表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/27

人の精神

影の牢が閉じる。


最後に残っていた黒が静かに沈み、洞の奥を覆っていた影が音もなく折り畳まれていく。

札の気配が薄れ、乾いた岩肌がほどけ、冷えた空気が抜ける。


視界の輪郭が戻る。


整えられた部屋。

平らな床。均された空気。こはくのためだけに用意された静かな一室。先ほどまで影の牢が口を開いていたとは思えないほど、何事もなかった顔で部屋がそこに戻っている。


白い姿だけが、変わらず中央に在る。


閻魔はその場で一度だけ息を吐いた。

確認するように、閉じた空間の名残を見やる。異常はない。封は落ちた。接続も安定している。影の牢は完全に閉じ、道満は内側へ収まった。


「……うん、問題なし」


軽く言って、肩の力を抜く。

それから、こはくへ視線を戻した。


先ほどまでと同じ、白い姿。

何も変わらない。何も揺れない。影の牢ひとつ閉じた程度では呼吸の乱れ一つ見えない、静かな顔。


閻魔はしばらくそれを見て、それから小さく息を吐いた。

 

「縛るには十分。使うにも問題ない」


軽い調子のまま言う。

だが、声音だけがほんの少し落ちる。


「あれは人間だ」


短く、はっきりと置く。


「身体や魂と違って、精神は契約で均せない。癖も執着も、そのまま残る」


視線はこはくから外さない。

言い聞かせるというより、確認に近い声音だった。


「そこが弱いし、同時に一番面倒なんだよね」


部屋は静かだった。

返事はない。

こはくは何も言わない。

いつも通り、沈黙だけが返る。


閻魔はそれを待たない。

待つ必要もない。言葉で返さないことも、その沈黙の中で何を通しているかも、とうに分かっている。


「……まあ、分かってるならいいけど」


ひとつ息を吐いて、声音をいつもの軽さへ戻す。

仕事の話は終わり。

そう切り替えるように、閻魔は軽く肩を竦めた。


「じゃ、俺は仕事戻るね」


あっさりと言う。


「未処理、まだ山積みだし」


半ば独り言のようにぼやいて、踵を返す。

扉へ向かう足取りに迷いはない。ここでやることは終わっている。引き渡しは完了した。あとはもう、地獄の管轄ではない。


扉の前で手をかける。

そのまま一拍だけ止まり、閻魔は振り返らないまま口を開いた。


「増やすなら、次は事前申請でお願いね」


軽口めいた調子。

冗談のようで、半分は本音だった。

返事はない、それで十分だった。


閻魔は小さく笑って扉を開く。

音は最小限。漏れ込む外気は冷たくも熱くもなく、ただ仕事の匂いだけを運んでくる。


「じゃ、お疲れ」


最後にそれだけ落として、閻魔は部屋を出る。

扉が閉まる。

音が消える。

静寂だけが残る。


こはくは、変わらずそこにいた。



 

裁定の間へ戻る頃には、広間はすでにいつもの呼吸を取り戻していた。


亡者は絶えず運び込まれ、列をなし、名を呼ばれ、裁かれ、流れていく。先ほどまで一度解かれたはずの場は、もう最初からそうであったかのように整い直されている。書が擦れる乾いた音、筆が走るかすかな音、判が落ちる鈍い打音。その繰り返しだけが、広く黒い空間の底を一定の律で打ち続けていた。


閻魔が戻っても、誰も顔を上げない。


上げる必要がない。戻ることも、戻った後に何を言うかも、最初から決まっている。控える部下は持ち場を乱さず、記録官は手を止めず、亡者を運ぶ者たちもまた流れを崩さない。ただ、ひとつだけ、裁定の卓に近い位置で控えていた部下が足を進めた。


手元の記録を抱えたまま、玉座の脇で静かに止まる。


「閻魔様」


低く呼ぶ。


閻魔は高座へ戻りながら、片手で衣の裾を払った。歩きながらでも視線はすでに書の山へ戻っている。


「なに」


気のない声が返る。

部下は一枚、記録を差し出した。


「未処理の裁定が一件」


その一言だけで、周囲の空気がほんのわずかに引っかかる。


止まるほどではない。誰も手は止めない。だが、近くにいた数名の気配だけが、ごくわずかに張った。“未処理”は、この場では本来、存在しない。処理しきれないものが残ること自体が例外だった。


閻魔は記録を受け取る。

視線を落とし、紙面を一瞥する。確認は一拍で足りた。


「あー」


軽く声が漏れる。

理解した、というだけの響きだった。

紙をひらりとめくり、必要な箇所だけを見て、閻魔はそれをそのまま部下へ返す。


「これね」


声音に特別な重さはない。いつもの調子のまま、ただ処理だけを置く。


「こはくに引き渡し」


あまりにもあっさりとした指示だった。

部下の目が、ほんの一瞬だけ瞬く。

だがそれも一拍で消える。表情はすぐに戻り、受け取った記録を抱え直す。


「……は」


短い応答。

閻魔はもう次の書へ手を伸ばしていた。視線も戻らない。紙を返した時点で、その件はもう“終わったもの”として処理されている。


「俺らはもう管轄外」


付け足すように、軽く言う。

軽い声音だった。だが、その一言で線引きは明確に引かれる。

ここから先は、地獄の裁定ではない。

誰が触れるべきで、誰が触れないべきか。それだけが簡潔に示される。

部下は深く一礼した。


「承知しました」


それ以上は聞かない。

紙を抱えたまま静かに下がる。足音はすぐに広間のざらついた空気へ溶け、書の擦れる音の中へ紛れて消えた。


裁定は止まらない。

亡者は呼ばれ、名は記され、裁きは流れる。

ただ、その記録だけが、もうこの場のものではないものとして切り離されていた。

誰も口には出さない。


だが知っている。

あれはもう、地獄の仕事ではない。

閻魔は何事もなかったように判を押す。

乾いた音がひとつ、広間へ落ちる。


「次」


またひとつ名が呼ばれる。

裁きは続く。

何も止まらないまま、ひとつだけが静かに、この場の外へと出されていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ