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影の牢

こはくは変わらず、部屋の中央に在る。


何ひとつ動かないまま、その空間だけが静かに均され続けていた。

扉の向こうにいたものを見た瞬間、道満はまず顔ではなく、その“変わらなさ”を見た。


人の形をしている。

白い衣、黒い帯、静かな輪郭。生前に見た時と寸分違わぬ、あまりにも変化のない姿。人は朽ちる。肉は衰え、骨は痩せ、目は濁る。生きていれば必ずどこかが削れる。だが、目の前のそれには一切ない。時を跨いだ痕跡が何一つ見当たらない。


その不自然さを認識した次に、道満は空気を見る。


重い、ではない。

濃い。


空間そのものに、静かに力が満ちている。満ちているのに溢れない。押し潰すでもなく、威圧するでもなく、ただそこに在るだけで、部屋の内側の密度だけが僅かに違う。生前に一度だけ間近で触れた感覚と同じだった。人の術理では測れず、異形の理に寄りすぎてもいない。ただ“そう在るもの”として均されている。


変わらない。

姿も、気配も、何一つ。


道満はそこでようやく、口の端をわずかに歪めた。


「……成程」


低く落ちた声は、呆れとも皮肉ともつかない。


「そういう回収か」


こはくは動かない。

返事もない。ただ部屋の中央に、最初からそこに置かれていたもののように在る。


道満は数歩手前で足を止めた。

逃げる気はない。逃げたところで意味がない。ここがどこであれ、目の前にこれが立っている時点で、逃げ道という概念自体が最初から成立していない。


背後で扉が閉じる。


「じゃ、引き渡すね」


閻魔の軽い声が、場に落ちる。


その瞬間だった。


空気が、反転する。


部屋の輪郭が音もなく崩れた。

壁がほどけ、床の境が沈み、整えられていた静かな一室が、まるで最初から虚像だったように剥がれていく。光が痩せ、色が落ち、視界の端から一気に黒が侵食する。


乾いた岩肌。

湿り気を持たぬ冷えた空気。

灯りのない洞の暗がり。

見上げる先も、足元の先も、奥行きの感覚だけが鈍く呑まれていく。


洞窟だった。


いや、洞窟に似せた何かだ。

岩壁には夥しい数の札が貼られている。古いもの、新しいもの、朱の褪せたもの、黒く焼けたもの。見える範囲だけでも数え切れず、視界の届かぬ奥まで、沈黙したまま貼り付いている。


息をするだけで分かる。

ここは空間ではない。


術だ。


より正確には、術の内側だ。

閉じた異界。囲い。檻。影を型にして作られた、逃がすためではなく留めるための場所。


影の牢。


道満は一度、静かに周囲を見渡した。

感心も驚愕もない。ただ、なるほどと現実を飲み込むように、岩肌と札の数を順に見ていく。


「……随分と手が込んでいる」


半ば感心したように言う。


「生前の契約ひとつにしては、過ぎた囲いだ」


こはくは何も言わない。

影の牢の中央に、変わらず立っている。白い姿だけが、黒の中で妙に静かだった。


閻魔はその横で、小さく肩を竦めた。


「まあ、そういう契約だったみたいだし」


いつの間にか手元には書面がある。

裁定の場で目を止めていた、あの一枚だった。紙質だけが妙に白い。地獄の記録紙とも違う、ひどく乾いた手触りのものを、閻魔は軽く掲げる。


「こはくからの添付。生前契約に関する補足書類」


道満の視線が紙へ落ちる。


閻魔は気軽な調子のまま、それを読み上げた。


「契約対象、芦屋道満。生前、契約締結済み。対価支払い済みにつき、死後の身柄、魂魄、術式一切の所有権を契約主へ譲渡」


淡々とした声が、洞の内に響く。


「死後、対象の身柄は契約主の式として再定義。召喚、使役、拘束、再封、術式行使に関する全権を契約主へ帰属」


一拍。


「対象の自由行使権は契約外につき没収。非召喚時は影牢にて保管。必要時のみ解放、召喚、使用を許可」


閻魔はそこで紙をめくり、続ける。


「以上。契約履行に伴い、対象は地獄の裁定、輪廻、刑罰の管轄外へ移行。以後、こはく管轄」


軽い声で読み終え、紙を閉じる。


「だってさ」


静かになる。


道満はしばらく何も言わなかった。

聞き漏らしがないようにではない。聞いた上で、どこまでが想定通りで、どこからが想定以上かを、頭の中で静かに切り分けている。


やがて、小さく息を吐く。


「……成程」


二度目のそれは、先ほどより少し低い。


「死後の一切を寄越せとは……よもや保管棚に並べられる側とはな」


口元がわずかに歪む。

笑った、というには乾きすぎた形だった。


それでも道満は荒れない。

怒鳴りもしない。喚きもしない。ただ目の前の白を見て、その変わらぬ姿を改めて眺める。


赤い目。

静かな顔。

生前から何一つ変わらぬ、手に届かぬものの形。


人ならざるものだと、今更のように思う。


生きていた頃、一度だけ手を伸ばして届いたつもりになった。

だが違ったのだ。あれは最初から、手を掛ける場所を与えられていただけだった。


道満は静かに目を細める。


「……そうか」


その声は、皮肉よりも納得に近かった。


「では、今後は我が主と呼ぶべきか」


その一言を最後に、こはくは動かなかった。

だが、肯定はそれで十分だった。


返事はない。

頷きもない。

ただ、空気がわずかに均される。


それだけで、道満は理解した。

今の言葉は受理された。拒絶も訂正もない以上、それはそのまま定着する。


我が主。


名を知らぬまま、生前に契り、死後に引き渡されたものへ向けるには、よく出来た呼び名だった。


その沈黙を合図にするように、洞の空気が静かに変わる。


岩肌に貼られた夥しい札が、音もなく震えた。


最初は一枚。

次に数枚。

やがて壁一面に貼り付いた符が、風もないのに微かに鳴る。紙の擦れる音が重なり、乾いた洞の内に細く響く。


道満の視線が、壁へ流れる。


札の端が持ち上がる。

朱の文字が淡く脈打ち、紙の影が岩肌から剥がれるように浮いた。


次の瞬間、影が伸びる。


札の下から滲み出た黒が、細く、長く、撚れながら空を這う。

縄だった。


一本ではない。

二本、三本、四本。

夥しい符の隙間から、黒い縄が音もなく滑り出る。生き物のようにうねり、地を這い、空を渡り、真っ直ぐ道満へ伸びてくる。


逃げようとは思わなかった。


逃げられないからではない。

逃げるという選択自体に意味がないと、最初から分かっていた。


目の前に立つものがこれである以上、ここで抗うことに価値はない。

これは戦いではない。契約の執行だ。


最初の一本が、手首に巻きつく。


冷たい感触だった。

縄でありながら、繊維の擦れではなく、影そのものが皮膚へ食い込むような冷えがある。


続けてもう一本。

逆の手首へ。

引かれる。


わずかに腕が開かれる。


肩が張る。

次に肘。上腕。胴。腰。

黒い縄は寸分の迷いもなく、最も効率よく動きを奪う位置を選んで巻き付いていく。締め上げるというより、余白を奪っていくような拘束だった。


足首に絡む。

膝裏を取る。

重心が崩れるより先に、別の縄が身体を支える。


立ったまま縛られる。


道満は抵抗しない。

ただ、自分の四肢から順に自由が失われていく感覚を、妙に冷静に見ていた。


術として美しい、とすら思った。


無駄がない。

暴れさせず、傷つけず、逃がさず、ただ確実に奪う。捕縛として、あまりに洗練されている。


胴を這った縄が胸を横切り、背へ回る。

喉には掛からない。呼吸は残す。

指は動かぬ。脚も動かぬ。視線と声だけが、かろうじて残される。


その均整の取れた不自由さに、道満はふと口の端を歪めた。


「成程」


縄が最後に肩口を締める。


「これが死後の厚遇というわけだ」


皮肉は乾いていた。

だが、声に荒れはない。


怒りではない。

嘲りでもない。

ただ、現実への評価として、それを口にした。


閻魔が小さく肩を揺らす。


「わりと丁重な方だと思うけど」


気軽に言う。

他人事の声音だった。


「輪廻にも流さない、罰にも落とさない、壊しもせず残す。地獄基準ならかなり優しいよ」


道満は鼻で笑う。


「それは結構」


縄が最後にひとつ、背から強く引かれる。


身体が後方へ引かれた。

踏み出す自由はない。膝も足も封じられている。崩れ落ちることすら許されず、ただ吊るすように姿勢だけを固定される。


洞の奥。

札の最も濃い場所へ、黒い縄が道満を静かに引いていく。


引かれながら、道満は正面を見る。


白い姿がある。

変わらず、そこに立っている。


白い衣。

黒い帯。

赤い目。

生前に見た時と何一つ違わぬ、人の形をした、人の理の外。


あの時も、届いたつもりだった。

力を引き出し、炎を得て、最強に至ったつもりでいた。

だが結局、手に入れていたのは力ではない。

触れられる位置に置かれていただけだ。

道満は拘束されたまま、静かに目を細める。


「……なるほどな」


誰へともなく、低く落とす。


「最初から、掌の上だったか」


こはくは答えない。

ただ、沈黙だけがある。


その沈黙のまま、黒い縄は道満を洞の奥へと引きずっていく。

札の群れの中央、最も深く、最も暗い場所へ。

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