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炎を得た道満、命が尽きるまで

それから道満は、ただ黒い炎を振るう。

 

人を焼き、術を焼き、結界を焼く。

気に入らぬものを焼き、邪魔なものを焼き、立ち塞がるすべてのものを焼き尽くしていく。

 

まさに、好き放題だ。

 

奪い、捻じ伏せ、踏み潰す。己の才が新たな牙を得たかのように、彼は黒い炎を振るい続ける。

そのたびに、脳裏をよぎるのはあの洞の記憶。

山の腹、湿った岩肌、妖しく光る赤い目、そして、白い龍。

 

何度か、道満は再びあの山へと足を運んでいる。

同じ峰を辿り、同じ空を見上げ、式神を飛ばして山を隅々まで探る。だが、あの洞は二度と見つからない。岩肌の裂け目も、満ちていた湿った空気も、山の腹にあったはずの社も。あの日、確かに存在した場所は、世界のどこにも見当たらない。

式神は行く手を惑わされ、山を無意味に巡り、何も見つけられずに戻ってくる。

道満は眉を顰め、やがて、鼻で笑う。

 

——まあ、いい。

もう力は手に入れたのだ。

追う必要も、探す必要もない。洞が消えようが、神が隠れようが、知ったことか。

 

掌を開けば、黒い炎はいつだって傲慢に応える。それで十分だ。だから道満は、それ以上は追わない。

契約は結ばれ、力は得た。対価は払ったつもりでいる。

 

血を落とした。名を差し出す覚悟もあった。何でもくれてやると、確かにあの時、口にしたのだ。それで、すべては済んだのだと。

こはくと契約を結んで以降、道満の辞書から“負ける”という感覚は完全に消失している。

 

都を離れたのちも、その名は衰えるどころか、ますます色濃く、人々の口に残り続けている。

芦屋道満の名は、都の外、地方の豪族の社、山間の寒村、お上の祓いが届かぬ僻地で、祓師も役人も手に負えぬ怪異が現れるたびに呼ばれる。名の売れた陰陽師とは、そういうものだ。都に立つ者だけが名を持つわけではない。都から遠ざかるほど、その名はむしろ畏怖と共に深く、濃く、土地に染みついていく。

 

呼び声に応じ、彼は異形を祓う。

 

山を食らう巨大な影。人の形を覚え、夜ごと子を攫う陰惨な瘴気。社の奥に根を張り、土地神の名を騙って血を啜る、おぞましき古きもの。海沿いでは、潮と共に寄せる怪異が舟を沈め、山裾では、祓われ損ねた何かが死体の皮を被って這い回る。

 

そういうものを、道満はただ、等しく焼く。

札を切り、名を縛り、境界を定める。その中心へ、容赦なく黒を落とす。

 

火は激しく燃え上がることもなく、ただ静かに、すべてを呑み込んでいく。術も、瘴気も、異形の核も、怨念の祟りも。悲鳴すら上げられぬまま黒に沈み、跡形もなく消え去る。火が通り過ぎた後には、灰すら残らない。まるで、最初からそこに何も存在していなかったかのように、ただ綺麗な「空白」だけが、ぽっかりと取り残される。

 

あまりにも、強い。

それは到底、人の紡ぐ術ではない。

札の形に整え、術式へと落とし込んで、指先一つで扱えるようにしてなお、これが人の手に余る神域の力であることは明白だ。封じる必要も、力を削る必要もない。ただ、落とせばすべてが終わる。盤面を読み解く必要も、手順を重ねる必要もない。祓いという行為は、呆気ないほどに簡略化されていく。

 

上位の存在すら、容易く焼ける。

人の世に近づきすぎたもの。神域を踏み外し、土地を食らい、祀りを歪めた古き怪異。名のある大妖怪、圧倒的な力を持つもの、祓うには数代を要すると言われた化け物すら、黒い炎は等しく呑み込む。相手が誰であろうと関係ない。どれほど古かろうと、強かろうと、黒は慈悲なくすべてを沈める。

 

捕縛もまた、児戯に等しい。

祓うには惜しいもの、殺せば後腐れが残るもの、都への手土産にすべき厄介事。そういう手合いは焼き切らず、半身だけを黒に浸す。脚を奪い、腕を落とし、ただ声だけを焼き払う。殺さず、徹底的に心を折る。かつてあれほど骨の折れた捕縛の術が、黒を得てからは拍子抜けするほど容易い。

 

人間相手とて、何も変わらない。

祓いを依頼する側が、必ずしも善良なわけではない。支払いを渋る強欲な豪族もいれば、異形よりも醜い顔で笑う者もいる。力を恐れながら、同時にその力を欲しがる愚か者も絶えない。

そういう連中には、一度だけ、見せつければそれでいい。

 

札の端を、ほんの少しだけ黒く焦がす。

それだけで十分だ。頑強な屋敷の柱が音もなく消え去り、庭石が影のように崩れ落ち、脅しのために抜かれた白刃が柄ごと黒に沈む。人間は、異形ほど愚かではない。自分が次に焼かれる番だと理解した瞬間、それ以上は決して踏み込んでこなくなる。

 

何でもできる。

祓いも、殺しも、脅しも、捕縛も。

道満の手に余るものなど、この世から一掃されている。札は足り、術は届き、異形は焼け、人は恐怖に黙り込む。かつて血を吐く思いで欲した“勝てる札”は、あまりに容易く、すべての闘争を終わらせていく。

 

そして——何も、残らない。

 

強くなったという確かな実感はある。

当代最強と、誰に憚ることなく呼ばれて差し支えないほど、目の前から敵が消え去っていく。この人の世において、道満の進撃を止められる存在など、もうほとんど残されていない。少なくとも、人の理の内側には。

 

それなのに、胸の奥を占めるのは、妙な空虚さだ。

術を幾重にも重ねる手応えがない。

相手の出方を読む楽しみがない。その術理を崩す愉しみもない。工夫も、命懸けの駆け引きも、相手の一手を読んで先回りする意味さえも、黒を得てからはひどく色褪せていく。盤面を根こそぎひっくり返す絶対の札とは、そういうものだ。勝負の場にあるすべてが、等しく価値を失い、軽くなる。

 

勝てるようになったのではない。

勝負にすら、ならなくなったのだ。

 

その残酷な事実に気づいた時、道満は独り、狂ったように笑う。

ようやく手に入れた至高の力が、自分が本当に欲していた「魂の躍動」を丸ごと奪い去っていく。皮肉としては、これ以上ないほど出来が良い。

 

もう、都へ戻る気は起きない。

戻ろうと思えば、いつでも戻れる力がある。あの清明のすました顔に、一度くらい、驚愕の色を差してやることもできただろう。あの男の前に立ち、札をただ一枚、見せるだけでよかった。黒い炎を見せつければ、あの完璧な盤面もようやく覆せたはずだ。

 

それでも、道満の足は都を向かない。

見せれば、そこで全てが終わってしまうからだ。

清明を殺すつもりなど毛頭ない。ただ、勝ちたかっただけだ。だが、この黒い炎はその境界を曖昧にする。一度向ければ最後、勝負ではなく、盤面ごとすべてを焼き尽くし、終わらせてしまう。

それは、道満が焦がれた「勝利」ではない。

 

だから結局、彼はその札を使わない。

清明には一度も向けず、一度も見せず、そのままの距離で、終わりへと向かっていく。

 

こはくにも、二度と会うことはない。

探さなかったわけではない。ただ、どうしても見つからないのだ。あの存在は、最初からそういうものなのだろう。見つけられる時だけ見つかり、現れる時だけ現れる。

 

契約の呪縛は確かに残り、黒い炎は今も手元にあり、術は狂いなく通る。それで十分だとでも言うように、あの白い龍はその後、一度として姿を見せない。

呼ばれもしない。

訪れもしない。

ただ、圧倒的な力だけが、彼の掌に取り残されている。

まるでこの契約そのものが、最初からこれだけを目的としていたかのように。

 

道満はその力を、ただ使い続ける。

異形を焼き、人を黙らせ、上位の存在を折り、何でもできる全能感のなかで、何一つ変わらぬ空虚な日々を、死の淵へと向かって重ねていく。

 

強い。

だが、ひどく空虚だ。

それでも、この力を手放す理由など、どこにも見当たらない。

 

——そして今、道満の生が、静かにその終焉を迎えようとしている。

視界がかすみ、指先から黒い炎の熱が失われていく。かつてあれほど世界を焼き尽くした男の、あまりに静かな最期。

 

だが、意識が完全に闇へと沈み、呼吸が止まったそのとき。

道満は、もう一度こはくを見ている。

死という境界を越えた今、今度は契約の「本当の続き」を、その対価を、支払う側として。

 

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