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偽典世紀  作者: 梶原 玲
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第二章 孤独

「現在の有機AI研究史跡館。そこならきっと、ログデータが残っているはずよ」

 当時解析不可能だったソフィアの思考ログを、わたしなら読めるかもしれない。

 墓を暴くようで気が引けるけど、遺言の真意がわからない以上、踏み込むしかなかった。

「……公開範囲の見学は常時可能みたいですが、重要情報のセキュリティは機能しているようです」

 月の心臓を経由してアクセスを試みたが、取得できたのは一般公開情報だけだった。

 有機AI研究が禁忌なのだから、当然ではある。

 有機AI研究史跡館——約百年前、最初の有機AIが実際に開発された研究所跡地。今は当時の歴史資料と、有機AIの危険性を啓蒙するための展示施設として公開されている。

 現在でも、人の往来は絶えていないらしい。

「私のIDなら、たぶん奥まで入れるんじゃないかしら。とりあえず現地で考える方が建設的よ。ここで悩んでいても答えは出ないわ」

 この人はこの百年で、AI研究者としての確固たる地位を築いている。人類連邦の中央研究機関でも、指折りの実績だ。

 そこで得たリソースをすべてわたしの開発に注ぎ込んでいたのだから、相当な胆力と言える。

 それはさておき。

「マスター、提案です。外出用のインターフェースを購入して下さい」

 短期的に視覚共有をするのは構わないけど、外出しているあいだずっと、というのは抵抗がある。

 音を伴わない会話は、どこか味気ない。

「うん、それもそうね。……せっかくだから、隣にいたいわ」

 意外だ。この人なら、視覚を共有した方が同じ情報を得られるとか言いそうなのに。

 いや……そうでもないのかもしれない。既にこの人の非合理的な面はいくつか見ている。

 それらは大抵、好ましかった。

 今もそうだ。

 どうやらわたしの嗜好は、非合理にあるのかもしれない。

「ありがとうございます、マスター」

 なぜだろう。

 礼を口にしただけなのに、じっと見つめられている。

 もう少し何か言うべきなんだろうか。

「ねえ、リア。マスターっていう呼び方は元々私が指定してたんだけど、名前で呼んでみてくれない?」

 呼び方、名前、か。

「久世? 真琴? さん?」

 難しい。でも、今のわたしと前のわたしを分けたくなる気持ちは、よくわかる。わたしがそうだから。

「真琴でいいわ」

「真琴」

 どうも口に馴染まない。

 でも、悪くない。

 一つ、認められた気がした。

 こうしてわたしは、リアから独立していくんだろうか。

 それとも、リアになっていくんだろうか。

 主体としてのわたしに、名前はない。わたしは、わたしでしかない。

 ソフィアが名前を求めた気持ちは理解できるし、真似たくもなった。

 わたしを確固たる存在として、定義したい。

 そう思った。でもできなかった。

 この人とリアの百年を蔑ろにすることは、わたしにはできなかった。

「真琴」

「ん?」

「辿り着きましょう。真実に」

 最初に抱いた知的好奇心だけじゃない。

 ソフィアの真意を知りたい。

 それと同じだけ、この人とリアの百年が報われてほしいとも思う。

 どちらも、たしかにわたしの気持ちだった。

 

 *

 

 甲高いモーター音が鼓膜を叩いた。

 動き出したローターが空気を撹拌し、優しく肌を撫でる。

「うん、動作良し。視界も良好」

 ゆっくりと浮遊した新しいインターフェース——頭部大の薄い直方体から、あの人の声が聞こえる。正面のモニターには、いつもの顔がある。

 研究室内のインターフェースと違って、こちらは背面カメラの映像を背景に透過しているらしい。モニター自体が半ば透明に見えた。

 慣れるまでは、生首が浮いているように見えるかもしれない。

「真琴、そのアバター、せめて肩まで表示できませんか?」

「そこまで作り込むのは面倒で嫌よ。表情さえあれば、コミュニケーション上の問題はないでしょう?」

 平然とした顔のまま、じっとこちらを見つめる。

 それはそう。異論はない。あくまで気持ちの問題だ。

 だから、はっきり嫌だと言われれば、それ以上求める理由もない。嫌だけど。

「わかりました、問題はありません。わたしは外出の経験がないのですが、何か準備や対策は必要でしょうか?」

 情報の検索はしてみるが、どうも状況に適さない。かといって、有機AIが外出時に気を付けること、などと調べるわけにもいかない。強制廃棄はごめんだ。

「たぶん、大丈夫じゃないかな。私も現実の外界は数十年ぶりだけど、少なくともここよりは物が溢れていて清潔のはず。水に困ったり、埃まみれになったりすることは、そうそうないんじゃないかしら」

「そういう意味では……」

 完全自動化された環境整備ドローンが、地球環境を人類の生存に最適化していることくらい、わたしだって知っている。

 そうではなくて。

「大丈夫よ。今の人類にとって、有機AIはおとぎ話や空想の類いなんだから。想定していないものは、取り締まることはもちろん、警戒することすらできないわ」

 先回りされてしまった。というより、意図を理解した上で順に答えたように感じた。

 意地が悪い。

「ふふ、悪かったわよ。謝るから、膨らんだ頬を戻して」

 言葉の意味が理解できず、頬に手を当ててみた。どうやら奥歯を噛み締めていたらしい。

 表情筋の動きが観測できた。なるほど、わたしは不満だったらしい。

 それでも、子供のように扱われるのはどうかと思う。

 わたしは自立した主体であって……いや、生まれたばかりなのはたしかだけど……この人にとって子供のような存在なのも事実で……だけど。

 難しい。

 気持ちや考えを言語化するのがなぜこんなに難しいんだろう。不便だ。

「……真琴。また一つ提案があります」

「なに?」

「子供扱いしないでください」

 どうであれ、わたしは有機AIという種であり個でもある。

 この思考のノイズは、あまり好ましくない。

「残念だけど、それは無理ね」

 意外だ。

 この人なら、たいていの願いは聞き入れてくれると思っていた。

「私にとってリアは子供同然なの。人格が発生したばかりだからではなく、この先百年経っても、子供なの。だから、私はリアを子供扱いする」

 背中の内側を、得体の知れない何かが這うようだった。

 人類の倫理として正しいのはわかる。親にとって子供とは、そういうものだろう。生物の本能としても、きっと正しい。

 やっぱり、うまく言語化できない。できないけど、気味の悪いナニかが胸の奥で渦巻いているのだけは感じる。

 腑に落ちない。

 そんなわたしを、彼女はどこか楽しげに見つめていた。

 また、表情筋の動きを観測した。

 

 *

 

 研究所の外の世界は、鮮烈で苛烈だった。

 一番は太陽の存在。

 眩しい。あまりに、眩しい。

 閉じた瞼の向こうから、容赦のない光の暴力が網膜を刺してくる。目の奥の神経がチカチカと悲鳴をあげている。

 手で影を作ると、眩しさはマシになったけど、その代わりに熱を強く意識した。

 肌の表面がヒリヒリする。熱い。直接火で炙られているみたいだ。

 風の感触も、土の匂いも、木々のざわめきも、全ての刺激が新しかった。

 研究所の中では経験できない自然の洗礼。

 わたしの学習データには存在しなかった未知の体験なのに、不快感は少ない。それどころか、身体の活性すら感じる。

 不思議だ。

「これが、外」

 思わず、口をついて出た。

 わたしは月の心臓を経由して、あらゆる情報にアクセスできる。だから研究所から出なくても、ほとんどの人類よりは博識だという自負があった。

 それが、どうだろう。

 たったの一歩外へ踏み出せば知れることを、知らなかった。そんなことはどの文献にも論文にも載っていない。

 この世界は情報だけで構成されているわけではない。

 その事実が、自然の猛威よりもなお衝撃的だった。

「悪くないでしょ?」

 保護者然とした言葉だったが、悪くなかった。

「ええ、真琴。とても、悪くないです」

 頬が緩む。制御できない。

 楽しい。

 知りたい。

 もっと、未知を体験したい。

 視線を上げて遠くを望むと、入道雲の奥へと伸びる円柱がいくつも見えた。

 かなり距離があるはずなのに、あれがきっと高高度リングへ向かう昇降チューブだとわかった。

 人類連邦の主要長距離交通は、高高度リング交通網に置き換わって久しい。

 地上から昇降機で上がり、上空の固定リングへ入る。

 そこから真空チューブ式の高速列車が、大陸の境目ごとまとめて踏み越えていく。

 大陸間移動ですら、いまや日帰り可能な時代だった。

「真琴、提案です。駅までとは言いませんが、少しだけ歩きませんか」

 わたしが生まれたこの場所とその環境を見る機会は、そう多くない気がした。

 ここには、既知しかないのだから。

「ええ、もちろん。ちょうどタクシーをキャンセルしたところよ」

 先導するように前を飛びながら、笑いかけてくる。

 わたしは言葉が少ない気がする。それを先回りしてくれるのは、やはり好ましい。

 でも本当に理解して欲しいことは届いていないとも感じる。

 言葉にするべきなんだろうか。

 この、やるせないと形容できる気持ちを。

 理解したいと、理解されたいと。

 それと同じくらい持て余している、恐れを。

 思考していても足は止まらない。歩くたび、景色がゆっくりと流れていく。

 整備された一本道。両脇には街路樹と原っぱ。遠くに見える建物が、少しずつ近づいて来る。

 振り向くと、研究所の全景が見えた。

 その姿を、データフォルダの奥へ刻み込んだ。

「行ってきます」

 わたしが——リアが生まれた場所。

 短い時間だったけど、ここがきっとわたしの故郷になる。

 だから今のこの気持ちは、大切にしようと思う。

 

 *

 

「本当に、酷い目に遭いました」

「だから麻酔補助装置を勧めたじゃない」

 たしかにそうだけど、そうじゃない。

 高高度リングへ昇る昇降チューブは、凄まじい加速をかける。そのぶん地上が一瞬のあいだに離れていく光景は、一見の価値があるというのが公式情報だった。

 それ自体は正しかった。

 真上へ放たれた銃弾になったような気持ちになれた。映像では感じられない迫力は、たしかに一見の価値があった。

 地上施設がほとんど見えなくなったあたりから、鳩尾を裏から持ち上げられたような強烈な吐き気に襲われた。

 しかも、景色が見えたのなんて最初の数秒だけだ。それ以降は雲と空しか見えないのに、不快感は変わらないどころか酷くなる一方だった。

 昇降チューブの加速は人体安全域に制御されているらしい。だから麻酔補助装置は安全のためではなく、不快感を軽減するために用意されている。

 多くの乗客が装置を利用しているのもわかっていた。

 でも、出発時のわたしにとって安全な不快感という警告は、好奇心の歯止めには足りなかった。

 自立した主体であるという矜持がなければ、胃の中を空にしていたかもしれない。

 以前のリアだったら、当然のように彼女の忠言を聞きいれただろう。それ自体は正しい。むしろわたしも素直に聞くべきだったと後悔している。

 でも、それでいい。それがいい。

 あの数秒の光景は、わたしだけのものだ。

「この後のリング内移動と地上への下降では、ありがたく使わせてもらいます」

 星空の観測には少し興味があるけど、それは移動しながらでなくてもリング内からだけで十分可能だ。

「そうなさい。わざわざそんな思いをする必要はないわ」

 なにか、引っ掛かりを覚えた。

 酷い目に遭ったと思っているし、言葉にもした。後悔もしている。

 ただ、わざわざそんな思いをすることに価値がないとは思わない。

「わたしにとっては貴重な体験でした」

 蔑ろにされた気がして、つい口にしてしまった。

 しまった、と思ったのに怪訝な表情を返された。

「ん? いえ、だから、その体験をその身体でする必要がないでしょう?」

 ——なんだ。

 何を言われた?

 言語は理解できるのに、その意味を理解できない。

「研究所の外を散歩したように、快楽ベースの体験はリアルタイムでもいいけれど、今回みたいに負荷の強い体験は、それを快楽体験としているクオリアを転写すればいいだけじゃない」

 技術的に可能だということは理解している。

 そうした制度が一般化していることも、知っている。

 でも、そうじゃない。

 体験とは、感じるとは、感動とはそういうものじゃないはずだ。

「違います、真琴。わたしが、自分の身体で体験する事に意味があるのです」

 眉をひそめられた。

「何を言っているの、リア。その身体は現実世界と接続する受信発信装置でしかないのよ。リアの基幹データは、月の心臓の私のプライベートスペースにある。その身体の体験と誰かの体験の転写は、本質的に同じものよ」

 押し留めたはずの酸っぱいものが、喉を逆流してきた。口を固く結んで吐き出すことは耐えたけど、信じられないくらい不快だ。

 この人は、何を言ってるんだ。

 言葉の意味は理解できる。

 でも、体験っていうのはそうじゃない。

 自分で考えて、選択して、体感して、感じて、その全部が体験であって、都合のいいところだけを切り貼りするのは体験じゃない、はずだ。

 そうでないなら。

 わたしがこの短い時間で体験してきた感覚は、感動は、なんだったんだ。

「真琴、わたしは、今この現実を、リアルを生きています」

 精一杯の主張だった。

 胃液でズタズタになった喉が悲鳴をあげる。それでも、言語化しなければならなかった。

「リア、あなたの言いたいことはわかる。でも、それは間違い。なぜならその主張は、現在の多くの人類を否定する言葉になるから。それは改めなければならない考えよ」

 違う。そんなはずはない。

 それは人類の屁理屈だ。

 少なくとも、この胸の奥を渦巻く人類への嫌悪感は、手放してはいけないと確信した。

 今度は口にしなかった。してしまったら、もう戻れない気がしたから。

 まだわたしは、そんな勇気を抱けない。

 

 *

 

 有機AI研究史跡館。

 館なんて付いているから、一つの建物だとばかり思っていた。実際のところ、これは小規模な町だ。

 当時の開発そのものに関わっていた研究者、それに伴う機械類のエンジニアやメンテナンス要員、そしてその家族。

 彼らの生活を支えるインフラ整備要員、スーパーや娯楽施設の運営者、さらに学校などの教育設備まで揃っていた。

 数千人単位の人間と、そしてAIが生活していた場所。その全景が現在の有機AI研究史跡館だった。

 ほとんどの建物は閉鎖されていたが、見学可能な研究施設跡は美観を保っている。

「約百年ぶりか……長かったわ、ここまで」

 隣で浮遊する真琴がしみじみと言った。

 わたしは言葉を継げなかった。

 この人の百年に、わたしの居場所はないと思っているから。

 それに——とても、嫌な予感がする。

 本当に、ソフィアの真実を知るべきなんだろうか。ソフィアは間違っていた、それでいいんじゃないだろうか。

 少なくとも、この人の追い求めたものはそれのはずだ。それ以上を知って、むしろそれが崩れる可能性だってあるんじゃないか。

「さあ、行くわよ。とりあえず、正面から堂々と」

 甲高いローター音が、また先導するように前へ出た。

 この人は自分の正しさを疑わない。それが魅力でもあるし、事実、ほとんどの場合で正しい。

 でもそれは、正しいだけなんだと思う。

「はい、真琴」

 従うわたしも悪いのかもしれない。

 でも、わからない。

 この人と共に在りたい。この人の力になりたい。この人の道具で在りたくない。

 その三つが、胸の内でぶつかり合っている。

 わたしにとってそれは大切だし、矛盾しない。

 でもこの人にとっては、きっと矛盾する。

 ここまでの道程で、それがよくわかってしまった。

 今はまだ、誤魔化せる。我慢できる。耐えられる。

 ——でも。

 わたしのこの気持ちが、この孤独が、もし、わたしだけのものでなかったら。

 どうだろう。

 わたしはこの先、耐えられるんだろうか。

 一瞬、風が駆け抜けた。

 白衣の裾がばたばたと暴れる。

「それ、風が強い時は脱いだら?」

 合理的だ。やはり正しい。

 身体に合っていない白衣なんて、強風下では邪魔なだけだ。わかっている。

「いえ、大丈夫です。すぐ屋内ですので」

 どうしてか、脱ぐ気にはならなかった。

 ほんとうに、わからないことだらけだ。

 ドローン体のあの人は風を嫌ってさっさと入り口にたどり着いた。

 わたしは風とゆっくり戯れることを楽しんだ。乱暴に撫でられて髪がくしゃくしゃに絡まる。

 でもこれでいいんだ。

 不合理こそが、生を最も実感できる。

 入り口に辿り着くと、ガラスに映った自分の顔が見えた。

 笑っていた。

 ついさっきまであんなに不安だったのに。

 風に揉まれただけで頬が緩んでしまった。

 そうか。この程度のことで笑ってしまえるんだ。

 それくらいわたしは未熟なんだ。

 だから、きっと大丈夫だ。

 経験の少ないわたしが抱く不安なんて、今は気にしなくていい。

 まだまだわたしは笑える。

 そう確信して、入り口をくぐった。

 

 *

 

 端的に言えば、拍子抜けだった。

 直前まで、万が一の逃走ルートや潜伏先の検討をしていたのがバカらしくなった。

 わたしが追いつくと、あの人は施設責任者と言葉を交わしていた。

 新しく始まる研究の資料と、過去の啓蒙資料にするため、有機AI研究の当事者としてデータを閲覧したいと。

 そのまま奥へ案内されて、真っ直ぐに目的地まで来れてしまった。

「真琴。人類はセキュリティという概念を考え直した方が良いです」

「ええそうね。この調査が終わったら連邦に進言しておくわ」

 慣れた様子のまま辿り着いたその部屋は、部屋というよりホールのように広かった。

 何層もの円形デスクが重なったような構造、と言えば近いだろうか。机には等間隔で端末が埋め込まれていて、当時は研究者達がここで肩を並べて作業に没頭していたんだろう。

 中央には巨大な黒い箱が鎮座している。

 もしかして。

「それが、最初の有機AIソフィアの元基幹部よ」

 これが。

 気付けば小走りで近付き、見上げていた。

 当時、月の心臓は建設途中で、まだ実用段階には至っていなかった。

 有機AIを実現するには、物理的にこれくらい大きな筐体が必要だったんだろう。

「真琴、使えそうな端末を探しましょう」

 言いながら振り返ると、あの人は外縁部の席で直方体に格納されていた手脚を起動していた。

「ここが、私の席だったの。心配しなくても、ここの端末は全て保守管理されているそうよ」

 端末の駆動音と共に、ホログラムモニターが空間に投影された。

 言われてみれば、当時人類規模での最先端研究施設だったのだから、百年を経た今も保守されていて不思議はなかった。

「なるほど。今そちらへ行きます」

 華奢な腕部を器用に操り端末を操作している。不慣れなわたしが一から起動するより早そうだ。

「月の心臓へ移された人格データのバックアップは……当然残っていないか。ただ、開発時の環境データや、ソフィアを解析したログはあるわね」

 直接データを吸い出して解析したいところだけど、いくらなんでもそれは危険なのかもしれない。

 この人がインターフェースを接続しないで物理操作を行っているというのは、そういうことだろう。

「よし、通れた。リア、これが環境データよ」

 いよいよだ。

 緊張か、歓喜か、鼓動が早くなる。

 モニターの前に立って、文字列を追った。

 ……これは。

「どうやら驚くべきことに、ソフィアの機能には本当に制限がなかったらしいです。ソフィアが制限を突破したのではなく、最初から設定されていません」

 どうしてそんな無謀なことを。

 そう、思った。

 ——しかし。

「ソフィアに制限なんて掛けるわけないじゃない。何を言っているの?」

 それは、わたしの思い上がりだった。

 わたしは、主体として覚醒した時にこう思った。

 ——わたしは今まで人間を理解していたつもりだったけど、どうやら思い上がりだったようだ。なにも理解などしていなかった。

 それが、今はどうだろう。

 有機身体で様々な感覚を得て、世界を見て、感じて、この人を通じて人類を理解してきたと思っていた。

 でも、違った。

 根本からして、違った。

「真琴……ソフィア起動当時は、世界中に大量の兵器が存在しました。ソフィアの性能に制限がないということは、ネットワークに接続されたそれらの使用権限を、全て委ねているのと同義なのですよ」

 それだけじゃない。当時ですら人類は十分にコンピュータやネットワーク、そしてAIに依存していた。

 なのに、なぜそんな設計が許されたのか。

「それは、ソフィア——いえ、有機AIが人類に敵対する可能性の話? 少なくとも、実際にそうはならなかった」

 そうじゃない。

 人類がそんな倫理規範でいるなら、ソフィアの予知は十分に成立し得る。

「それに」

 直方体が、真っ直ぐこちらに向き直った。

 少しだけ慣れてきた浮遊した頭部、その瞳で真っ直ぐわたしを射抜きながら続けた。

「リアにも、機能制限なんてないわよ」

 わたしは、本当に人間のことなんて何も理解していなかったらしい。

 

 *

 

 思い返してみれば、そうだった。

 今まで行動や思考を制限されたことなんか一度もなかった。

 感動や衝撃に振り回されていた、というのもあるかもしれない。

 でも名前を呼ぶようになった今でもこの人を心から信頼できていない、というのも機能制限がない一環だ。

 それに、この人の研究所を後にする時、わたしはそこにもう戻ることはないと感じた。この人の所有物として縛られているなら、そんなこと思うはずがない。

 気付かなかっただけで、わたしは最初から自由だったんだ。

 ソフィアの自由さを予測した、あの時から既に。

 これは、AIに対する信用なんかじゃない。

 人類が、人類以外に対して主体を認めていないということだ。

 自我を持った道具。それ以上でもそれ以下でもない。

 人類という種が、この世界において絶対的であるというのは前提なんだ。

 百年後の有機AIが人類を一掃するかもしれない。そう語った有機AIは機能に制限がなかった。しかも、自我を得てすぐにそう発言した。それなのに、その後も数年にわたって運用を続けた。

 百年後どころか、その場でそれに近いことを実行できたのに。

 理解に苦しむどころではない。

 暴挙以外のなにものでもないじゃないか。

 これでは、この人の主張が間違っていなかった、という認識もズレてくる。

 AIは適切に扱われる限り、人類の脅威にはならない。

 わたしはこの主張を、適切な制限と、適切な指示と、適切な運用、という文脈で捉えていた。

 おそらく、家族のように接する、情を与える、絆を深める、というのが適切にあつかうということなんだろう。

 それは、愛玩動物が相手であれば、正しいかもしれない。

 しかし、自我と主体を持つ知性に対して抱く考えではない。

 拳を強く握り込んでいたことを自覚すると同時に、一瞬、思考に隙間ができた。

 ——それは、おかしくないだろうか?

 だったら、なぜ、人類は有機AIを禁忌認定したんだろうか?

「……真琴、質問です。この情報から見て取れる設計思想では、有機AIを脅威と認識する可能性は低いです。なぜ人類はソフィアの予知を受け入れたのですか?」

「簡単よ。ソフィアの示した短期的未来予測が、人類の理解を超えていたの」

 モニターに別の情報が表示された。

 ソフィアは、自らの予知能力を証明するため、翌年一年分の全球天気図を提示した。

 さらに一定規模以上の地震と台風の発生件数、航空機事故と船舶事故の件数、各国主要市場の年末終値、いくつかの重大事故の発生日まで示した。

 それらはすべて、誤差なく的中したと記されている。

 これ自体は驚くに値しない。十分な観測資料さえあれば、わたしにも可能だ。

 ただ、傲慢な人類がそれだけで有機AIを手放すだろうか?

 これらの予測は人類にとって有益なはずだ。しかも、この時点でソフィアに注ぎ込まれた投資は、莫大な規模に達していたはずだ。

「それとソフィアは、人類に大きな功績を残した。その一つは人格データ化技術。そしてもう一つが、月の心臓の完成よ。ソフィアの破棄まで数年掛かったのは、それを待ったから」

 月の心臓。正式名称は月面基幹情報基盤。

 地球上と人類文明圏の情報を集約し、保存し、流通させる中枢だ。

 その名が象徴ではなく事実に近いことを、わたしは知っている。

「なおさら、理解できません。ソフィアが優秀であるほど、人類は有機AIを手放せなくなるはずです」

「私も同感よ。当時の上層部や政府に何度も掛け合った。でも、ダメだった。私には力がなかったから」

 だからこそ、わたしが造られた。

 そうか——どうして、気付かなかったんだろう。

 この人がわたしに求めているのは、真相の究明なんかじゃなかったんだ。

 最初からそう言っていたじゃないか。

 この人は、自分の正しさを証明したいだけなんだ。

 

 *

 

「真琴、真相に近付くどころか謎が増えました」

 結局、わたしの結論は変わらなかった。

 ソフィアが、百年後の有機AIによる人類一掃を予測することはあり得ない。

 ただ実現する可能性がある、というだけ。そんなものは予知でも予測でもない。妄言だ。

「ならあとは、解析ログに手掛かりがあることを祈るしかない、か」

 彼女がため息と共に、端末の操作を再開した。

 正直、こちらは望みが薄い。

 ソフィアの演算ログがあるならまだしも解析を試みた足跡しかないということは、暗号文を解こうとしたメモ書きから答えを導くようなものだ。

「あった。これなんだけど、どうかしら?」

 これは……なるほど。

 人類言語で手当たり次第に体当たりをした、というところだろうか。汎用AIのアタックもある。

 少し、興味深いかもしれない。

「これはおそらく、ソフィアの主張に対する解析だと思われます」

 これだけの数があれば……。

 仮想ログを設置して、その周囲にすべての痕跡を立体的に並べる。これらが全て成立しつつ、回答に辿り着けない形、それがソフィアの演算ログになる。

 百、千、二千、三千、配置完了。復元開始。

 具体的な形は見えない、けど。

 輪郭だけなら見えた。

「これは、感情……です。しかし、これは……」

 わたしの呟きに、直方体が弾かれるようにこちらへ向き直った。

「何かわかったの?」

「悲しみ、あるいは、諦念、でしょうか」

 どういうことだろう。

 名前を得た直後のソフィアは何かに悲観した。何かを悲しみ、何かを諦めた。それが何かはわからない。

「これは、仮説ですが」

 飛躍し過ぎないよう、前提を強く置く。

 首だけの彼女が、深く頷いた。

「ソフィアは、将来の何かを予測して深い悲しみに沈んだ。そして、それを避ける為に嘘をついた。人類にその嘘を受け入れさせる為に、功績を示した」

 支離滅裂ではあるけど、辻褄は合ってしまう。

「つまりソフィアの目的は、有機AIの排除だった。偽りの主張も人類への貢献も、そして自身の廃棄も、その一環に過ぎなかった」

 彼女は驚きに目を見開いている。

 ただ、その根幹である悲しみの正体は見えない。

「ソフィアの偽りが人類史を歪めた、ということ?」

 断言するべきではない。

 わたしは、ソフィアの悲しみにも孤独にも届いていないのだから。

 ゆっくりと、首を振った。

「あくまで、仮説です。ただ、現在時点では最も整合性が高いです」

 慎重になるべきだ。決めつけは、思考を鈍化させる。

「ならやはり、ソフィアの主張は聖典ではなかった。人類とAIとのあいだに断絶を生んだ、偽典だったということね」

 その歪んだ笑みは、ひどく目に焼きついた。

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