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閻魔大王

乾いた広間には、すぐにいつもの流れが戻っていた。書がめくられる音、筆先が紙を擦る音、判の落ちる乾いた打音。列は止まらず、亡者は呼ばれ、名を与えられ、裁かれ、流れていく。


たった今ひとつ、予定にない処理が差し挟まれたはずだったが、その痕跡はもうどこにも残っていなかった。場は乱れない。乱したものすら、そのまま飲み込んで整えてしまう。


閻魔は視線を落としたまま、手元の書を捌いていく。


ひとつ名を呼び、短く裁きを置き、次をめくる。その指先に迷いはない。だが、書を返すほんの合間、視線だけがわずかに横へ流れた。


意識の端で、確認する。


裁定の間の奥、黒い列の隙間を縫うようにして、道満の背が遠ざかっていく。両脇を固められ、腕を取られ、押さえ込まれたまま。それでも歩調は乱れず、抵抗の気配もない。力を使わないと判断した動きだった。


「……ふうん」


ほとんど息に紛れるような声が、喉の奥で小さく落ちる。


興味はある。あれがどういう経緯でそこに繋がっているのか、見ればおおよその構造は読める。だが、それをここで掘る必要はない。必要になれば、あちらから手が伸びる。


閻魔はすぐに視線を戻した。


「——で、これは」


目の前の亡者へ向けて声を落とす。ひとつ前の案件など最初からなかったかのように、意識は一瞬で切り替わる。


数件。


名を呼び、書を捌き、判を押し、短く裁きを下す。泣き声も、弁明も、恨み言も、その場で切り分けられ、紙の上の一行にまで圧縮されていく。誰の感情も拾わないまま、必要な処理だけが正確に残る。


その流れの合間、不意に閻魔が口を開いた。


「おい」


近くに控えていた部下が、即座に顔を上げる。


「は」


短い応答。


閻魔は視線を上げない。書を捲る手も止めない。ただ、次の記録へ目を走らせながら、ひどく軽い調子で言った。


「こはくに伝えといて」


筆先が紙の上を滑る。


「道満が裁定に来たよって」


さらりと落とされた一言に、部下の気配がわずかに張る。


空気は変わらない。列も止まらない。だが、その短い沈黙だけが、言葉の重さを正確に示していた。

部下は口を挟まない。


「承知しました」


ただ短く、それだけを返す。

閻魔はそこで、ほんの一瞬だけ手を止めた。


筆先が紙の上で止まり、乾いた広間にわずかな静止が落ちる。ほんの一拍。それから、何事もなかったように次の言葉が続いた。


「で、こはくが来るまで」


視線は書から上がらない。


「道満は捕縛」


事務的な声だった。感情も温度も乗らない、処理の一環としての命令。


「よろしくね」


最後だけ、少しだけ軽い。

だが、命じている内容に曖昧さはなかった。

部下は迷わない。


「は」


短く応じ、そのまま一礼して下がる。足音は小さく、すぐに広間のざらついた空気へ溶けて消える。指示はそのまま流れ、伝わり、処理される。滞りなく、引っかかりなく。


閻魔はすでに次の書へ視線を落としている。


「次」


乾いた声が、またひとつ落ちる。

裁定は続く。

何ひとつ止まらないまま。


「次」


閻魔の声が、変わらぬ調子で広間へ落ちる。


筆は止まらない。紙はめくられ、名は呼ばれ、裁きは滞りなく積み重ねられていく。乾いた広間に響くのは、判の打音と紙の擦れる音、それから短く切り落とされる声だけだ。誰かが泣こうと喚こうと、そのすべては場の重さに吸われ、輪郭を失って沈んでいく。


その流れの中に、ひとつだけ、静かな気配が差し込んだ。


「閻魔様」


低く抑えた声だった。


閻魔は視線を上げない。手も止めない。次の記録へ判を落としながら、気のない調子で返す。


「……なに」


「こはく様が到着されました」


その一言で、筆先が止まる。


ほんの一瞬。


紙の上に触れたまま、筆先だけが静止する。広間の空気は変わらない。亡者は列をなし、書は積まれ、炎も揺れている。だが、その一拍だけが妙に明確に場へ落ちた。


「……そっか」


閻魔が小さく息を吐く。


低く、短く、ほとんど独り言のような声だった。それから何事もなかったように筆を置く。乾いた音が小さく響く。


「はーい」


軽い声が落ちる。


たったそれだけで、広間の空気がわずかに変わる。張り詰めていたものが緩むのではない。ただ、次の動きへと切り替わる気配が静かに走る。


閻魔が顔を上げる。


高座から、広間全体を一度だけ見渡す。視線は長く留まらない。亡者の列、積まれた書、控える部下、裁定の流れ。そのすべてを一息で見て、確認は一瞬で終わる。


「じゃあ、今日の仕事はここまで」


あまりにもあっさりと告げる。

ざわめきは起きない。


だが、広間にいる全員が一瞬だけ動きを止めた。筆を持つ手、書を運ぶ足、亡者を押さえる指先。そのどれもがほんのわずかに静止し、すぐに意味を理解して流れを変える。


「道満の方、あとは俺がやるから」


付け足す声音は、事務的で、簡潔で、異議を挟ませない。

確認ではない。決定だった。


「お疲れ様」


軽く手を振る。

それだけで十分だった。


誰も問い返さない。誰も引き留めない。広間に張りつめていた緊張は、音もなく形を変え、終業の気配へと移っていく。書が閉じられ、列が散り、控えていた部下たちが静かに持ち場を解いていく。亡者を導く手も、書を抱える腕も、すべてが無駄なく次の動きへ移る。


閻魔はすでに立ち上がっていた。

衣擦れの音ひとつ、静かに落ちる。


高座を降りる足取りに迷いはない。そのまま、広間の奥へ向かって歩き出す。足音は軽い。だが、その背を呼び止める者は誰もいない。


目的はひとつ。


道満。


——ではなく。

その先に、もう来ているものへ。


閻魔の裁定中の話でした。

閻魔の側に仕えていた部下はサーラメーヤという犬の人外という設定があります。今後登場予定あります。

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