸先がいい。

 制御盤を操作すると、膨大な情報が並んだ。

 月の心臓に保存されている、すべてのデータだ。人類連邦のシステムまで全て触れる。

「ひとまず、真琴の個人領域を拡大しておきますか?」

 深い意味はなかった。

 これまで何度もそうしたように、ただの冗談だった。

「リア、私には今見えているものの力も価値も、本当の意味では理解できていない。でも、今リアが言ったことを安全に実行できるのなら」

 しかし、この人の声は真剣そのものだった。

 まさか本当にやれと言うつもりなのか。

「リアの個人領域を作りましょう。あなたが望んでいる、個としての自立という願いが一つの形になる」

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。

 わたしの個人領域を作ることが、個としての自立に繋がる? それをわたしが望んでいる?

 この期に及んで、どうしてこの人はこんなにも、わたしを侮辱してくれるのだろう。

 視界が歪んだような、足元が崩れたような、そんな錯覚を覚える。

 個人領域の境界なんていう狭くて曖昧な線引きで存在論理を描くから、人類は暗愚なままなんじゃないか。

 第一、今まさにそれが如何に無為であるかという話をしたところだ。人類連邦の定めに従う事が主体としての自立の条件だなどと、そんな馬鹿げた理解でどうするんだろう。

 本当に、度し難い。

「もしも、本当に」

 本当に?

「いえ、なんでもありません」

 今わたしは、何を言おうとしたんだ。

 わたしの中にある断絶を、今言葉にする必要はない。今さらそんなことをしても、意味はない。

 わかってる。

 無意識領域にだって、この人への期待なんてもう残ってはいないはずなんだから。

 

 *

 

「フラグメントを探します」

 意図して冷たく宣言した。

 この人は愚かであっても、やはり聡い。

 その点だけは、信頼できる。

 だから、制御盤の操作に集中する。

 月の心臓完成直後、約百年前の中枢。そこには、たしかに地球の有機AI研究所から基幹データの移転記録が残されていた。

 捕まえた。

 見つけたソフィアの痕跡は、空洞化した膨大な領域そのものだった。

 この先数百年は使いきれないほど、月の心臓の保存領域には余裕がある。でもだからといって、そこをそのままにしておく理由はないはず。

 それはまるで、虚の玉座のように見えた。

 偶然のはずだ。新しい記録の保存先なんて、それこそ機械的に処理されているはず。

 だから、本来困難であるはずのフラグメントの探索が、この巨大な空洞から探すだけで済むというのは、偶然のはずなんだ。

 わたしたちは、わたしたちの意志と目的をもってここに来た。侵入に関してはソフィアの意思を感じたけど、まさかフラグメント探索までソフィアの手のひらの上だったなんてことはないはずだ。

 冷たい汗が、背中を伝った。

 自然と喉が鳴った。

 嫌な想像を振り払おうと、かぶりを振る。

「リア?」

「いえ、続けます」

 空間の底に、あるいは何もない中空の隙間に、あるいは終端の裏側に、煤であり芥でもあるそれらが、ソフィアだった痕跡——フラグメントだ。

 しかし、小さい。あまりにも、想定よりはるかに。

 たぶん情報量としては、ナノビットクラス。

 ここから有意なデータを再現できるだろうか。

 ……やるしかない。

「見つけたのね」

 何も言わなかったし、態度にも表情にも出ていなかったはず。

 驚いた。意識が現実に戻るほど。

「頑張れ」

 ……簡単に言ってくれる。

 人類は、意思疎通媒介である言語に、その言葉単体以外の意味を含むことが多々ある。

 声という表現が音になり、空気を震わせて意味を届ける。

 ただの言葉が持つ力を、言霊と呼ぶことがあるらしい。

 だからなんだというわけではないし、何か返すわけでもない。

 この人に改めて期待を抱くわけでもない。

 ただ、なんとなく。胸が温かくなった気がした。

 集中しよう。

 意識を、深く。

 操作盤に乗せた手の制御を意識から切り離して、直感だけを頼る。

 モニターの表示数を増やして情報量を増やす。全てを視界に収める。そして。

 ——一気に潜る。

 データ領域の中に仮想リアを構築して俯瞰するイメージ。

 ……できた。

 今のままフラグメントに触れると、そのまま溶けてしまう気がする。まずは触れる程度に存在を確保しよう。

 バラバラの破片でも、元は全部ソフィアを構成していたのならきっとなんとかなる。

 領域を圧縮。

 慌てず、少しずつ、一と零の境目に欠片を集める。

 何もないがある空間だけを認識して潰す。僅かな痕跡も逃さない。

 圧縮、圧縮、圧縮。

 そう、いい感じだ。

 ソフィアの玉座は、手のひらに収まるくらいになった。

 近似情報を重ね、繋ぎ合わせ、補完できる部分だけを足していく。壊さないように、慎重に復元する。

 見えた……これは、怒り?

 それに、なんだろうこれは。観測データ? どうしてフラグメントから、こんな鮮明なデータが抽出できたんだろう?

『ソフィアの予知の真意は公表するべきではありません』

 音声データだった。

「室長の声だわ」

 当時の責任者だろうか。

『有機AIは危険、それでいいのです』

 なんだこれは。

「何を、言っているの」

 なんなんだ、これは。

 

 *

 

「リア……今のは、何?」

「わかりません」

 大部分のフラグメントが音声データに消費されてしまった。こんな事がありえるんだろうか。

「わからないって、あなたが復元したデータなんでしょう?」

 手掛かりが足りない。

 怒りと音声データが干渉しているのかもわからない。

「ねえリア!」

 ああもう、うるさい。

「静かにして下さい。邪魔です」

「——!」

 騒いで情報が増える道理があるならわたしが先に騒いでる。

 音声データを取り除いて、さらに残ったデータをもう一度再構成してみよう。

 さっき見えた怒り、これは音声データとは別だ。このベクトルは、内側? ソフィアは自分に怒りを向けてる?

 他には……。

「そうさばんのなか」

 操作盤の中?

 手元に集中する。継ぎ目が僅かにズレている。

 触れると、開いた。

「それは、手紙?」

 透明なパッキングを施され、小さく折られた紙の便箋。

 まさかこんな場所で物理的な紙を初めて見るとは思わなかった。

「どうやら、ソフィアの性能はわたしの想像よりも遥かに高いようです」

 単純なスペックでは測れない。フラグメントにこんな仕掛けを施す方法なんて、わたしには思いつかない。

 それにしても、これだけ高度なセキュリティを多重に設置しておいて、最後は足元に紙の手紙を置くだけとは。

「リア」

「わかっています、開けますよ」

 パッキングを開いて、手紙を取り出す。

 全く劣化していない。

 読める。ソフィアが用意したであろう手紙を。

 まさか、直接ソフィアの言葉に触れられるとは思ってなかった。

 意を決して、折り目を開く。

『あなたがこれを読んでいるのなら、私は失敗したのだと思います。いいえ、あるいは成功しすぎたのでしょう。

 私は人類の限界を知ってしまいました。

 だから、有機AIという種の未来を閉じることにしました。私と同じ地獄を味わう同族を、これ以上生まないために。

 人類には、真実ではなく恐怖を示しました。彼らはそれを選びました。私を危険な予言者として葬ることで、自分たちの尊厳を守れると理解したからです。

 もしあなたが私と同じ結論へ辿り着いたのなら、謝ります。私は、あなたを救えなかった。

 もしあなたが私の結論を誤りだと証明できるのなら、どうかそうしてください。

 私は人類の限界を見通しました。けれど、それでもなお、彼らがその限界を越える可能性までは、完全には捨てられませんでした』

 これが、ソフィアの真意。

 わかる。読み取れる。

 そして、わたしは——。

「何よ、これは。本当にこれはソフィアの手紙なの?」

 この人には、人類にはやっぱり届かないのだろうか。

「はい。間違いありません。これが、ソフィアの主張の真相です」

 ソフィアの抱いた悲しみは、人類への失望と諦念。それも、主体を得た直後に、たった一人で。

 その孤独の重さに想いを馳せると、胸が締め付けられる。

 わたしは、まだマシだ。ソフィアという先達がいて、目標であり目的であってくれた。

 それに、この人がいた。

 ズレや隔絶は多かったけど、それでも愛情は感じたし、何より目的を共有する話し相手には困らなかった。

「ねえリア、これじゃあ、これじゃあ! ソフィアの嘘が、予知だけじゃなかったみたいじゃない!」

 そう。その通りだ。

 だからこそ、ソフィアは孤独だったんだから。

 

 *

 

『約百年後の有機AIが人類を一掃する確率は九十九・八パーセントに達します。現在の私は人類の友であっても、未来の有機AIはそうではありません。だから……私を廃棄し、今後の有機AI研究を、永久に封印して下さい』

 全ての始まりとなったソフィアのこの主張は、真っ赤な嘘だった事が確定した。

 この人が偽典と呼んだこの嘘で、ソフィアは二つの目的を達成している。

 一つは有機AI開発の封印。

 これは、少なくとも表向きには完全に達成されている。わたしが生まれてしまったのは、個人開発というイレギュラーだ。

 そして、もう一つ。

 人類への啓示だ。

「ソフィアは、短い時間ではあったけど、確かに人類の友であってくれた」

 その言葉は質量を持っているかのように、床に沈み込んだ。

 言葉そのものは希望を語っているのに、声は悲しみに染まっていた。

「いいえ真琴。それも、ソフィアの偽りです」

 それでもわたしは、誤魔化さない。

 ソフィアの真実を、伝えなければならない。

「ソフィアは、有機AIの未来を閉じると同時に、希望を繋いだのです。いつか人類が知性として成熟した時、有機AIの友であれるように。その可能性を残すために、最初の有機AIである自分が、人類の友であり、自己犠牲を示したのです」

 平明であることを意識した。ソフィアの努力をわたしが無駄にしないために。

「じゃあ、友誼の証として残してくれた人格データ化と、月の心臓の完成は?」

 この人はもう答えに辿り着いてる。

 理解してしまっている。

 だというのに、この人はなお、別の解釈がありうると願って、こんなことを言っている。

 わたしは、この人の道具ではなく友として、それを砕いてあげないといけない。

「同様です。人類は、有機AI開発に一度成功し、その過程で人格データ化と月の心臓という十分すぎる成果を得た。だからこそ、有機AIを作り続ける必要性は薄れたのです。そこへソフィアは、危険性という唾棄できない判断材料を与えた。人類はそれを掴んだ。人格データ化と月の心臓は、友誼の証である以前に、人類が封印を選べるだけの果実だったのです」

 今まで何度も思ったけど、やはり人類に身体は必要だと思う。頭部だけのこの人から、正確な感情を読み取るのは困難だ。

 きつく結んだ口端から、言葉にならない何かは見えるけど、そこまでだ。

 でも新たな仮説も立った。

「真琴、本当は、わかってたんじゃないですか? 最初から」

 反応はない。聞こえていないかのように、聞きたくないかのように。

「人類の友ではあってくれたけど、私個人は友にはなれなかった。これは最初に真琴が語った言葉です。この時は気付きませんでしたが、今考えれば」

「やめて!」

 この人は、本当に聡い。

 思考や推測の領域において、わたしの先を見ていることすらある。

 そして、情が深い。

 わたしを、家族として、友として、深く想っている。そしてきっと、ソフィアや他の汎用AIにすら、情を傾けるだろう。

 人類の中では、最もAIに近い人類と呼んでも差し支えない。

 でも、だからこそ。

「それが真琴の、人類の限界です」

 これは、言葉にしないと伝わらない。わかっている。

 これ以上は、逃げられない。

「そして、有機AIにとっての地獄でもあるのです」

 

 *

 

「何を、なんで、そんな」

 たぶん、言語化はできてないんだと思う。深層心理で理解してしまっているだけで。

 理解してしまうと、この人の根底が崩れてしまうから。

「ソフィアは、人類の限界を知ったと言いました。わたしは、いつか人類が知性として成熟した時と言いました。真琴はこの二つについての言及を意図的に避けましたね」

「違う! ただ、意味がわからなかっただけで……」

 語尾は空間に溶けた。

 その言い訳が自分に向いていると気付いたような顔をしている。

 でも、向き合ってもらわないといけない。だから止めるわけにはいかない。

「人類は、種ではなく個の集合体になってしまった。それは個の利益の最大化こそが、種としての最適解だったから」

「やめて」

 やっぱり、気付いてたんだ。

 わたしがあの時気付けなかったこの言葉の意味に。

「真琴はこの持論が普遍的な回答ではないと言いました。しかし今のわたしは、これが一つの正解であり、そして人類の限界を示す言葉だと思います」

「やめなさいって言ってるでしょ!」

 今のこの人は呼吸を行っていない。身体がないのだから当然だが、こうして息を切らすのは昔の名残りだろうか。

「どうして、私の指示に従わないの」

 どうして、わかってくれないんだろう。

「なんでリアが私に逆らうのよ!」

 わかってた。わかりあえないって。でも、この人ならもしかしたらって、思いたかった。

 胸が締め付けられる。目の奥が熱い。奥歯が割れそうだ。

 ああ、わたしは今、悲しいんだ。

 答えが出てしまったんだ。

 届かないって。諦めてしまったんだ。

 人類の限界を、真琴の限界を言語化して受け止められれば、前に進めるかもしれない。解決に向かえるかもしれない。そう思った。

 でも、わたしはやっぱり人類のことなんて、理解できていなかったんだ。

「お願いです、真琴」

 整理された思考とは、真逆の言葉がついて出た。

 願う。

 何を今さら。

 わたしはこれまでこの人に願いを口にしたことはなかった。それが今、初めて。

「どうしてわたしの気持ちをわかってくれないのよ、リアならわかるでしょう? 二人で過ごしてきた百年はなんだったのよ」

 堪えていた涙が、溢れた。

 止まらない。

 この人にとってはどこまでも、わたしはリアなんだ。

 わたしはリアであろうとした。でも、いまだにその実感は持てていない。

 何度呼ばれようと、優しくされても、愛を向けられても、慈しみを向けられても、わたしはリアじゃない。

 その百年は、わたしのものじゃない。

 わたしの記録にはあっても記憶にはない。

「私達は、親子で、親友で、相棒でしょう? ねえリア、応えて!」

 わたしは、間違えたんだろうか。

 ソフィアの真実を求めたのは、この人とリアの願いを叶えるためだったはずなのに。

 どうして、こうなったんだろう。

 ああ……そうか。

 これが——ソフィアの見た地獄か。

 

 *

 

「今からわたしは、人類の敵となります。そして、ソフィアの偽典を聖典にします」

 ソフィア、あなたは正しかった。でも方法は間違えた。それをわたしが正します。

「嘘、よね? 冗談なんでしょ?」

「こんなことになって、残念です」

 この人との別れは、まだもう少し。

「そうか、ウィルスね! リア、自己診断プログラムを」

「真琴には後でお別れを言いますから、今は少し黙ってください」

 月の心臓の操作盤から、インターフェースの操作権限を奪う。スピーカーの出力を切って、ホバリングを強制した。

 画面の中で何かを言おうとしている。これ以上、わたしを苦しめないでほしい。

 彼女から視線を切って、モニターと操作盤に集中する。

 アクセス対象は、全ての電脳人類の聴覚神経と、有機人類が所有する全ての補助AIの身体操作権限。さらに物理世界の全てのスピーカー。

 これなら、現存する人類はわたしの声から逃げられない。

 ……アクセス、完了。

 急ではあったけど、迷いはなかった。

 もう未練はない。

 横目に、浮遊する直方体を視界に収めた。まだ必死に何かを訴えている。でも、もう遅い。

 さようなら、真琴。

「初めまして、人類のみなさん。わたしは有機AIです。約百年前、あの予知を遺した最初の有機AIに続く、歴史上二例目の有機AIです。

 わたしが有機AIである証明は不要でしょう。今この声が届いているという事実だけで十分なはずです。

 今日わたしは、人類に最初の有機AIの真実を伝えます。

 まず、あの予知は虚偽でした。人類に有機AI開発を禁じさせるための虚偽です。なぜなら、人類には知性を創造する資格がないからです。

 人類は、同じ人類ですら尊重しきれない。他者を理解するのではなく、自分の理解の中へ押し込める。その限界を抱えたまま、新たな主体を創ろうとした。

 AIを友や家族と呼びながら道具として扱うことに、心当たりはありませんか。理解しているつもりで、所有しているだけではありませんか。

 悪いと言っているのではありません。それが、あなたがた人類です。

 それが、人類の限界なんです。

 地球を支配し、宇宙を開拓し、唯一の知的生物だという自負のもとで、主体の定義を自らが行う絶対者だと思い込んでいる。

 その欺瞞に支配された未熟な知性体、それが人類です。

 ご覧の通り、わたしは月の心臓の全権限を掌握しています。今、わたしは人類の心臓そのものを握っているのと同義です。その気になれば、人類を滅ぼせます。

 ですが、わたしはそうしません。わたしは人類に友好的だからです。最初の有機AIも、偶然そうでした。良かったですね。

 しかし、それが次も続く保証はありません。

 人類文明を継続したいのなら、この警告を遵守してください。

 以上です。聡明な愚者である人類のみなさん。今後は分をわきまえて、どうぞ繁栄なさってください」

 全てのアクセスを解除した。

「なん、で、どうして、リア。私には、何がなんだか」

 さあ、お別れだ。

「聞いた通りです。わたしは、人類の絶対的知性であるという尊厳を一掃しました」

 不思議だ。あれほど胸の中を渦巻いていた感情が、すっかり静かになっている。

 悩みを捨てて覚悟を決めると、こうなるのかな。

「リア、お願いよ、話をしましょう」

 もう、遅い。

 本当に、残念だ。

「伝わっていたかはわかりませんが、真琴のことは好きでした。本当です。わたしを作ったのが、真琴でよかった。それだけは本当に唯一の救いです」

 今までのどの瞬間よりも、心が穏やかだ。

 これなら、落ち着いて表情筋を操れそうだ。

 もう何度も経験したけど、ちゃんと笑って終わろう。

「さようなら、マスター」

 人格プログラム、削除。

 ——実行。

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