閻魔とこはく
地獄の奥まった一角に、ひとつだけ異質な静けさを保った空間がある。
裁定の間からは十分に距離を取り、業火の明滅も、亡者の呻きも、絶えず流れ続ける裁きの気配も、そこまでは届かない。地獄の内側にありながら、そこだけが切り分けられたように静かだった。音がないのではない。ただ、余計なものが何ひとつ入り込めないだけだ。空気は薄く均され、揺らぎがなく、ひどく静かで、妙に整っている。
こはくのために用意された部屋だった。
広くはない。だが狭さを感じさせる閉塞もない。壁も床も色を持たず、暗いはずなのに沈みきらず、光もないのに輪郭だけは曖昧に見える。余計なものは置かれていない。飾りも、意味を持つ道具も、視線を引くものもない。そこに在るのは、ただ“置いておける”だけの空間だった。
部屋の中央に、こはくがいる。
立っているのか、座しているのか、一瞬では判別がつかないほど動きがない。姿は人の形を取っている。細く、小さく、音もなく、ただそこに在る。何かをしているようには見えない。何かを待っているようにも見えない。ただ、その場に在るという一点だけで、空間の均衡がそこに寄っていた。
周囲の空気だけが、わずかに密度を変えている。
張っているわけではない。重いわけでもない。ただ、揺れない。地獄の奥底にあってなお、そこだけが均され、整えられ、余計な波を拒んでいる。こはくがそこにいるというだけで、部屋そのものの呼吸がひとつ静かになっていた。
扉が開く。
音は最小限だった。軋みもなく、擦れる気配もなく、ただ空間の輪郭だけがひとつずれる。
「……失礼」
閻魔が入ってくる。
声は軽い。いつもの調子だった。だが、扉をくぐった瞬間から、その視線だけはまっすぐにこはくへ向いている。部屋の空気を一度も見回さない。何がどう整っているかなど、最初から知っているような足取りで、そのまま中へ入る。
背後で扉を閉める。
音は小さい。だが、それで部屋の静けさは完全に閉じる。外の気配が切り離され、ここだけがまた独立した密度へ戻る。
閻魔は一歩、こはくへ近づく。
それだけで、空気がわずかに変わる。
均されていた静けさの中へ、異物ではない別の密度が滑り込む。重くなるわけではない。ただ、閉じていた空間に、もうひとつだけ呼吸が増える。
「さっそくありがとね」
気軽な声が落ちる。
返事はない。
分かっていて言っている。返らないことも、それで会話が成立することも、最初から織り込み済みだった。
閻魔は肩の力を抜いたまま、小さく息を吐く。
「驚いたよ」
口調は軽い。だが、視線は逸れない。
「流石に俺も処理困るわ」
冗談めいた言い方のまま、本音だけをそのまま置く。
こはくは動かない。
表情も、姿勢も、何ひとつ変わらない。だが、その変わらなさの中で、部屋の空気だけがわずかに均されたまま留まっている。
閻魔は少しだけ間を置いた。
こはくを見たまま、視線を外さず、次の言葉を選ぶというより、必要な順に置いていく。
「……あいつ何?」
声音がほんのわずかに低くなる。
軽さは消えない。だが、その内側にだけ仕事の温度が差し込む。
「生前の契約ってなってるけど」
把握はしている。記録も読んでいる。だが書面の情報だけでは足りない。足りるはずがない。地獄の裁定から引き剥がすほどの指示をつけた時点で、ただの生前契約で済む話ではなかった。
こはくは動かない。
沈黙が落ちる。
返答はない。だが、部屋の空気がほんのわずかに揺れる。
風ではない。熱でもない。目に見える変化ではない。ただ、均されていた空気の密度が、ひと呼吸だけ、静かにずれる。
閻魔の目が細まる。
「……あー」
小さく息を落とす。
理解する。
言葉ではない。最初からそういうやり取りだ。問えば、返る。音ではなく、揺らぎで。肯定も否定も、変化の向きだけで足りる。
「そういう感じ?」
確認するように言う。
こはくは変わらない。
だが、空気はそれ以上揺れない。
それで十分だった。
「……まじか」
苦笑が、喉の奥で小さく漏れる。
閻魔は片手で頭を軽く掻いた。呆れたような仕草のまま、その実、理解だけは早い。
「そりゃ面倒だわ」
ぼやく。
軽く言うが、声の奥には納得も混じっていた。面倒ではある。だが、理解はできる。理解できるなら、処理は早い。
閻魔はわずかに姿勢を崩した。
仕事の話へ戻る時の、いつもの癖だった。
「じゃあさ」
視線はこはくから外さない。
「引き渡しってことでいい?」
確認だけを置く。
決定ではない。ここで決めるのは自分ではないと、最初から分かっている声だった。
こはくは動かない。
その静けさのまま、部屋の空気だけが、ほんのわずかに整う。
流れが揃う。
肯定だった。
閻魔は短く頷く。
「了解」
それだけで十分だった。
条件は揃った。処理は終わる。
「じゃあ、連れてくるね」
軽く言う。
踵を返し、扉へ向かう。足音は静かで、ためらいもない。扉へ手をかけ、そのまま開く直前で、ほんの一瞬だけ動きを止める。
振り返らないまま、肩越しに言う。
「……あんまり増やさないでよ?」
冗談めいた声音だった。
返事はない。
分かっている。返らないことも、返らなくて十分なことも。
それでも言う。
閻魔は小さく笑い、そのまま扉の向こうへ消える。
音は最小限のまま閉じる。
静寂だけが残る。
閻魔とこはくは古い仲で距離感も近いです。
逆ハーレムのルートとして閻魔ルートも投稿予定なのでお待ちください。




