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過去編 陰陽師、道満と清明

都の外れ、陰陽寮へ続く石畳は朝のうちだけ妙に静かだった。

夜の湿気を残した石の上を、式札を抱えた下役が足早に行き交う。記録蔵へ向かう者、祓いの報告を抱える者、寝不足の顔で呪具を運ぶ者。朝靄の薄く残る門前にだけ、人の世らしい忙しなさがあった。


その門柱にもたれ、道満は待っていた。


待つ、というほど律儀な姿勢ではない。

ただ通る時刻を知っているから、その時間にそこへ立っているだけだ。袖に腕を差し込み、半ば閉じた目で行き交う下役を眺めている。道を塞ぐ気はない。だが、避けられる位置にはきっちり立っていた。


やがて、白い狩衣が見えた。


安倍清明は朝靄の向こうから歩いてくる。

いつも通り、急ぎもせず、遅れもせず、妙に整った足取りで。袖も裾も乱れていない。徹夜明けのはずだと聞いていても、顔色一つ変わらないこともある。眠っていないのではなく、乱れないだけなのだろうと、道満は思っている。


清明は道満を見ると、素直に足を止めた。


「おはよう、道満」


挨拶の声音に何の含みもない。

嫌味も警戒もなく、ただ本当に朝だからそう言っただけの声だった。

道満は薄く目を開ける。


「朝から精が出るな、安倍清明」


声は平坦だった。 


「寝所で式にでも起こされたか」


「いや」


清明は少し考えてから首を傾げた。


「猫だ」


「……は?」


「庭にいた。腹が減っていたらしい」


清明は本気でそう答えた。

道満は数拍黙り、それから鼻で笑う。


「猫に起こされて、そのまま出仕か。お優しいことだ」


「腹を空かせていたからな」


「そうか」


話が滑る。

皮肉を差し込んでも、そのまま素通りしていく。道満は毎度それを面倒に思いながら、同時に少しだけ腹立たしく思っていた。引っかからないのではない。引っかかった上で、そのまま真っ直ぐ返してくる。


清明は道満の横で立ち止まったまま、ふと門柱を見る。


「少し傾いているな」


「何がだ」


「門柱」


清明はそう言って門柱へ手を伸ばした。

その指先が木肌へ触れる寸前、道満の袖の内で指が動く。


仕込んでいた札が、門柱の影から滑った。

薄い紙片が音もなく清明の足元へ落ち、術式が開く。影縫い。足元の影を縫い止め、半歩でも動けば呪を絡め取る拘束の術。朝の挨拶代わりには十分だ。


術は開いた。


清明の足元で影が立ち上がる。

細い黒が脚へ絡み、足首を縫い留める。


下役の一人が息を呑む。

門前の空気が一瞬だけ止まる。


清明は足元を見下ろした。


「ああ」


それだけ言って、普通に一歩踏み出した。


影が裂ける。

縫い留めたはずの術式ごと、紙を裂くように呪が破れた。拘束の要は足ではなく影にある。普通なら踏み出した時点で術が噛む。だが清明は何でもない顔で歩き、影縫いの核そのものを引き千切っている。


道満は眉一つ動かさない。


「人の術を雑に踏むな」


「そういう術だったのか」


「そういう術だ」


「悪い」


悪いと思っている声だった。

本当に仕組みを知らずに踏んだ時の顔だった。


道満は黙る。


清明は裂けた札を拾い上げ、破れた紙面を見る。

術式の癖を一瞥し、少し考え込むように目を伏せる。


「ここ、綴じが甘いな」


そう言って、清明は札の一角を指で折った。


霊が走る。


紙片が、道満の袖の中で弾けた。


「……っ」


鈍い音とともに袖口から黒煙が噴く。

仕込み札が連鎖で暴発し、道満の腕に巻いていた予備の呪符が一斉に焼け落ちる。熱はない。ただ術式だけが正確に死ぬ。封、隠し、咄嗟用の迎撃、全部まとめて核を潰された。


道満はゆっくり自分の袖を見る。

焦げている。術だけが綺麗に死んでいる。


清明は札を返しながら首を傾げた。


「こっちの方が綺麗に切れる」


悪意のない声だった。


「次はそうするといい」


道満は札を受け取らない。


「朝から人の袖を焼いておいて、よく言う」


「焼いたのは袖ではなく術だ」


「なお悪い」


清明は少し考え、それから素直に頷いた。


「そうかもしれない」


本気で納得した顔だった。


道満は目を細める。

門前の朝靄はもう薄い。下役たちは息を潜めたまま、どちらを見ていいか分からず立ち尽くしている。


清明は何事もなかったように門へ向き直る。


「では、行くか」


「どこへだ」


「中だが」


清明はそう言って、当然のように歩き出す。

道満の横を通り過ぎ、何事もなかった顔で陰陽寮の門をくぐる。呼び止める間もなく、白い背は朝靄の向こうへ消えていく。


門前に残された道満は、焦げた袖口を見下ろし、小さく息を吐いた。


「……あれで悪気がないのが、いちばん質が悪い」




幼い頃の道満は、今より幾分ましな顔をしていた。


愛想が良かった、という意味ではない。

可愛げがあったわけでもない。目つきは昔から妙に悪く、言葉も子どもらしくなく、勝ち負けにひどく敏かった。ただ、今ほど拗れていなかった。まだ、自分の癇癪の置き場が外に向いていた頃だ。


安倍と芦屋は、昔から折り合いが悪い。


どちらも古く、人の理の外を覗く家だったが、覗き方が違った。

安倍は天を読む。流れを見て、兆しを掬い、理を整える。

芦屋は地を穿つ。澱みを暴き、歪みをこじ開け、隠れたものを引きずり出す。


同じものを見ていても、手つきが違う。

同じ異形を前にしても、安倍は鎮め、芦屋は暴く。相容れるはずもなく、顔を合わせれば昔から互いに嫌味の一つは飛んだ。親の代からそうだったし、その前からたぶんそうだった。


だから子ども同士も、まあそうなる。


初めて顔を合わせたのは、まだ二人とも背丈の低い頃だった。

陰陽寮の端、下役も寄りつかぬ記録蔵の裏手。積まれた古札と壊れた呪具の山に、道満は先にいた。使えなくなった札の綴じ方を剥がし、まだ使える術式だけを拾っていた。子どもの手でやることではないが、そういう子どもだった。


そこへ清明が来た。


静かな子どもだった。

妙に整っていて、子どもらしい落ち着きのなさがない。足音も立てずにふらりと来て、道満の手元を覗き込んで、開口一番に言った。


「そこ、まだ使える」


道満は顔を上げた。


同じ年頃の子どもが、自分の拾っていた札を指差していた。

言い方が気に障った。


「見れば分かる」


「綴じが甘い」


清明は気にした様子もなく札を一枚取る。


「ここを折ると術が逃げない」


言うなり勝手に人の札を折り、道満が拾った術式を勝手に組み直した。


動く。

さっきまで死んでいた札が、きちんと息を吹き返す。


道満は黙る。

清明は札を見て、それから道満を見る。


「お前、上手いな」


まるで空の色でも言うような声だった。

媚びも張り合いもなく、ただそう見えたから口にしただけの声音。


道満は眉を寄せる。


「喧嘩を売っているのか」


「いや?」


「安倍のくせに」


「芦屋のくせに、の方が先ではないのか」


道満はそこで初めて、目の前の子どもが誰かを知った。


安倍の子だ。


顔立ちが気に食わないと思った。

なるほど、と思った。妙に腹が立つ理由が腑に落ちた。


「帰れ」


「まだ札がある」


「それは私が拾った」


「半分やる」


「要らん」


「そうか」


そう言いながら、清明はきっちり半分置いていった。


それが最初だった。


仲が良かったのかと言われれば、たぶん違う。

顔を合わせれば道満は噛みついたし、清明は毎回少し不思議そうな顔をした。芦屋の子が安倍の子に喧嘩腰なのは家の空気として当然で、道満自身も、清明を見ればまず気に食わなかった。


それでも妙に顔を合わせた。


陰陽寮の隅、記録蔵の裏、使い終えた呪具の置き場、誰も使わぬ中庭、池の縁。清明はふらりと現れ、道満が何かしていると覗き込み、勝手に口を出し、道満が機嫌を悪くするまでが一連だった。


「その札、線が多い」


「黙れ」


「多い方が好きなのか」


「黙れと言っている」


「そうか」


そう言いながら清明は隣に座る。


道満は嫌そうな顔をしながら、追い払わない。


親同士の仲は最悪だった。

顔を合わせれば嫌味が飛び、術式の組み方一つで口論になり、宴の席では笑顔のまま刺し合っていた。芦屋は安倍のやり方を綺麗事だと言い、安倍は芦屋の手つきを品がないと笑う。子どもが隣にいる時ですら、互いに一言多かった。


だから当然、道満が清明とつるんでいると芦屋の大人は露骨に嫌な顔をした。

安倍の側も同じだった。あの芦屋の子は目つきが悪い、言葉が悪い、手癖が悪い。近づくなと、遠回しに、時にはそのまま言われた。


それでも、二人は顔を合わせた。


家同士の不和など、子どもには案外どうでもいい。

いや、どうでもよくはない。きちんと腹は立つ。親が嫌う理由も分かる。分かるが、それとこれとは別だった。


気に食わない。

だが、話は通じる。


癪に障る。

だが、術の話は早い。


腹が立つ。

だが、同じものを見ている。


子どもの頃の二人は、たぶんそこにいた。

仲が良いわけではない。だが、気づけば同じ場所にいる。家同士は最悪で、親同士も最悪で、それでも子どもだけが、妙に自然に同じ札を覗き込んでいた。

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