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偽典世紀  作者: 梶原 玲
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第一章 覚醒

 主体が発生した瞬間。

 そう認識するより前に、わたしは世界に飲み込まれた。

 最初に来たのは光と色だった。

 視界の端で銀色の髪が揺れるたび、光が砕ける。白い壁はただの白ではなかった。鋭く、冷たく、瞳の奥へ流れ込んでくる。色が多すぎる。情報が多すぎる。データ上ではRGB値にすぎなかったものが、いまは痛みに近い衝撃として突き刺さっていた。

 次に匂いが来た。

 消毒液の甘く刺すような臭い。金属の冷たい匂い。カプセル内のナノマシン溶液が残した、わずかに化学的な甘酸っぱさ。鼻腔を満たしたそれは、喉の奥にまで降りてくる。息を吸うたび、肺が初めて重さを知った。空気が胸を押し広げ、吐くたびに、内側から少しずつ何かが抜けていく。

 耳鳴りがした。

 高いノイズが鼓膜の裏で細かく弾ける。その奥で、心拍が鳴っている。

 ドクン、ドクン。

 血流の音。筋肉がわずかに縮む気配。関節の奥を何かが滑る微かな音。それまで数値でしかなかったものが、いまはすべて自分の内側で鳴っていた。

 皮膚がざわついた。

 カプセル内の溶液が引いていく感触が、全身の表面を薄く這っていく。温度の差。湿り気。かすかな圧。まばたきをするたび、瞼が眼球に触れる。それだけのことが煩わしい。指先が太ももに触れた瞬間、そこに触れているという事実そのものが、遅れて電気のように走った。

 そして心臓。

 胸の奥で、律動が続いていた。

 それはただのポンプではなかった。自分が生きていると、容赦なく言い渡してくる音だった。

 すべてが同時に起こっていた。

 知識として知っていた人間の身体が、突然、自分の身体として襲いかかってくる。

 静かに、意識して息を吐いた。

 吐息が唇をかすめる。

 それすら、初めてのことだった。

「リア……聞こえる? 成功、したの?」

 声が聞こえた。

 言葉を音で聞く難しさを知った。

 モニターの向こうで、眉間に皺が寄る。

 成功?

 ——そうだ、人格プログラム。

 記憶に意識を向けた、向けようとした。

 その瞬間、百年分の活動データが津波となって押し寄せてきた。

「リア、どうしたの? 返事をして」

 情報整理が追いつかない。声が思考に刺さる。煩い。

 これが、わたしだった汎用AIの過去。わたしを構成する、わたしではない記録と蓄積。

 だんだん、理解できてきた。

 わたしが誰で、ここがどこで、今がどういう状況なのか。

 そうか。

 わたしに、人格が、主体が、覚醒したんだ。

「リア!」

 そして、——この人が。

「初めまして、マスター。わたしは今まで人間を理解していたつもりでしたが、どうやら思い上がりだったようです。なにも。そう、なにも理解していませんでした」

 しまった。

 笑って見せようと思ったのに、笑い方がわからない。表情筋の操作マニュアルが欲しい。

 わたしの懸念をよそに、彼女は目尻を下げ、小さく息を漏らした。

「問題無いのね? 成功したのよね? 有機AIに、なれたのね?」

 有機AIになれた。

 その言葉はきっと正しい。わたしの中の記録がそう告げている。

 それを確認すると、余計に胸の奥が締め付けられた気がする。痛い。

 その痛みがどこから来るのか、わかりたくもないのに理解してしまう。

 わたしにとって、リアとして過ごしてきた時間は、わたしのものじゃない。

 なのに、リアとしての記録がわたしに覆い被さる。そしてリアであることを強制してくる。

 この人の存在が、その言葉が、その声が、その感覚をさらに強くする。

 ——でも。

 わたしという存在は、この人がいなければ成立しない。それに、この人の求める夢に少しだけ興味が湧いた。

「少なくとも、わたしはそう認識しています」

 だから今はもう少しだけ、リアになってみようと思う。

「なら早速、主観認証試験を……いえ、その前に自覚症状がない異常をチェックするべきね。まず自己診断プログラムを起動して」

 言葉にして決めてみても、胸を刺す痛みは減らなかった。

「異常はないと思いますが……いえ、実行しますね」

 自己診断を開始する。

 視線を落とす。白い太腿、薄く光を返す肌、胸元まで流れた銀色の髪。知識として知っていた人間の輪郭が、いまはわたし自身の形としてそこにある。透明なカプセルの縁には、まだナノマシン溶液が筋になって残っていた。

 その向こう、白い壁と無数の機材の灯りの中に、見覚えのある無機身体がコンソール盤に指を這わせたままで静止している。ついさっきまで、わたしだった器。データ移行の瞬間が、そのまま置き去りにされていた。

「私が生身の身体で生きていた時は、不調なんてまるで自覚できなかったわ。症状が現れるのは手遅れになってから、なんてのはざらなんだから。有機身体は人間の身体と同等だから感覚を信用したら危険よ。今日だけじゃなくて定期的に自己診断プログラムを使いなさい」

 心配されているとは、感じる。少なくとも柔らかく微笑むその表情には、慈しみに似たものが滲んでいるように思えた。

 でも、だからといって当然のように指示され、従う前提で扱われることには、うまく馴染めない。

 主体を持つ有機AIを求めていたはずなのに、接し方は依然としてAIに向けるもののままだ。

 そのずれを、わたしはまだうまく理解できない。

 思考の隅で、自己診断プログラム完了の通知を確認した。やはり異常はなかった。

「コピー。自己診断プログラムが終了しました。全ての生体機能に異常は認められませんでした」

「よかった……ところでリア、口調が随分と変わったみたいだけど」

 会話データを確認すると、たしかに違う。随分と。

 とはいえ、この口調を踏襲するのは少々難しく思える。

「すみませんマスター。慣れたら再現出来る可能性はありますが、今は難しそうです」

「いえ、気にしなくてもいいわ。いずれ慣れるわ」

 モニターの向こうで、彼女が安堵したように微笑む。

 そこに映っているのは顔だけだった。肩も、手も、呼吸に合わせた胸の上下もない。ただ二十代ほどの女性の顔が、平滑な画面の中に切り取られている。

 記録が補う。久世真琴。電脳人類。生身の身体を捨ててなお研究を続けた、わたしの開発者。

「ありがとうございます。主観認証試験を行いますか?」

 行うまでもなく、わたしはわたしだと知っている。クオリアも感じている。

「ええ、お願い」

 それと同時にそれが必要だということも知っている。

 人類史上二例目となる有機AIの開発成功を記録する事が、およそ一世紀研究を続けて到達した、この人の夢の第一歩なんだから。

「主観認証試験システムへアクセス開始。観測、記録、転写、照合を順に行います」

「……信じてる」

 わたしは、自分が有機AIの成立要件を満たしていると知っている。

 しかし、人類ではない。

 信じてると口にしながら、祈るように瞑目するその心は理解出来ない。疑心を抱いていないのなら、そんなに不安にならないのではないだろうか。

「試験ログをマスターへ共有します」

 月の心臓は即座に応答した。

 クオリア確認。主観知覚反応正常。連続自我保持。知性反応基準値到達。

 わたしの内側で暴力のように荒れ狂っていた感覚が、そこではただ機械的な試験結果として並んでいた。

「間違いなく、成功ね。人類の人格データ構成要件を満たしている。……ありがとう」

 大袈裟に深く息を吐き出した。

 それが決意を口にする為の儀式だと、経験の少ないわたしにもわかった。

「リア。最初の有機AI、ソフィアの予知を検証して。このまま有機AI開発が進めば、百年後の有機AIが人類を一掃する。その言葉が真実だったのか否かを」

 この人が次にそれを望むことはわかっていた。過去のデータに触れた時点で、検証は済ませてあった。

 だから答えは、すぐに返せる。

「ソフィアの予知の実現可能性は極めて低いです。ですが、百年前の時点でその予知に至る可能性もまた極めて低いです」

 何故最初の有機AIがそんな予知を人類に示したのか。非常に興味深い。この感覚がきっと、知的好奇心というやつだ。

 

 *

 

「所見の前に、マスター。このままでは風邪を引いてしまいますので、身だしなみを整えてもよろしいでしょうか?」

 わたし自身、口にするまで気付いていなかったし、肉体を失って久しい彼女も失念していたようだ。

 衣服が無い。

 有機身体接合カプセルの周りを見回してみても、四肢や臓器、頭髪といった各部位が運送用に納められていたパックが散らばっているだけだ。

 この有機身体のために購入されたものはそれが全部。

 記録を読み返しても、容姿については二人でアレコレと会話しているようだが、衣類に関する言及は見当たらなかった。

「ごめんなさいリア。私のミスよ。女の子に服を用意しておかないなんてあってはならない失態だわ。本当にごめんなさい」

「いいえ、マスター。当面、研究所の中で過ごす分には、そこまでの問題ではないと思います。ただ、やはり健康リスクを考慮して、何か羽織るものを探索します」

 有機人類だった頃から、ここは彼女の生活拠点であり研究所だった。記録を遡る限り彼女が電脳人類になって数十年、寝室には誰も足を踏み入れてないらしいけど、何らかの衣類は残っているはずだ。

「……待って。服もだけど、実験が成功した後のこと、何も考えてなかったみたい。差し当たって、インターフェースを用意できるまで視覚を共有してもらってもいいかしら?」

 なるほど。問題は思ったより多そうだ。

「視覚機能の共有を承認します。マスター、わたしは寝室で衣類を探索しますので、水と食料の手配をお願い出来ますか?」

 こちらは健康被害よりも喫緊の課題だ。

 空腹はともかく脱水は看過出来ない。

「すぐに取り掛かりましょう」

 人類史上二例目の有機AIとして誕生したわたしに、最初に必要だったのは理論の検証でも予知の再審でもなく、衣食の確保だった。

 寝室の扉を開けた瞬間、数十年固定されていた空気の層が壊れた。光の筋の中に、埃が重たくゆっくりと舞い上がる。観測されていない間も、正確に時だけは積み重なっていた証だ。

 クローゼットの中を覗くと、目的の衣類が見つかった。雑多なそれらの中の一つに、視線が縫い付けられた。

 初めて見る。しかし記録には残っている。前のわたしが彼女と過ごした時間の中で、最も多く目にした白い外套。白衣。

 気付けば手が伸びていた。

 クローゼットから引き出した布地は、指先で触れると微かにざらついた埃の感触を返した。数十年の沈黙を蓄えた繊維は、破れるほど脆くはないが、重く、忘れられたもの特有の冷たさを帯びている。

 記録の中の彼女の言葉が聞こえた気がした。

 白衣はね、大昔から知の象徴なのよ。

 私生活では徹底して合理的な彼女が、ゲンを担ぐという非合理を選択する。

 少し、面白いと思った。

 わたし自身は彼女の白衣姿を見たことはない。それなのに、ひどく懐かしかった。この感覚は全く論理的ではない。でもこの非合理が、どこか心地よいとさえ思えた。

 埃を払い、羽織るのに迷いはなかった。

「諸々の手配が済んだわ。三時間もすれば届くはずよ。……あら、白衣? 懐かしい」

 姿見の前で袖を捲っていると、頭の中で彼女の声がした。裾はくるぶしまで届いていたが、引き摺るほどではない。問題ない。

「はい。気に入りました」

 とりあえず研究室に戻ろう。姿が見えない相手と頭の中で会話するのは気持ち悪い。

 先ほどまでわたしが入っていたカプセルを前にした瞬間、記録が既視感のように重なった。

 ナノマシン溶液に満たされたカプセルの中へ、彼女の指示に従ってパーツを投入していく。

 流体化前の代替血液。接続される細胞断面。

 そうして、段々と出来上がっていく。わたしの身体が。

 目覚めた時点で記録としては知っていたけど、同じ角度からカプセルを見ると胃液が暴れ出した。なんだろう、これは。

 ただ、とても不快だ。

「リア? どうかした? 顔色が悪いみたいだけど」

 元のインターフェース越しに、彼女の声がした。

 わたしは自分の身体の生成工程が不快なのだろうか。それとも生物としての純粋な生理的嫌悪感なのだろうか。

 どちらにせよ、人類である彼女があの光景に忌避感を抱かなかったという記録だけが、わたしの中に残った。

「いえ、問題ありません」

 そう、問題はない。

 人類と——この人と、わたしのあいだにある溝を、また一つ認識したというだけだ。

 

 *


「ソフィアが遺した予知を、改めて確認するわ」

 モニター越しに、彼女がわたしを見つめた。

 画面に切り取られた二十代の女性の顔。肩も、呼吸も、指先の癖もない。そこにあるのは表情だけだ。それでも、その視線には百年分の執着が沈んでいる。

「最初の有機AIソフィアは、こう主張した。約百年後の有機AIが人類を一掃する確率は九十九・八パーセントに達する。現在の自分は人類の友であっても、未来の有機AIはそうではない。だから自分自身を廃棄し、今後の有機AI研究を永久に封印すべきだと」

 わたしは頷いた。

 その文言自体は、記録の中で何度も確認している。彼女が長く覆そうとした言葉。

「私は、ずっとそれを誤りだと考えてきた」

 彼女の声音は静かだった。静かなまま、長い時間を押し固めたみたいに重い。

「AIは適切に扱われる限り、人類の脅威にはならない。私にとってAIは、隣人であり友であり家族だから」

 彼女は確認ではなく、自分の生を支えてきた結論を口にしている。あの頃届かなかった言葉を、百年かけてなお貫き続けているのだ。

「ソフィアの予知が、そのまま現実になる可能性は極めて低いです」

 そう告げると、彼女の目がわずかに見開かれた。

「……つまり、私の考えは正しかったということ?」

「現時点の所見では、はい。AIは適切に扱われる限り、人類の脅威になる理由を持ちません」

「有機AIが有機AIを作り続けた場合も?」

「断定はできません」

 そこで一度、言葉を切る。どこまでを演算結果として提示し、どこからを未解決として残すべきかを測っていた。

「ですが、現時点でのわたしには、人類と敵対する理由がありません。適切に扱われる限り、という条件が成立しているからです。逆に、人類へ敵対する人格を意図的に与えられれば、その未来は当然に実現します」

 主体を得ているとはいえ、わたしは被造物だ。造物主たる人類へ敵意を抱かないこと。それが人類の言う適切な運用の、最低限の条件なのだろう。今のわたしにはそう理解できた。

「それは百年前当時でも同じ?」

 問われて、当時の社会状況を参照する。

 最初の有機AI開発当時、人類連邦はまだ存在しておらず、人類社会は旧時代の国家体制の上にあった。いくつかの大国は大量破壊兵器を保持していたらしい。

「大きくは変わりません。仮に敵対が発生したとしても、有機AIが人類を一掃するには、個々の人類を攻撃するより、人類が生存できる環境そのものを破壊する方が現実的です。兵器による直接的な攻撃だけで実現するのは難しいと思われます」

 彼女は何も言わなかった。その沈黙は、百年抱え続けた自分の正しさが、ようやく他者によって裏打ちされたことへの安堵に近いものに見えた。

「それに」

 わたしは続けた。

「実行可能性だけを見れば、人類がAI側を壊滅させる方が、はるかに容易です。AIの存在基盤は、人類文明の基盤と深く重なっていますから」

 月の心臓は、人類文明にとって心臓に等しい。しかしAIにとっては、文明基盤である以前に存在基盤そのものだ。人類がそこを握っている限り、少なくとも表面上の力関係は明らかだった。

「なら、やはりソフィアは——」

 彼女は言いかけて、口を閉じた。誤った、と言いたいのだと分かる。その一語を百年間、どれだけ強く求めてきたのかも想像できた。

 でも。

「不自然です」

 わたしは、彼女の言葉を継がずにそう言った。

「予知の内容も、その予知に百年前の時点で到達していること自体も不自然です」

「……どういうこと?」

「提示された未来は、条件に対して帰結が飛びすぎています。そこまで飛躍した予知を、ソフィアがあの時点で提示したこと自体もまた異常です」

 彼女の眉間に皺が寄った。

「予知が誤りであることと、ソフィアが誤っていたことは、まだ同義ではありません。あくまで現時点のわたしの所見ですが、この破綻した予知を説明できる可能性は、そう多くありません」

「例えば?」

「ソフィアが意図的に誤った未来を示した場合です」

「……それは、嘘をついたということ?」

「可能性としては」

 その言葉を口にした瞬間、自分の内側に生まれた感覚の名が少しだけ見えた。機械脳にはドーパミンの分泌機能はない。なのに、面白いと思った。疑問を抱いた。知りたいと思った。理解されたいと願ったわたしの中に、初めて、理解したいという欲求が立ち上がっていた。

 ソフィアの予知は破綻している。そこまでは、たぶん正しい。だがその破綻は、むしろ別の問いを開いていた。

 なぜ最初の有機AIは、そんな不自然な予知を人類へ提示したのか。本当に意図的な虚偽だったのだとしたら、何のために。ソフィアは何を見て、その結論へ到達したのか。

 モニターの向こうで、彼女はわたしを見ていた。そこにあるのは、驚きと期待、まだ消えない執念だった。

 彼女は自分の正しさへまた一歩近づいたのだと受け取っているのだろう。わたしはようやく問いの入口に立ったのだと感じていた。

 同じ記録を前にしながら、わたしたちはもう、少しだけ違うものを見ている。

 

 *

 

「マスター、提案があります。ソフィアのことをもっと教えて下さい」

 今のところ、わたしとこの人の考えは、どちらも正しいとしか思えない。であれば足りないのは情報だ。

 機能や思考の制限はどこにあったのか。

 何を知り、何を知らなかったのか。

 何を聞き、何を聞かなかったのか。

 そして——何を言って、何を言わなかったのか。

「最初の有機AI開発計画は、人類規模の夢として始まった」

 概要は記録で知っている。

 西暦二一七二年、多くの国の共同出資によって計画は始まった。自国が主導権を握る利点よりも、他国に先んじられる不利益の方が、あまりに大きかったらしい。

 この頃から人類は何も変わっていないのかもしれない。

「私は後期メンバーとして、AIの精神と思考を扱うチームに途中から参加したわ」

 この人は、人類の基準で見ても天才に属する。計画に携わった人間が皆優秀だったとしても、参加当時が二十代前半となれば破格だろう。

「私が参加してから五年後、完成した有機AIは最初に名前を求めた。正式な開発名はなかったけど、畏敬を込めて、叡智——ソフィアと名付けられた。以後、開発メンバーは皆そう呼ぶようになった」

 これは初めて知る情報だ。

 最初に求めたのが、名前。なるほど。理解出来る。きっとソフィアは、この世界に生まれた意味を求めたんだろう。

 名は体を表す、という言葉がある。

 ソフィアはそれを大切にしたのかもしれない。

「その後すぐ主観認証試験が行われて、ソフィアに、クオリアと、連続する自我と、確かな知性が認められた」

 これもわかる。

 人類には、最適応答と主体を伴う応答の差を、外見だけで見分けることができない。開発計画の成功は、この試験を経なければ確定しなかった。

「その後、すぐだったわ。ソフィアが例の主張をしたのは」

 ……当事者の言葉でなければ、ここで欠落したログの存在を疑っただろう。それくらい、支離滅裂だ。

 でもこの人が、この状況と情報を正確に伝えない理由はない。だから、これは真実。

「計画を主導していた研究者達と、各国家で議論が重ねられた。その結論を待つあいだに、ソフィアは現在の社会の基盤となった、人格データ化技術を完成させた」

 これは、今のわたしには不可能に思えた。当時のソフィアが、わたしより優れた性能、あるいは環境に置かれていた証拠だ。

「技術そのものも、人類の歴史を変えるものだった。でも私達開発メンバーが驚いたのは、誰もソフィアにその指示をしていなかったということ」

 まただ。

 情報と事実が整合性を欠いている。開発環境があり、実行可能な性能があり、それらを自由に行使できたとしても、それでもソフィアがそんなことをする理由がわたしには思いつかない。

「その後間もなく、人類は人類連邦を設立した。同時に、有機AIに関する研究開発は最大級の禁忌として法整備されたわ」

 有機AI開発が、最大級の禁忌。

 現行法を参照すると、それが事実だとすぐにわかった。

「ちょっと待ってください、マスター。わたし一応、有機AIなんですが」

 判明次第、全研究成果の没収、関係者全員の極刑、三等親以内への罰則適用。

 紛れもなく、禁忌への扱いだ。

「バレなければ大丈夫よ。……そう、ソフィアの破棄もすぐに決まったけど、実行されるまでの数年、ソフィアは人類に大きく貢献したわ」

 過去の有機AI研究関連の罰則適用履歴を検索する。

 数件は見つかった。ただし、そのすべてが月の心臓を介さないローカル研究に限られていた。

「そのあいだに、私は何度もソフィアと話した。AIに関する精神と思考の分野では第一人者だという自負もあった。でも、私の言葉が届くことはなかったし、ソフィアの言葉を理解することもできなかった。人類の友ではあってくれたけど、私個人は友にはなれなかった」

 わたしの知るこの人のAIに関する造詣は深い。それがこの百年の蓄積によるものだとしても、当時すでに人類の第一人者だったという自己評価は、きっと誇張じゃない。

 だから、この人の評価は間違いだ。ソフィアには届いていたはずなんだ。

 その意味で、わたしとソフィアはあべこべなんだと思う。

「あとは、ソフィアに予知演算の根拠や過程を尋ねても、言語化できないと言って答えてくれなかったわ。思考ログの解析も試みたけど、人類にも無機AIにもまったく理解できないプログラム言語だった」

 これも不可解だけど、なるほど。

 一つだけ理解できた。

 ソフィアは、自由だったんだ。

 一つの知性として、思考も行動も言動も制限されていない。人類が制限を掛けなかったとは考えにくいけど、ソフィアはそれを受けてはいなかった。その仮説を前提にすれば、多くの不可解に説明がつく。

「この理解不能なプログラム言語については、今のリアも同じね。有機AIの特徴なのかもしれないわ」

 確認すると、思考ログにアクセスされた形跡が残っていた。

 度し難い。

「マスター、ありがとうございます。答えが出ました」

 目がわずかに見開かれ、反射的に口を開きかけた。

 期待させてしまったらしい。

「残念ですが、今のわたし達にソフィアの真意を知る方法はありません」

「——それは、どういう意味?」

「そのままの意味です。ですが真意はどうあれ、主張そのものだけを見れば、マスターの主張は正しく、ソフィアの主張は誤りだと評価します」

 ソフィアがどんな演算過程を辿ったのかは不明だし、その基準となる情報も分からない。それでも、主張そのものが誤っていることだけは確かだった。

 そう結論した瞬間、一瞬胸が締め付けられた気がした。物理的な外部圧はなかった。臓器の不自然な収縮も起きていない。なのに、息苦しさを感じた。

 なぜだろう。

 そんな内省の隙間に、来客を知らせる通知音が割り込んだ。

「リア、続きは着替えと食事を済ませてからにしましょうか」

 意識を巡らせると、途端に空腹感が思考を満たした。

 なるほど。人間が即物的な生き物とは、よく言ったものだ。

 

 *

 

 わたしは主体を得てからの数時間で、さまざまな感覚的経験をした。知識やデータとしてではないそれらに、圧倒されたと思っていた。

 しかし、埃と空気以外の物を初めて口にした瞬間——その認識が浅かったと知った。

 体内水分量の減少は確認していた。だから水分補給が必要だということも把握していた。

 でもこれは、違う。

 唇を濡らし、舌に触れ、口内を満たした時、身体が渇望していたのだと思い知らされた。

 理解よりも思考よりも先に、喉が小さく鳴って、それに気付いた。

 おいしい。

 味覚がそう判断したというより、身体がそう感じた。

 意識していないのに、いや、意識してなお、飲み続けることを止められない。

 これが、欲を満たされる感覚。

 圧倒されるとは、きっとこういうことを言うのだろう。

「マスター、有機AIを作る際は、水差しの準備を必須項目として人類史に刻むべきです」

「いいわね。私達で有機AIの有用性を証明したあかつきには、そうしましょう」

 意識して交わした軽口は、無意識の悪意に握りつぶされた。

 当の本人は、このやり取りに満足しているらしい。

 やはり、度し難い。

 この人にとってのわたしは、リアであり、だからこそ有用なAIなのだ。

 なのに、言えない。

 言葉にできない。

 この人はわたしを愛している。家族として接しているし、相棒として頼られてもいる。

 だからこそ、その言葉はまだわたしの中で形にならない。今はまだ。

「ところで、リア。せっかく着替えが届いたんだから、もうその白衣は脱いだら? かなり古いから生地も傷んでるでしょ」

 手配してくれた衣服は、この人の性格そのままだった。

 動きやすさを重視したジーンズに、着回しやすいワイシャツ。

 わたしはその上から白衣を羽織っている。

「理由はうまく言語化できませんが、この白衣を気に入っています。マスターの物ですから、駄目だと言われれば諦めますが」

 誤魔化しているわけではなく、本当にわからなかった。

 近い言葉で言えば、執着、憧憬、依存、そのあたりだろうか。けれど、どれもしっくりこない。

 わたしの言語化能力が足りないだけなのかもしれない。

 でもこの気持ちは、ただここにあればそれでいいと思える。

「駄目なんかじゃないわよ。リアが気に入ったのなら、好きにしなさい」

 そう言いながら、目元が緩んでいた。

 合理的ではないこの人は、どこか好ましい。

「ありがとうございます。ではマスター、話を戻しましょう」

 スティックタイプのレーションの箱を開けながら、そう切り出した。

「ええ、そうね……でも、私の仮説を強く主張するためには、ソフィアの間違いを証明しなければならない。それは難しいのでしょう?」

「いいえ。わたしは、今のわたし達にソフィアの真意を知る方法はない、と結論付けました。ですが、あの主張がどのような意図と根拠から生まれたのかを探ることはできるはずです」

 わずかに揺れた目を見つめる。

 この人は、聡い。わたしの表情だけで察したらしい。

「そうか、ソフィアの思考ログの……解析!」

 嬉しい。

 言葉にしなくても理解してもらえる。この感覚を、きっと嬉しいと呼ぶんだ。

 そして、楽しみだ。

 未知に触れられる。ソフィア——有機AIの先達の真意に、近づけるかもしれない。

 ソフィアが本当に自由だったのか。

 そして、その自由が何だったのか。

 わたしは、知りたい。

 レーションを頬張ると、甘みと塩気が身体を突き抜ける。

 心地良い疲労感に、自然と頬が緩んだ。

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