過去編 清明の独白、そして生を閉じる
道満は昔から、少し手つきが危うかった。
子どもの頃からそうだった。
札を組む手は器用で、術の綴じ方も巧く、呪の通し方は私よりよほど手数が多い。地を這うように術を伸ばし、見えない澱みを拾い上げ、形になる前の歪みを掴むのが上手かった。私には見えぬものを、あれはよく見つけた。
だから、惜しいと思っていた。
惜しい、という言葉は道満に言えば怒るだろうが、他に言いようがない。
あれはずっと、あと半歩だけ手前で止まれればよかった。踏み込めるだけ踏み込む才があり、届くだけ届いてしまう目があって、それでもなお、踏み越えてはならぬところの見極めだけが少し甘い。
危ういと思っていた。
だが、止めねばならぬほどではないとも思っていた。
道満は人に術を使う。
芦屋は昔からそういう家だ。依頼があり、理が通り、金が積まれるなら、人にも異形にも同じだけ札を切る。安倍はそれを好まない。人へ向ける術は歪む。人の怨みは異形より面倒で、後を濁す。そう教わって育った。
道満は、それを気にしない。
それで何度も口を挟んだ。
やめろとは言わなかった。あれは言えば余計に噛みつく。だからせめて、引き返せぬところまで行くなとだけ言った。人を折る術と、人を消す術は違う。そこを違えるなと、何度か言った覚えがある。
聞いていたかどうかは分からない。
あれは昔から、聞いていないようで変なところだけ覚えている。
露見したのは、ひどくつまらない違和だった。
都へ上がる文の流れが一つ、不自然に滞った。
本来なら通るはずのない家から、陰陽寮を経ずに妙な依頼が落ちていた。呪詛返しにしては手間が多く、祓いにしては術式が深い。人へ向けるには癖が強く、異形へ向けるには余計な綴じが多い。
見覚えがあった。
札を見れば分かる。
線の癖、綴じの重ね方、呪の逃がし方。道満の札だった。
上手い、と思った。
昔よりずっと巧妙で、表から見れば祓いに見える。知らぬ者なら通しただろう。人を折るところまでは、まだ誤魔化せる。だが、あれは一枚深い。折るための術ではなく、息を止める札だった。
道満らしいとも思った。
手数が多く、綺麗で、余計な一枚がいちばん深い。
私は術を解いた。
難しくはなかった。
癖を知っていた。あれがどこで綴じ、どこで呪を逃がし、どこに核を置くか、私は昔から知っている。子どもの頃から何度も横で見た手つきだった。見慣れた綴じ目を剥がし、噛み合った呪を外し、核を抜けば、札は静かにただの紙へ戻る。
あっけなかった。
解けた札はそのまま証になり、依頼主は炙られ、名は露見した。
芦屋道満の名が表へ出るまで、そう時間はかからなかった。
私は道満に会いに行かなかった。
行って、何を言うのか分からなかった。
やめろと言うには遅い。なぜだと問うには、あれはもう依頼だからと答えるだろう。言い返される前から、答えは分かっていた。
だから行かなかった。
言葉を交わせば、たぶんあれは噛みついただろう。
私はそれを受けただろう。そうして最後まで、いつものように言い合って終わる。だが、それでは駄目だった。
止めるなら、止めねばならなかった。
友を庇うためではない。
だが、友だからこそ、そこで止めねばならなかった。
あれに人を殺させたくなかった。
善悪の話ではない。
法の話だけでもない。
人を一人呪で殺せば、次は早い。あれは手つきが良すぎる。理屈を立て、必要を積み、いずれ躊躇なく切るようになる。それは、あれに向いていない。
向いていない、というのも変な話だな。
出来るだろう。あれはやれる。やれてしまう。だからこそ、やらせたくなかった。
追放が決まったと聞いた時、驚きはなかった。
当然だろうと思った。軽く済むとも思わなかった。
顔は合わせなかった。
あれが都を離れる日も、私は見送らなかった。
門へ行けば、たぶんあれは笑っただろう。嫌味の一つも寄越しただろう。私はそれに何か返したかもしれない。そうしてしまえば、きっと駄目だった。
だから行かなかった。
それきりになった。
風の噂に、芦屋道満の名はしばらく残った。
地方で異形を祓った、山の社を鎮めた、海のものを退けた、妙な豪族の屋敷から呪が消えた。そういう話だけは、都にも流れてきた。
生きているのだろうと思った。
相変わらず面倒なことをしているのだろうとも思った。
それでよかった。
またいつか、ふらりと都へ戻ってくるのではないかとも、少しだけ思っていた。
門柱にもたれて、昔のような顔で立っていて、朝から人の札に文句でもつけるのではないかと。
来なかったが。
それでも私は、最後まであれを友だと思っていた。
山あいの社は、朝から湿っていた。
昨夜の祓いの名残で、空気にまだ薄く焦げた匂いが混じっている。石段の脇に積んだ札は半分ほど使い切り、残りを指で揃えながら、道満は次の綴じを考えていた。
「聞いたか、安倍清明が――」
背後で声が落ちる。
旅の祓い屋か、荷を担いだ男が、誰にともなく言った。
「静かに、だそうだ。天も乱れず、暦も狂わず……あの男らしい」
道満の指が止まる。
札の端を押さえたまま、次の一手に移らない。
紙は湿気を吸ってわずかに反り、爪の先で撫でれば戻る程度の歪みだった。
それだけだった。
「……そうか」
誰に向けるでもなく、声が落ちる。
男たちはそれ以上何も言わず、足音だけを残して去っていく。
道満は札を一枚抜き、静かに折る。
綴じはいつも通り、狂いなく重なる。呪は逃げず、紙の内で整う。
手は動く。
動くが、一拍だけ遅れる。
その一拍が、やけに長い。
あの白い顔が、ふと浮かぶ。
門柱にもたれて、妙に真っ直ぐな目でこちらを見る顔。腹の立つほど濁りのない声音で、どうでもいいことを言う声。
「……猫に起こされた、とでも言うつもりか」
口の端が、わずかに歪む。
すぐに戻る。
道満は札を束ね、袖へ差し入れた。
立ち上がり、石段を下りる。湿った土の匂いと、祓いの後の静けさが、いつもと変わらずそこにある。
何も変わらない。
ただ一つ、噛みつく相手がいなくなっただけだ。
道満は振り返らない。
そのまま歩き出し、次の祓いへ向かった。




