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地獄の裁定

乾いた音が、ひとつ、地の上に落ちる。


踏みしめた感触は土とも灰ともつかず、脆く、軽く、けれど靴底にまとわりつくような鈍さだけが残る。足を進めるたびに微かな砂塵が浮き、すぐに沈む。風はない。空気は動かず、ひどく乾いているはずなのに、喉の奥には焼けたような重さが薄く貼りついていた。


道満は振り返らない。


背後を見たところで、もう何もない。生の側はすでに遠く、手を伸ばして届く場所にはない。惜しむほどの感慨も、縋るほどの執着もない。ただ、自分が終わったという事実だけを、淡々と認識していた。


やがて視界が開ける。

黒く、広い空間だった。


天井は高い。だが高さを測るための目印がなく、どこまで続いているのか分からない。壁もまた遠く、輪郭だけを曖昧に沈めている。広間を満たすのは、熱ではなく圧だった。重いというより、逃れようのない定まりが空間そのものに沈んでいる。踏み込んだ瞬間から、ここでは何もが既に決まっているのだと分かる。


列をなす亡者たちが、静かに前へ進んでいた。


泣き崩れている者がいる。膝をつき、何かに縋るように指を伸ばしている者がいる。喚き散らす声も、押し殺した嗚咽も、確かに耳には届く。だがどれも空間の厚みに吸われ、波紋にもならず沈んでいく。残るのは、書がめくられる乾いた音と、筆先が紙を擦るかすかな音、それから、ときおり短く落ちる声だけだった。


その先に、座すものがいる。


閻魔。


高座に深く腰掛け、片手で書を捌き、片手で判を押す。動作に無駄はなく、急いているようにも見えないのに滞りがない。軽く紙をめくり、視線を落とし、短く言葉を置く。そのたびに、ひとつずつ、何かが決まっていく。場を支配しているというより、この場そのものが彼を中心に正しく回っているようだった。


道満はわずかに目を細める。


重いのではない。ただ、抗う余地がない。力で押し潰される圧ではなく、最初からそこに在る規定のようなものだった。逆らうという発想そのものが意味を持たない。そういう類の座だと、一目で知れる。


列が進む。


亡者が呼ばれ、名を告げられ、裁かれ、流れていく。閻魔の声は高くない。よく通るが、必要以上に響かせることもない。泣き縋る声にも、恨み言にも、祈るような懇願にも、その調子はひとつも揺れなかった。感情に触れず、ただ順に処理していく。


やがて。


「次」


短く呼ばれる。

道満は一歩、前に出た。


靴底が乾いた床を擦る音だけが、小さく響く。そこで初めて、閻魔の視線が上がる。まっすぐに、こちらを見る。揺れない目だった。測るというより、既に把握したものを確認するだけの視線。


「……道満」


名を呼ばれる。


問いではない。確認ですらない。すでに書面の上で定まっているものを、そのまま音にしただけの響きだった。


閻魔は手元の書を一瞥する。


「術者か」


「ああ」


短く返す。


「多くを扱っているな」


「必要に応じて」


それ以上は踏み込まない。互いに余計な説明を省いたまま、言葉だけが最低限に交わされる。


沈黙が落ちる。


閻魔の指先が、判に触れる。書面へ落とされるはずだったその手が、不意に止まる。


ほんのわずかだった。


だが、その一拍の停滞は、この場では異様なほど明確だった。書をめくる音も、筆の走る音も、列の気配も続いているのに、その一点だけが不自然に引っかかる。


道満の目が細くなる。


閻魔は書面に落としていた視線をわずかに止めたまま、同じ箇所をもう一度なぞる。ほんの一拍。紙の上に落ちた沈黙だけが、妙に重い。


「……裁定は」


問う声は低く、静かだった。食い下がる熱も、取り乱しもない。ただ事実だけを求める声。


そこで初めて、閻魔が視線を上げた。


その目がわずかに細まる。見定めるように、測るように、ほんの一拍だけ道満の顔を見てから、閻魔は手元の書を指先で軽く叩いた。


「珍しいな」


ぽつりと落ちる。


「……?」


道満の眉がごくわずかに動く。

閻魔は書面から目を外さないまま言った。


「こはくからの指示がついてる」


その一言で、空気がひとつ沈む。


列のざわめきは変わらない。筆も動いている。誰も声を止めない。だが、場の温度だけがわずかに落ちたのが分かる。


道満は沈黙する。

一拍。


「……それは」


言いかけ、止まる。思考だけが先に走る。

閻魔は軽く肩を竦めた。


「人間なのに珍しいね」


興味と観察だけを乗せた、ひどく軽い声だった。

その言葉が落ちた、次の瞬間。


「はい隔離〜」


軽い声が、空気を割った。


左右から影が動く。気配だけを殺した無駄のない足取りで距離が詰まり、伸びた手が道満の腕を取る。迷いなく、容赦なく、だが騒がず、音すら最小限に押し殺した動きだった。


「……何を」


言い終えるより早く、腕が後ろへ引かれる。肩を抑え込まれ、重心を崩される。力は強い。だが粗雑ではない。完全に制圧するためだけに最適化された手つきだった。


道満は抵抗しない。


できないわけではない。だがここで力を行使する意味がないことは、瞬時に理解できた。ここは地獄で、この場は閻魔の裁定の間だ。術も、抵抗も、通す場所ではない。


「待て」


低く落とした声に、わずかに圧が滲む。

だが、動きは止まらない。

腕を取る手は緩まず、そのまま後方へと引かれていく。


「なっ……?!」


初めて声が崩れる。驚愕が一拍だけ遅れて表に出る。

だがその上から、閻魔の声があっさりと被さった。


「はい次」


視線はもう別の亡者へ落ちている。道満を見ることすらない。書はすでにめくられ、筆先は次の名の上を滑っていた。処理は終わった、という顔で。


言葉が途切れる。


そのまま引き離される。足は止まらない。止めさせてもらえない。


裁定の場は、すでに背後に遠い。

道満は振り返らない。

ただ一度だけ、目を伏せる。

それきり何も言わず、そのまま奥へと連れて行かれた。


「はい次」


閻魔の声が、先ほどと何ひとつ変わらぬ調子で落ちる。


道満の死後の話が始まります。

今後こはくや閻魔とのやりとりが増えますのでお楽しみください。

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